朝。
雨戸を開けて庭に下りる。神社の面影が土に還ろうとする庭をめぐり、しば
し目を閉じる。巨樹の下でどこからともなく来る吐き気をこらえ、姉と彩花が
そうしていたように巨石に座ってみる。
初めてみる視点、初めて見る景色、知らなかった風の通り道、日差しの高さ、
俺のいた場所。なんとなく、姉と彩花がその場所を好きになったのがわかった
ような、そんな気がした。
温室のサボテンを手に取り、その価値を数字にしてみる。どれほど高価であ
ったとしても今日には咲く月下美人に並ぶものは存在しない。思わず上げた視
線が二階の窓にぶつかって、そして学校に行くことにした。
俺は学校を好きなのだ。だから行く。朝から庭でのんびりしているなんて学
校好きの俺らしくない。
古い街並みと新しい街並みの入り混じった通学路を渡り、狭い路地に面した
通用門から入る。彩花は遠回りでも正門から入るが、俺には関係ない。靴箱で
も彩花の場所を思わず目で追ってしまう自分に呆れ、机に突っ伏す。
誰も声をかけてこない。当然だ。
「おう、席につけ、神野、朝から寝るな」
担任だ。朝の出席確認らしい。どうでもいい。
「よし、今日も全員来てるな。欠席してる奴、手挙げろ」
調子に乗った奴が手を上げ、笑いが起こる。何が面白いんだお前ら。突っ込
みを入れる元気すらなく、眠気に身を任せようとするものの、なぜか寝付けな
い。
なぜだ。なぜ鼓動が納まらないのだ。
ああ、わかった。今日は教室がひときわうるさい。いつもなら担任が入って
きたと同時に彩花が
「じゃあ今日も委員長……っておい、神対馬はどこにいるんだ。今日も休みか」
あれ。
神対馬。
身体が勝手に起き上がった。
後ろを振り返る。彩花の席だ。
いつもなら律儀に座り、空気を引き締めているはずのその場所がぽっかりと
空いていた。
「あれ、彩……神対馬が」
彩花がいない。確か朝、靴箱を見た時点では彩花は登校していなかった。こ
れはたまにあることだ。
だが、彩花が休むことはなかった。遅刻早退欠席、彩花はそんなものに無縁
のはずだ。
彩花だって人間だ。病気をしようが用事ができようが、
違う。昨日二号が言っていたじゃないか。
『俺もしばらく、こちらには来れそうにないです』
どういうことだ。
「神対馬が欠席か。珍しいこともあるな。じゃあ副委員長、後よろしく頼むぞ」
担任の声が思考を絶つ。
「先生。俺早退します」
「……ん、さっさと早退してかまわんぞ」
誰も俺になんて注意を払わないのがこういうときにはありがたい。言葉に甘
え荷物をまとめて廊下に飛び出す。
まずは予防線。
携帯電話を取り出し、着信履歴のトップ。
彩花の弟、二号の電話を呼び出す。
『この電話は……』
切った。
まだまだ三の丸すら落城していない。次は久しぶりに彩花の電話番号。といっ
ても着信履歴は二番目。
『この電話は』
切った。
彩花の性格を考えれば着信拒否というのはありえない。説教の一つや二つを
くれるはずだ。
ならば。
早足になるのをできるだけ抑え、校門にたどりつき、角を曲がってから一気
に走る。行く先は一度しか行ったことのない彩花の家。場所なんて死んでも忘
れない。大好きな奴の家を忘れる奴は死刑にでもなればいい。
大切なときには絶対に間に合わないのが俺の人生なのかもしれない。それで
も、一度くらいは遅刻覚悟で、後悔すること請け合いでお姫様のもとに馳せ参
じる騎士になってみたい、そう思う。剣の代わりに持つものは学生鞄で十分だ。
大通りから一歩入り、迷路のような路地を抜け、ずっと昔に忘れらされれた
ボロアパートの前に出る。
ここだ。
一度立ち止まり、呼吸を整える。いつの間にか唇を強くかみすぎていたらし
く、血の味が広がった。
間に合ってくれ、俺。
駆け上がる寸前、靴の泥を落とすことを思い出し、ゆっくると廊下を歩く。
こんなときに廊下を踏み抜いてしまえば洒落にならない。
扉の前に出る。鍵のない扉だが、彩花に開け方を聞いておいて良かったと思
う。確か最初の動作はドアノブを持ったままドアの下側を蹴り飛ばすはずだ。
一瞬目を閉じ、錆ついた扉に手をかけ、
蹴飛ばす瞬間に「それ」に気づいた。
何かがおかしい。扉の片隅をもう一度見返す。
泥にまみれた靴の跡だ。
アパートを大事にする彩花がここまで泥だらけの靴で扉を蹴飛ばすだろうか。
ありえない。
そもそも足マットで靴の泥を落として行けと言っていたのは彩花だ。同じ理
由で弟二人という可能性もない。あの二人が彩花の言葉を違えるはずがない。
すると、この扉に泥がついているということは。
―それ以外の誰かがいるということで―
次の動作なんて考えられなかった。
全身全霊の力をドアノブにかけ、腕に全体重をかけて引っ張る。正しい開け
方なんて関係ない。火事場の馬鹿力があれば彩花にだって勝てるに決まってい
る。
「らあっ」
思いっきり大きな音がして、関節が外れたのかと思った。それくらい気持ち
よく何かが外れた。
扉だ。扉ごと外れてしまった。アパートが崩壊しなかったのは奇跡に違いな
い。倒れてくる扉を気合いで押し上げる。今は笑いをとっている場合ではない
のだ。全然格好良くなんてないだろうが、これが俺の精一杯だ、許せ。
押しやった扉を鉄柵に立てかけ、部屋に目を向けた。
足元に散らばるたくさんの靴、
散らかった部屋の中、
窓から落ちたサボテン、
真ん中に立つのは男が三人。
「なんだ、お前」
息をつかせる暇もないのかよ、上等だ。まずは自己紹介ってのも好きだぜ。
「名乗るほどもない高校生だ。趣味はサボテン栽培な」
絶対こう言ってやろうと決めていた台詞をこの上なく格好悪い体勢で吐く。
決め台詞を扉に潰されかけながら言った英雄なんて世界中を探してもいないに
違いない。
「……神対馬、こいつはお前の知り合いか」
男が足元に言葉を投げる。目線を追った。
彩花だ。
皺だらけの冬服に泥がつき、こんなに離れているのに手の振るえだけが見て
取れる。
倒れているのだろうか。
いや、自ら頭を地面にこすりつけているのだ。一瞬、その強い視線が俺を向
く。
「……いや、その人は知らない人だ。頼むから構わないでくれないか。放って
おいてくれるなら立ち退」
「実は彩花の元彼氏なんだ。よろしく」
男が目と鼻の先にいた。正直言って漏らしそうなほど怖い。漏らしてだって
耐えてやる。
「一応聞いてやるがお前、金は持っているか」
任せろ、俺の自慢はサボテンだけじゃない。祖父から引き継いだ現金にサボ
テンだってある。
「どれほどだ。おっさん」
男が左手の親指だけをたたんで俺の方向に向けた。見る。
人差し指、中指、薬指、そして半分欠けた小指
「三百五十万か」
そいつの顔が引きつったのを見た。正直めちゃくちゃに怖い。ギャグだ、許
せ。
「四百だ、馬鹿者」
そう告げる男もそれほど悪人には見えない。どういう経緯で彩花が頭を下げ、
どういう経緯で男三人がいて、なぜ俺が金を出せといわれているのかはさっぱ
り理解できないが、それでも一つだけ分かる。
どうやらこの状況を解決するのは奇跡でも愛でもなく、金だ。ならば話は簡
単である。
「任せろ。それっぽっちなら現金で出してやるぜ」
「おい……本気か」
珍しく本気だ。鞄に手を突っ込み、靴箱の上に出す。
預金通帳と印鑑。
バイトで貯めたのが三割少し。残りは祖父が亡くなったときの遺産。
金の重みくらいわかる。俺一人で暮らしながらそれほどの金を貯めようとす
るなら、どれほど気合を入れなければならないのかわかる。
惜しいとは思わない。
金は使うためにある。なくなれば稼げばいい。
「とりあえずの持ち合わせだ。その程度なら何とかなる」
見え見えの大見得。
「ほんとうに貰っていくぞ」
男が通帳を掴む。
「ああ、貰っていけよ、おっさん」
殴りかかってやろうとした。
面白いように空振って腕を取られる。
まさにつるし上げ。超のつく格好悪さだ。動きを封じられて預金通帳を改め
られる。
「……結構あるな。ほら神対馬、借用書。あと貸家の契約も解除だ。心配する
な。もう来ねえよ」
彩花にはそんな言葉、俺には腹に一発。
「よかったな。九回裏二死満塁逆転サヨナラホームランだ」
手を離され、床に転がされる。
扉が閉まり、外の気配が遮断される。
笑ってしまいそうだった。あれほど家族だとか、なんだとか悶々として、二
号と議論して、実際に彩花の姿を見た瞬間にどうでも良くなっているのだから。
部屋の中の静けさが戻る。
「哲也」
時間はまだ九時少し。部屋の中は暗い。彩花みたいな奴はもっと明るいとこ
ろがお似合いだ。返事を返そうとするが、さっき腹にもらった一発が効いて声
も出ない。つくづく格好つかない。
「哲也っ」
彩花、頼むから腹を殴られた俺にのしかかるのはやめてくれ。
体勢を立て直そうとして、崩れる。ものすごく近い場所に彩花の顔があった。
「……彩花。元彼氏の哲也だ。関係ないとか言うな」
どれほど離れてみせようが彩花を放ってはおけない。
「哲也。元彼女を助けるなんて馬鹿なやつだ」
その嗄れた声が悲しかった。
「今に始まった馬鹿じゃないからな。筋金入りの馬鹿と呼べ」
ほんとうに、この馬鹿は死ぬまで直らない。直らなくていい、そう思う。大
切なときに間に合わなくて守れなくて逃げるだけでも、それでも今日間に合っ
た。今日という日だけで一生胸を張って生きてやる。
「筋金入りの馬鹿でお人よしだな、哲也。きっと後悔するぞ」
いわれなくても知っている。
「そうかもな」
後悔ばかりだった。だけど
「でも、今日ここに来たことは後悔しないで済みそうだ」
俺の中では後悔の数よりほんの少し幸せの数が勝っているのだ。彩花に告白
したことも、それからの日々も、全部後悔なんてしていない。
「哲也。お金は返そう。長く待ってもらわないといけないが」
「なら一生待ってやるよ」
彩花なら一瞬で返してくれそうだ、が。
「申し訳ない、哲也。それで」
もうそれ以上言葉はいらない。
「別に返さなくていい。あれは悪銭みたいなもんだ」
家族にならいくら金を使ったって惜しくなんてない。そう告げるのは恥ずか
しいからやめておく。
「でも、代わりにさ」
今度こそ彩花との溝を決定的にするかもしれない。それでも
「彩花が俺のことを家族って言ったんだ。俺の姉の責任、最後まで取れ」
家族。人が背負いうる最高の重責の代名詞。
俺の背負ってきた重いものを全部彩花に投げつけてやった。俺の大切な場所
に踏み込んできた彩花だ。どんな重い足かせでもつけてやりたい。
この期に及んで彩花に押し付ける。
傷ついたお姫様を迎えに行くナイトになろうと思っていたのに。
「哲也こそ責任をとってくれ。こんなに弱くなった私は、もう一人で生きてい
けない」
「任せろ。一生に一度くらいはお姫様を守ってみたくなるからな」
一生に一度。
いや、一度すらないのかもしれない。一生格好つけまくって、口先だけで、
結局は大切なものをつかめなく、そんな負け犬なのかもしれない。守り守られ、
へっぽこなりの道を歩んでいるのが俺なのかもしれない。
それは世界一平凡で、世界一幸せな生きかた。
なら、こんな物語のクライマックス、男ならどうするか。
彩花を引き付けてキスしてみた。多分これが正解だ。
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