月下 -Queen of the Night-

第十一話

 この前偶然テレビを眺めていると、ものすごくおいしそうなスープが画面い
っぱいに映し出されているではないか。是非一度食べてみたいね、なんて思いっ
ていると突如犬の大写し。どうやら犬のペットフードの宣伝だったようである。
いやいや、最近のペットフードは豪勢になったもんだ。猫なんて人間様の残り
物で十分、犬が食べないものは夫婦喧嘩くらい、というのは時代が古いのだろ
うか。まあ、それはともかく夫婦喧嘩が不毛であることは俺も認めよう。
 全くもって不毛な毎日だ。夫婦喧嘩かどうかはともかくとして。
 あの日から俺は彩花と口を利いていない。
 もちろん、最初彩花は俺に話しかけてきた。席だってすぐ後だし関係を絶と
うというほうが困難である。先回りに待ち伏せ、追撃に要撃という彩花の手を
ことごとく振り払い、無視した。数日間の攻防の末に彩花が折れてからもなる
たけ視線を合わさないようにした。どこまでも負け犬っぽいが、それが俺なり
の意思表示だ。
 そんな生活を続けつつも「彩花と直接言葉を交わさなくなった」という以外
ではあまり生活に変化があるわけではない。学校に来て、時々花壇を手入れし
て、家に帰って庭を掃除して、寝る。定年後の中高年すらびっくりの変化のな
い毎日に不満も充足もない。付け加えると、食生活だけは大きく後退した。彩
花の弁当の偉大さをつくづく感じる。
「ったく、ダメ人間ですね、彼氏」
 この声は二号だ。
 時間は昼休み。二号は中学生であり、俺は高校生であり、常識的に考えると
一緒に食事をしているのは不可解なのであるが、実は学校が隣同士なのだ。彩
花と食事をしなくなった今、俺はなぜか彩花の弟と中庭で食事を共にしている。
 手元のパンを見る。
「元彼氏、と言え」
「姉ちゃんは彼氏と呼んでおけ、と言っています」
 そうかよ、と心の中でだけ言っておく。
 あの日。弟二人からそれぞれ俺にメールが来た。
 一号は怒りまくっていた。今すぐ来いバスケットボール代わりに貴様の頭を
ゴールに叩きつけてやるこん畜生という内容を二倍くらい長くして十倍くらい
えげつなくしたものだった。文面だけで三回くらい死ねそうだったので一言、
すまんと送っておいた。
 二号のメールは至って完結で、「学校で会いましょう」だった。その言葉通
り、二号は昼休みの間、俺の学校の中庭に来るようになった。
 というわけで今の昼食の相手は二号である。
「やっぱ購買のパンは最高だな、二号」
「いえ、姉ちゃんの弁当のほうがおいしいです」
 単なる負け惜しみだ。空気を読んでくれ。
「二号、学校まで抜け出して何しに来てるんだ」
「彼氏に会いに、です」
 なんというか、男に彼氏と連呼されるのは正直きつい。
「何度も聞くけど彩花とは関係ないんだな」
「はい。別に姉ちゃんは関係ありません」
 わざわざ嘘をつくことでもないのだろう。彩花といい、その弟たちといい、
反論することの叶わない愚直さを正々堂々と言い放つ。そういうところは
「やっぱり兄弟なんだなって思うよ」
 ほんとうにそっくりだ。
「俺たちには姉ちゃんが母親みたいなもんですから」
 母親、ね。それを背負わされた彩花の気分にもなってみろ。ちょっと行動力
と根性のある女子高校生だぞ彩花は。
「正直、負担をかけているのはわかっています。姉ちゃんは母親の背中を追い
かけていますが俺たちは姉の背中に守られてばかりですから」
 彩花はすごい奴だと思う。父親に弟二人の面倒を見、生活費まで稼ぐのだ。
「いつか俺、自慢してやるよ。こう、指差してさ」
 人差し指を空に向ける。二号がその先を見る。
 それは遠い将来の話。
 俺が会社から帰ってきて、ビール片手にテレビでもつけたその瞬間、見知っ
た顔が登場するのだ。
 いや、別に犬でもペットフードでもない。そんな宣伝なんかではなく。やっ
ぱり今と変わらないほど曇りも穢れもない真っ正直な自分を貫き通す言葉と今
よりはるかに自信に溢れた笑顔。
 それを見て、自分しかいない小さなアパートで、一人つぶやく言葉。
「俺、あいつと付き合ってたんだぜ」
 二ヶ月もなかったけどな。
 はるか高みに皮肉ですらない言葉を向けて。
「意味のわかんない妄想ですね彼氏。その設定で適当に小説でも書いておいて
ください」
 俺が書いても年齢制限ありの変態的ストーカー小説にしかならねえよ。
「そもそも小説なら適当に読み飛ばして無視するけどさ」
「そうですね。姉ちゃんは今でも彼氏のすぐ側にいますから」
 そう、その言葉通り、彩花は依然俺の近くにいる。学校ですぐ後ろの席に陣
取っているという意味ではない。
「まさか家の中で顔を合わせるとは思わなかったぞ二号」
「その話、姉ちゃんから聞きました」
 ついこの前、俺は自宅の中で彩花と鉢合わせた。
 俺が彩花と言葉を交わさないことを貫いているのと同様に、彩花も俺の姉と
交流することを貫いている。俺の家に鍵はない。だから彩花は玄関から堂々と
俺の家に上がりこみ、姉の部屋に居座っているらしい。
 で。
 いくら家が広かろうとも同じ場所にいれば顔を合わせることもあるわけで、
「ほんとにびっくりしたぞ。彩花は神出鬼没だな」
「チャック全開だったそうですね。あの二分の一がと楽しそうに罵倒していま
した」
 まだ二分の一伝説が続いているのか彩花。
 そう、彩花と鉢合わせたのはトイレだ。面倒くさいからズボンの前を開けな
がら入ろうとすると、出てきた彩花と鉢合わせ。
 チャック全開で半笑いの俺と、半目の彩花。いっそ殺してくれと言いたくな
る。
「なあ、二号」
「なんすか、彼氏」
 二つほど、気になることがあった。
「サボテン元気か」
 沈黙。
「あんなのに元気もへったくれもあるんですか彼氏」
「太陽にさえ当たっていれば元気だ」
「ならぼちぼちってところですね」
 別にサボテンの話なんてどうでもいい。話を振りたかった口実だ。あの家で
唯一生活感のあったのが俺の買ってやったサボテンだったからな。
「それからさ。彩花は何か大変なことでも抱えているのか」
「……どうしてです」
「少し顔の色が悪かったような気がしてさ。いや、病気って感じでもない」
 いくら視線を外そうとも後の席の奴の顔色くらいは嫌でも分かる。そして今
の彩花は俺と付き合い始めるまでの彩花とも異なる、余裕のない表情をしてい
ることが多いのだ。その顔がなんとなく
「スカートの裾に靴型の泥がついているのを見たんだが、困ったことでもある
んじゃないのか」
 あの時見た異質なものに繋がる。
 もしかすると最初から俺は彩花に騙されていたのかもしれない。俺といたと
きの元気は単なる空元気で、ほんとうは俺にすら言わない苦労を重ねているの
かもしれない。
 これまでは、それでもまだ大丈夫だった。ここにきて彩花の抱える問題に何
か変化が生じた。
「さすが彼氏。姉ちゃんの顔色うかがうのはプロですね」
 ああ、任せろ。彩花のことなら何でも分かる。
「今度ギャルゲーでも進呈します」
「いらねえよ」
 まったく、どこまでも兄弟だ。
「それで、なにがあるんだ」
「彼氏はそれを言ったら姉ちゃんを助けてやれるんですか」
 沈黙。
 助けてやれるかどうかなんて、その内容を聞かないと答えることなんてでき
ない。
「彼氏は、今でも姉ちゃんのことを好きなんですか」
 これには即答できる。
「二号、彩花には言うな。男の約束だ」
「二分の一の男の約束っすね」
 いちいちうるさい。
「俺は彩花にべた惚れだ。今だって彩花のほうから温情をかけてくれるのを望
んでいるし、教室で一番最初に見るのは彩花の机だし、自宅の中だって彩花の
靴があると思わず手を伸ばしてしまいたくなる。それくらい好きだ」
「足裏フェチなんですか」
「黙ってろ二号」
 彩花が今でも庭に出て巨樹の下で休んでいるのも、月下美人のつぼみを見て
いるのも、全部知っている。
「それほど好きなのに、助けてやれるかどうか即答できないんですね」
 彩花なら即答するのだろう。
「すまんな」
「恋愛シミュレーションならフラグ消失ですよ、彼氏」
 だろうな、俺もそう思う。
 彩花はときどき、俺に向かって言った。
 なんだ、哲也は私の巨乳が目当てなのか。
 あの冗談みたいな言葉は実のところ、的を射ていたのではないかと思う。
 彩花は俺を指して家族だと明言したが、俺にとって彩花とは、家族ではない
のだろう。いくら彩花が困っていても、その内容を聞かなければ助けてやろう
と思わない。どこかで彩花に気を許していない俺がいる。
「俺は一ヶ月程度付き合っただけで家族と思えるお人よしでも親身になれるほ
ど神様じゃない。彩花ほど正しい人間じゃない」
 俺は彩花とは違う。たとえ出発点が一緒でも、分岐点は大昔に通過した。
「いえ。彼氏は人間的には正しいと思います。そもそもうちの家の問題を彼氏
に投げつけるのはおかしいですから」
 予鈴がなる。二号が立ち上がる。
 このまま行かせてしまっていいのか。
 もう、二度と会えないんじゃないか、そんな気がした。
「あのさ、俺でも彩花を元気づけてやれるのか」
 助けてやれるかどうかの即答はできないけれど、聞く。
「ほんとうに足を突っ込むんですか、彼氏」
 即答できない代わりに、言えることがあるから。
「俺は彩花も、お前たち兄弟も大好きだからな」
 彩花に見せられたあの家も、彩花の見せてくれた写真も、彩花のいる毎日も、
なにもかも。
「実はここ数週間、父が戻ってきていません」
「なんだそれ」
 唐突だった。
「生活費も底をついています。あの家も追い出されそうです。俺もしばらく、
こちらには来れそうにないです。申し訳ないです、彼氏」
 その言葉の意味が分からなかった。結局、その背中が視界から消えるまで動
けなかった。
 生活費が底をついた、という意味。立ち退きを迫られている、という意味。
 家の思い出とか、家族の確執とか、そんな問題ではない。
 遠からず彩花と弟二人は家を追い出され、行くあてを無くす。
 高校生になってその意味がわからないほど馬鹿な奴はいないだろう。でも、
どうすればいいのか知っている奴も、考えた奴もあまりいないだろう。
 高校生一人と中学生三人が、何の庇護もなく生きていくことができるか。論
じるまでもない。不可能だ。
 俺に何ができる。
 確かに、それなりの預金がある。祖父からの遺産相続みたいなものだが、そ
れでも人一人や二人、生活していくにはまったく問題ないほどの預金がある。
家も広い。
 だが、人を三人養うというのはペットを飼うのと話が違う。俺は万一のとき、
彩花たちのために働くことができるのか。
 午後の授業を告げる鐘が鳴ってから階段を昇る。久しぶりに出た屋上の風に
早すぎる落ち 葉が舞い、季節はずれの冷たい風に自分の背中を大げさに丸め
る。
 無力だと言い聞かせてきた俺が、彩花たちのために全力を出せるのか。
 何度自問しても、その問いに答えることはできない。いや、答えたくないだ
けで、俺は全力を出せず、遠い場所で後悔しながら自分をせせら笑い、最後の
最後まで皮肉屋として生きていくのだろう。
 月下美人のように、真夜中に花を咲かせながらも堂々とできればどれほど気
持ちいいだろう。
 俺の家の月下美人も、もうすぐ、花が咲く。
 携帯電話を取り出す。あて先は二号。
『もうすぐ月下美人が咲きそうだと彩花に伝えておいてくれ』
 返信は一瞬だった。
『そういうことは自分で伝えてください彼氏』
 わかったよ、自分で伝えるぜ二号。
    

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