美人 -Queen of the Night-

第十八話

 嫌なものが背中を伝わる。
 いや、まだまだ可能性が潰えたわけではない。例えばどこかから姉の夢日記
だったのか、創作か、致命的な嘘が混じっていないか探す。
『11月25日。哲也が歩道から飛び出そうとしたのをきつく叱った。哲也だっ
てもう大人なのに子供みたいに怒って悪かったと思う。でも哲也は前も車にあ
たったのだから私が守ってあげないといけない。後で部屋に行ってゆっくり話
をしよう。ごめん、哲也』
 その記憶は確かに存在している。姉が唯一俺に怒ったのがそのときだった、
そう記憶している。一通り怒られた後は姉に強く手を握られ、寄り添うような
感じで家まで帰った記憶がある。そして
「哲也、ごめんなさい」
 俺は姉に背を向けていたと思う。姉に裏切られたような気分だったからだ。
そんな俺に姉は追い討ちをかけた。
「あ、そうだ哲也。今の水に流そ。水に流すって言うくらいだからお風呂に入
ろ」
 で、姉に脱衣場に連れ込まれた。わけもわからずに服を脱ぎ終わったころ、
姉が再び現れた。俺を見て突如時候の挨拶を始め、服を脱ぎかけたので慌てて
風呂に飛び込んだ。絶対に忘れられない記憶だ。今までは単なる笑い話として
記憶していたが、よく考えればなぜあのときだけ姉が俺を怒ったのか不可解だ。
ただし、俺が事故に遭っていたという仮定を付け加えると理解できる。
『12月20日。明日は私の誕生日。多分、今日が日記をつけられる最後の日。
事故から約一ヶ月が過ぎた。私は祈り、時間を戻して哲也を助けた代わりに緩
慢な死を約束された。私はこれからいろんなものを失う。とても怖い。哲也の
ことを感じられなくなるのが怖い。哲也のことを守れないのが怖い。いっそ逃
げ出したい。私が明日、何を失うのかわからない。光なのか、音なのか、動き
なのか、何もわからない。死ぬのが怖くないなんて嘘だ。今から哲也と少しだ
け話そうと思う。もし、哲也が私の誕生日を覚えていてくれているのなら、こ
の家を出て、死のう。哲也の近くで死んでしまうとかわいそうだ』
 日記の途中だが思い出す。確かにその夜、言葉通り姉は俺の部屋に突然現れ
た。いつもどおり暇でも潰すような会話をした。誕生日の話は出なかったし、
俺だって誕生日プレゼントの月下美人は窓際に隠していたから気づかれなかっ
たと思っていた。
 事実は違うだろう。今なら分かる。姉は誕生日プレゼントの存在を知ってい
たはずだ。
 姉はあのとき俺に言った。
 ありがとう哲也。お姉ちゃん、頑張るから。
 俺に向けた不可解な言葉にどれほどの思いが詰まっていたのだろう。
 続きを読む。
『哲也の部屋に行った。哲也の顔を見ただけで明日のことを覚えてくれているっ
てわかった。隠していたけれど、レシートが落ちていたからすぐに分かった。
私に買ってくれたプレゼントは月下美人らしい。どんな憎垂れ口でプレゼント
してくれるつもりなのだろう。それとも、私のことを美人だなんていってくれ
るのだろうか。
 さっき、私は哲也が誕生日を覚えていてくれたら死のう、そう書いた。でも
、哲也と話していて、気持ちが変わった。これが私の本当の気持ち。この気持
ちを最後に、この日記に残しておきたい。
 私は哲也のことが大好き。一生一緒にいたい。守ってあげたいと思うし、哲
也に守って欲しいとも思う。哲也に甘えたい。世界の誰よりも哲也に甘えて迷
惑をかけてみたい。哲也の近くで最後の最後まで生きていたい。哲也がいれば
それでいい。だから私はここにいる。迷惑はかけたくないけれど、哲也の側で
死にたい。
 たった今哲也と話し合った。だから怖くなんてない。何を失っても最後まで
生きていける』
 それが日記の最後のページだった。俺は、泣いていた。
 日記帳を元に戻し、部屋を出た。

 夕刻。窓の外が金色に輝く年の暮れ近い景色。
 ノックが聞こえた。
「……ああ、勝手に入ってくれ」
 彩花だった。静かな瞳をしていた。本能的なまでに彩花に抱きついてみたい。
「哲也。今夕食を作っているのだが、姉さんがお風呂に入りたいらしい」
「そうか」
 彩花は俺の泣きはらした眼を見ても何も言わない。
「入れてやってくれないか、哲也。一緒に入ってやれ」
「わかった」
 それだけを告げて彩花が扉を閉じる。俺の眼を見て何も言わなかった。彩花
は俺が泣きはらしても何も聞かない。そんな彩花の優しさに甘えたかった。
 彩花を意識したせいだろうか。姉を風呂に入れることに抵抗はなかった。
 姉の服を脱がし、かろうじて動く手にシャワーを持たせ、髪を丁寧に洗って
やる。痩せた背中も腕も足も、全部洗ってやる。湯船で下手糞な鼻歌を歌うの
を聞いてやり、身体を拭く。
 姉の身体はきれいだった。もっと早くこうして触れたかった。
 背中にバスタオルを乗せて、顔を埋める。洗った髪の毛がくすぐったい。
 この背中は泣きやすい。彩花の胸よりも泣きやすい、と思う。
「姉ちゃん。ありがとうな」
 ごめんなさい、ではない。細すぎるその腰を抱いた。
 俺の頭に何かが触った。柔らかな、姉の掌だった。

 夜。
 一人で縁側に座り、空を眺める。冷たい風が足に痛い。というか寒すぎる。
考え事にはちょうどいい緊張感だ。
 考える。あの日記の中身、だ。
 まず日記が事実を書いているのは疑いようもないことだ。つまり俺は一度事
故に遭い、姉が時間を巻き戻すことを何かに祈り、それが叶って時間が戻った。
代わりに姉は毎年何らかの感覚を失い、死ぬことを強制された。簡単にまとめ
ればそういうことだろう
 ではこの非科学的な事実がどういう原理で起こったのか。正直わからない。
姉が祈ったから叶ったとしかいいようがない。多分、そのあたりの科学的な説
明は不要だろう。俺の中学一年生以前の記憶があいまいであること、姉が徐々
に感覚を失う理由を説明できるのはそれくらいしかない。
 では最後。この謎の状況を引き起こした主犯は誰か。姉は何に祈ったのか。
「お。彼氏。夕涼みかよ」
 一号が隣にいた。
「寒いだろ帰れ一号」
「待て彼氏。これを見ろ」
 一枚の写真を俺に見せつける。
「寝顔、だな」
「それだけかよ。感想はないのか」
「かわいいな」
「だろ。かわいいだろ。一枚千円でどうだ」
「なぜ彩花の寝顔の写真をそんな値段で買わないといけない」
一号は言葉遣いが乱暴だが、二号以上に彩花に依存している。
「で、どうしたんだ彼氏。姉ちゃんのことで悩み事か。いっそ襲っちまえ」
 むしろ襲われているのだが。
「なあ一号。彩花のこと、どう思う」
「姉ちゃんは、姉ちゃんだ。俺の好きな肉親だ。彼氏は姉ちゃんのこと、どう
思っているんだよ」
一号と俺はよく似ている。そう思う。
「大好きだ」
一言。
「なあ、彼氏。こんなこと言うのは悪いんだが、少し姉ちゃんのことで話がある」
黙ったままでいた。
「姉ちゃんの中では彼氏が一番で彩夏さんは四番目以降だ。俺にはわかる。多
分、姉ちゃんは簡単に彩夏さんを切り捨てる……じゃあな」
 何を言いたいんだ、そう言おうとしたときにはもう、一号は背中を見せてい
た。
 彩花と姉の姿が甦る。二人で散歩する庭、その中心。
 巨樹。
 俺が本能的に恐怖する巨樹。答えはそれだ。俺はこの巨樹に身体を縛られて
いる。
 彩花は姉を切り捨てる、さっき一号は言った。だが、俺は賭ける。
 確かに彩花がほんとうに究極の状態で何を選択するのかまではわからない。
 それでも彩花は最後の最後まで俺と姉を平等に扱い、どちらをも助け、導い
てくれる。

「なあ、二号」
 部屋の中で煎茶を飲む二号に声をかけた。
「なんすか彼氏」
 彩花はとっくに寝ている。男同士の話をするのにはちょうどいい。
「呪いのアイテムってあるだろ、ゲームに。あれってさ、呪いを解くにはどう
するんだ」
「呪文でも唱えるか教会にでも行けばいいんじゃないっすか」
 だろうな。それは知っている。だが、現実世界には呪文なんてない。
「ならさ、タイムパラドックスってあるだろ。例えば俺が過去に戻って母親を
殺せばどうなるのか、ってやつ。二号はそこんとこ、どう思う」
 沈黙、
「多分、彼氏が消えるんじゃないですか」
「すると彩花は別の誰かと付き合っていることになるのか」
「それはないでしょうね。多分この家から彼氏だけが消えて、その矛盾を解消
するために記憶から抜け落ちる。そんなとこじゃないですか」
 なぜ彩花がこの家に住み続け、俺だけがいないのか、そのあたりの理屈も適
当にでっち上げられるのだろう。
「ならさ、別にいいよな」
「別にいいって、何がです。いつもに増して意味分かりませんね、彼氏」
 本当のことを言ったところで理解されることではない。だから適当にごまか
す。
「俺がいなくたって世の中はうまく回って幸せなんだって思わないか。いや、
一般論としてだ」
沈黙。
「意見には賛同しますが、姉ちゃんが彼氏の逃亡を許すほど甘くはないのも事
実です」
 そうだろうな。だから俺は賭ける。
「な、二号。もし俺がこの家から出て行ったらさ、彩花は時空だって捻じ曲げ
そうじゃね」
「やりそうですね」
「なら二号。俺が逃亡するとき、彩花が俺の邪魔をしたら止めてくれ」
「勝手ですね、彼氏」
 そう、俺はいつも勝手だ。その勝手もこれで最後だ。だから
「遼太にはお前の口から伝えておいてくれ、康太」
 名前を、呼んでやった。家族なんだから。いびつな家族だけれど、へっぽこ
だけれど、名前くらいは呼んでやりたかった。
「わかりました、お兄さん」
 男の笑顔だった。
    


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