美人 -Queen of the Night-

最終話

 隣を歩く。
 昔神社だった頃の名残みたいな手水舎があり、打ち捨てられた柄杓が転がり
、苔むした潅木が植わり、奥のほうにはお社がひっそりとしたただ住まいを見
せ、そしてご神体だったという巨樹の切り株がある。それが庭の景色だ。ああ、
違う。もう一つ場違いなものがあるにはあるが、とりあえず置いておこう。
 庭は管理だって行き届き、掃除だって丁寧で、ほんとうなら落ち着く場所な
のだと分かっている。でも、なぜか私は庭の景色が嫌いだ。何か大きなものが
ぽっかりと抜け落ちてしまったようで、それを思い出そうとすると吐き気がす
る。庭を管理する姉さんだって、庭の仕事を私に頼むことはない。ただ、たま
にこうやって私を連れて庭を散歩する。
「彩花さんはこの庭、好きになった?」
 そんな私を見透かしたような声がかかる。
「嫌いではないですが、苦手というか、気持ち悪いというか……申し訳ない」
「そう、ですか」
 姉さんの笑顔に私のため息。せっかく姉さんが私を庭に案内してくれている
というのに、どうしてこんなにも嫌な気分になってしまうのだろう。つくづく
自分が嫌になる。
「あの場所なら少しだけ、心が落ち着きます」
 私は多分、ここで何かを失ったのだ。
「なら彩花さん、行きましょうか」
 姉さんが切り株から向き直り、足を進める。行く先はこの庭では場違いにし
か見えない温室だ。立派なつくりをしているのに、中には鉢が二つだけ。そこ
だけが唯一、庭の中で心の休まる場所。いや、ただ単純に周囲が見えないから、
かもしれない。
 温室の扉を開ける。熱いくらいの空気が肺を満たす。
「不思議ですね。こんなに立派なのに、丸っこいサボテンと、それから」
 広すぎる温室にたった二つしかない鉢。一つは球サボテンだ。特に植物には
興味のない私だけれど、そのサボテンだけはずっと見ていたいような気分にな
る。
「もう一つは、これですね」
 姉さんが鉢を少しだけ持ち上げる。そこには昆布みたいな葉っぱが直接突き
刺さり、場違いなほど巨大な蕾がついている。サボテンの仲間だというが、ト
ゲは見えない。その植物の名前はとても幻想的な名前で、月下美人、そう呼ば
れている。英語で言えば「Queen of the Night」。夜、女王宮のテラスに立つ
気品溢れる女王、というところだろうか。私も花を見たことはあるが、その気
高さと高貴さは忘れることが出来ない。
「そういえばお姉さんはまだ月下美人の花が咲いたところを見ていないんです
よね」
「うん、ずっと病気でしたから、私は」
 そうだ。姉さんは半年前までは目も見えなければ言葉も発せなかった。歩く
ことも叶わなかった。
「きれいなんですよ、大きな花で」
 いつ見たのかわからない月下美人の花を思い出して、姉さんに告げるそう、
月下美人の花は夜に咲くのだけれどとてもきれいで、大きくて、そして
「……とてもいい香りがするんですね。彩花さん」
 え。
「どうして」
「香りだけは……記憶しているんです」
 見てもいないのに、香りだけを知っているなんて不思議な人だ。
「彩花さんの好きなサボテンも大きくなりましたね」
 不意にお姉さんが私の肩に手をかける。
「はい、おかげさまで」
 何の変哲もないサボテンだ。姉さんに促され、鉢を手に取る。
 ちくっ。トゲが手に触れた。
「あっ」
「大丈夫ですか、彩花さん」
 そのちくりとした痛みがつらかった。ほんの少し血がにじんだだけなのに、
なぜかものすごく悲しい気持ちになって、押さえ切れなくなって、泣いた。
「彩花さん、どんどん泣いてください」
 姉さんが私を包み込む。その匂いが、何かと結びつこうとする。
「お姉さん、私」
 何を言いたいのか自分でも分からない。頭が割れそうだ。でも、今形にしな
ければ一生、後悔する。だから
「大切なものを、なくしたような気がするんです」
 なんとか出てきた言葉を必死で形にする。
「大切なもの、ですか」
「……はい」
「彩花さん。そのサボテンはどこで買ってもらったんですか」
 ずっと昔からあった、はずがない。
 私がここにきたのはほんの半年くらい前だ。ずっと昔なんて言葉がおかしい。
「買ってもらったんですね、誰かに」
 そうだ。口を開けば理屈っぽくて、皮肉ばっかりで、そのくせ見えないとこ
ろで気を遣って、そんな人だった。
「彩花さんはその人のこと、大好きですか」
 そんなこと、聞かれなくてもわかっている。ややこしい理屈とか、論理とか
じゃない。
「はい、大好きです」
「ありがとうございます、彩花さん」
 ああ、そうか。姉さんもその人のことが大好きなんだ。
 これだったんだ。刺さったトゲが痛くて痛くて仕方なかった理由。
「姉さん、私、哲也を」
 それが私と姉さんの失った人の名前。

 実は弟たちのほうが私より先に哲也のことを思い出したらしい。なぜだ。姉
さんに負けるのは分かる。血は水より濃い。だが、弟たちのほうが私よりも哲
也を思う力が強かったというのは納得できない。もしや私という彼女を差し置
いて哲也は弟たちに二股をかけていたのか。まさか哲也と弟たちがそんな不埒
な関係にあるのか、実に許しがたい。帰ってきたら毎晩説教してやろう。
 ともかく、その日から私は哲也がいるように振舞った。食卓に箸を並べ、ク
ラスには誰も座らない席を用意し、班分けでも哲也の枠を開けた。不思議な眼
で見られるのは一瞬でなれた。そもそも、哲也ほど目立っていなかった生徒を
思い出させるという作業だ。長丁場になることくらい覚悟の上だ。私だけが苦
労するのも許しがたいので哲也が帰ってきたら毎日買い物に付き合わせよう。
 そして転機は突然だった。
 調理実習だ。家庭科室はこの学校で一番古い建物だけあって、実習室の備品
はとにかくぼろい。火のつかないコンロがあったり、水の出が悪い蛇口があっ
たりする。ガスの元栓を捻ったときだ。
「あーこれもダメだ。こんなとき、あいつがいたらなあ」
 背中から聞こえてきた声を危うく聞き落としかけた。
「そうよね。あの人、やたらと修理とかうまくてさ。なんて名前だっけ」
「あいつ、結構律儀だったよな。誰とも話さなかったけど学校が楽しそうで」
「目立たなかったけどね、ほんと、誰だっけ」
「最近どうしてんだ、あいつ」
 涙すらこぼれそうだった。気がつけばその輪に足を突っ込んでいた。
「それは哲也、神野哲也だ。どうしようもない馬鹿で、私の一番好きな人だ」
 胸を張って言い切った。言葉が届くように祈る。
「ああ、そうだよな。神野哲也。そんな名前だった」
「そうそう、どうして神対馬さんがあんな目立たない人と付き合っているんだ
ろうって噂になったわよね」
「ああ、七不思議の話か」
 笑い声の響く教室で、出てきた涙を拭いた。ほんとうは言いたかった。
 馬鹿。哲也でなければ誰を好きになれというんだ。私はずっと、最初に顔を
見たときから好きだったんだ。哲也は私のために残されてくれた希望なんだ。
 今、泣いている暇はない。ここに哲也の存在がある。みんなが哲也のいた歴
史を認識した。条件は揃ったのだ。
 かつて私が哲也に言った言葉を思い出す。
『いつ咲くかわからないものをずっと待っている間、私は幸せだぞ』
 そう、私は今幸せの最中にいる。これからは更なる幸せが開けている。

 その夜。
 蕾をつけた月下美人が膨らんだ。切り倒された巨樹のひこばえが月の光に輝
いている。
 姉さんと、弟と一緒に庭に出た。誰も何も言わずに歩く。そして
 影が見えた。
 何を言ってやろうか、殴ってやろうか。それとも、抱きついてやろうか。
 そんなこと、考える暇もなく駆け出した。

Fin.

    


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