と、少しは彩花に感謝していたわけだが。
「ここだ」
彩花が巨大な胸を張り、指差す。つい指差す方向とは真逆のふくらみに注目
してしまいたくなるが、そんなことをすると首の間接の可動部位が二割増しに
されてしまいそうなので素直に指先を目で追う。
その先。
「……あれか」
「うん、あれだ」
映画のセットだと言われれば納得してやろう。少なくとも人の住むようなと
ころではない。俺の家も大概そのでかさは異常だが、それでも彩花の指差した
物体よりは現実味がある、と思う。
いや、それは広すぎるわけでもなければ巨樹が生えているわけでもない。ど
こにでもありそうな築数十年のアパートだ。錆ついた柱が少し傾いているよう
な、土台のコンクリートにひびが入っているような、そろそろ建て替えの時期
に差しかかった集合住宅だ。
入り口をガムテープで嫌がらせのように封鎖され、手すりに有刺鉄線を巻か
れ、屋根瓦がめくり取られている以外は、あくまでも普通のアパートだ。世の
中ではそれを普通とは言わない。
「彩花、これは」
「ずっと立ち退きを迫られているんだ。周囲も空き地だろう」
それでも不思議と殺伐とした印象を受けない。良く見れば劣化した部分に新
しい補修の跡が残っているからだろう。
階段に足を乗せる。
「こら哲也、靴の泥はしっかりと落とせ。床が痛む。足マットで泥を落として
くれ」
靴を見る。この辺りだけ未舗装の道路が続くせいで確かに靴に泥がついてい
る。言われたとおりにマットの上で飛び跳ねる。小さなこだわりが彩花らしい。
今度こそ階段に足
「待て。そこを踏むと一階まで踏みぬけるぞ」
「ややこしいな彩花」
「仕方ないな、ついてきてくれ哲也」
「そうだな」
彩花の後ろに立つ。
と、彩花のスカートの裾に靴型の泥。
「よっと」
はたいてやる。
「な、何するんだ哲也。公衆の面前でス、スカートを」
「ん、そんなに驚くことか」
「驚くに決まっているじゃないか。誰にも触られたことがないんだぞ」
まあ、わざわざスカートの裾を触るような変な奴はいないだろうしそれに許
可を出す奴もいないだろうが、驚きようは意外だ。この分ではスカートのポケッ
トに手を突っ込めば卒倒するかもしれない。
「ちょっと泥がついてたから払っただけだ」
世界一どうでもいい言い訳をする。
「そう……か。それは、ありがとう」
わかればよろしい彩花。
「いや、気づかなかったんだ。残っているはずがないと思ったんだが」
ん、彩花にしては瑣末にこだわりすぎだ。言いたいことを言いたいだけ言う
のが彩花じゃないか。
「どうかしたか、彩花」
変だぞ、とまでは言わないことにした。
「いや、少し弟どもとじゃれあってな。そのときの泥がついていたのを忘れて
いたんだ」
絶対嘘だろう。彩花なら弟たちにだって靴の泥を落とさせるに決まっている
。なら、彩花のスカートに靴型の泥をつけたのは誰か。
「……哲也、聞いているか」
「ん、どうした」
「家の扉の開け方を伝授してやる、そう言ったんだ」
考えると音が聞こえなくなるというのはほんとうらしい。気がつけばアパー
ト二階の最奥、扉の前だ。
待て、扉を開けるのはせいぜい鍵とドアノブくらいだろう。
「いや、コツがあるんだ。鍵なんていらない」
自信満々に言い放った彩花が一瞬目を閉じ、ドアノブを持ったままドアの下
側を蹴り飛ばす。アパートにP波が走る。半瞬遅れて同時に右手で新聞受けの当
たりを殴りつける。今度はS波だ。人工地震を叩き込まれた扉はそれだけで自然
に開いた。まさに力技である。間違った操作を行うとアパートが崩壊するか、
絶対に開かなくなりそうだ。どんな暗号も通じない最強の鍵に違いない。
で。
「簡単だろ哲也」
簡単じゃねえよ。心の中で小さく突っ込みを入れ、扉を潜る。
「失礼します」
真っ暗だった。それが彩花の住むアパートだった。
左手前に扉の外れた洗面所。右手にコンロ一つだけの台所。そして玄関から
十歩で届きそうな場所に部屋の一番奥が見え、小さな窓にカーテンがかかる。
窓枠に乗せられた緑色のサボテンがあまりにも場違いなほぼ殺風景だ。
それで全部。
ほんとうに全部だ。誇張も何もない。スリッパもじゅうたんも机もカレンダ
ーも、何もないたった一部屋だけの家だ。別に女の子らしい小物に溢れている
のを予想していたわけでも、弟二人の筋トレグッズが散乱しているのを期待し
ていたわけではない。丁寧にたたまれた服が部屋の隅に置かれているのですら
倉庫というイメージの湧く簡素な空気を発生させる一要因だ。
「早く入れ哲也。見ての通り玄関も廊下もないんだ」
「ああ、すまん」
促されて靴を脱ぎ、とりあえず中に入る。
俺一人が入っただけで部屋の壁の圧迫感が増したかのような狭さ。この場所
に彩花を含め彩花の父親と弟二人の四名が入るのかですら疑問だ。家具が全く
ないことに息を飲んだが今なら分かる。この状況で家具を置けば人間が入らな
い。
「その辺に座っていてくれ哲也。テーブルを出そう」
俺の隣をすり抜け、彩花が押入れを開ける。悪いと思いつつも目が彩花の指
先を追ってしまう。その辺りに放置できない分、押入れが実は満載なのかと思っ
たからだ。
まあ、そんな期待は簡単に裏切られるわけだが。
「なあ、彩花」
「なんだ。下着がそのまま放置されていると目のやり場に困るのか」
言われて気づく。
「……え」
「弟どもは平気だぞ。私だってそのまま着替えている」
そりゃ兄弟だからな。俺だって姉の下着くらい平気で触ってやる。やったこ
とないけど。
「って着替えもか」
「仕方ないだろう。馬鹿な弟たちが洗面所の扉を壊したんだ」
彩花が隣に座る。
お茶もなければテーブルクロスもないひと時。
それでも彩花がこの環境をこの上なく気に入っていることくらい一瞬でわか
る。こんな穏やかな顔の彩花なんて見たこともない。
いつも張り詰めている奴だと思っていたのに。
「彩花は、ここが好きなんだな」
幸せなんだな。ほんとうはそう言おうと思った。
「うん。私はこの家が好きだ。家族だからな」
即答される。家族と。ひらがなにするとたった三文字の言葉。永遠の課題。
「哲也。少し挨拶をしていってくれ」
彩花が壁を指した。
額に入った大きな写真があった。
綺麗な人で長髪の涼しげな人だった。目元の優しさと顎のラインが少し姉に
似ている。
彩花がもう少し大人びればそんなふうに成長するのだろう。
「彩花のお母さん、か」
「そう、私の母だ。綺麗な人だろう」
「彩花のほうがきれいだ」
「適当なことを言うな、馬鹿」
馬鹿は彩花のほうだ。俺はお世辞で人を褒めない。
「いいお母さんだったんだな」
続ける言葉が無くて、そんな適当な言葉を探し出す。この世に、亡くなった
人のことを語るときほど不毛で不幸なことはない、そう思う。
「うん。私の誇りで、自慢で、あこがれの人だ。家を飛び出し、このボロ家に
住み、父と出会い、私と弟たちを産み育ててくれた人だ」
彩花は声に張りを持たせる。
「母は、父の運転する車に同乗して死んだ。子供に報いられることもなく、人
生をかけて愛した人に殺されたも同然の死に方をしたんだ」
もし、口を挟むことができる奴がいるならそいつは神様か馬鹿だろう。
「父は怪我すらしなかった。幼かった私たちを養育する義務もあったから刑事
的な責任を受けることもなかった。私は父を殺してやりたいとすら思った。今
でも」
彩花が拳を固め、指を白くする。そして息を整え、少しだけ笑顔を浮かべ
「今でもそう思う。ま、実際恨んでいる暇もなかった。父を支えなければ家が
回らなかった。家事をこなし、弟たちの面倒を見た」
それが母の代わりとして生きる彩花の姿だった。
「彩花、」
ただ、その名前を呼んでやりたかった。
「ああ、別に同情してくれとは言わない。私は湿っぽい話なんて嫌いなんだ。
私は今、ものすごく幸せだと思う。反抗的な弟たちだが、いつだって弁当を作っ
てやると喜んでくれる。父のことだって同じくらい大好きだ。母が大事にした
この家だって大好きだ。どれもこれも不恰好だけど、私は大好きなんだ。哲也
も好きだぞ」
何の臆面も飾りもなく、それだけの言葉をつなげる彩花が素晴らしかった。
格好良かった。
そして俺は、そんな彩花が大好きだ。
「彩花は強いな」
「女は強いんだ」
ああ、そうか。
「せっかく産んでもらったんだ。だから私は母の分だけ強く、娘の分だけわが
ままで、姉の分だけおせっかいに楽しませてもらっている。これからは哲也も
いてくれる」
何気ない彩花の笑顔はどんな価値あるものより貴重だ。
姉という苦しみから逃れた俺には背負えないほどに。
「俺にはできないな」
「哲也だって楽しめばいい。お姉さんのこともひっくるめて笑おう。私がいて
やる」
それでも、俺には無理だった。姉の病気を背負って笑うなんて芸当はできな
い。俺は彩花のように強い生き方を拒んだのだ。だからこそ学校を好きであろ
うとし、彩花を見つけた。
「姉のことは彩花に関係ない」
いろんな思いを省略し、そう告げる。
「何を言う。ここまで来てしまえば哲也だって私の家族だ。哲也が困っている
なら私がなんとかしてやる」
わかっていた。それが彩花の返答なのだ。俺の苦悩の理由すら聞かず、解決
できると胸を張る。根拠もなくそんな風に首を突っ込めるのは家族くらいしか
いない。それでも
「彩花には関係ない話だ。姉にできることなんて何もない」
考えに考えぬいて、即答した。それだけで十分だ。
原因不明の熱の後、姉は俺を拒否した。だから俺は逃げることを選んだ。
今なら姉の気持ちが分かる。
俺という不甲斐ない弟を拒否することで、人生に見切りをつけることができ
たのだ。今更姉に何かを与えるなんて残酷なことをできるわけがない。そう、
もう失うものが命しか残っていない姉に、だ。
「哲也にできなくても私にできることはあるはずだ」
もしかしたら彩花ならできるのかもしれない。俺の想像をはるかにこえて、
この四年間をかけて逃げ捨ててきた全てを取り戻させるかもしれない。
「そんなもの、ねえよ」
それでも姉が再び失うものを得るのなら、俺は彩花に頷けない。
「なぜだ。家族なんだろう。哲也はもう一度姉と話し合いたいと思わないのか」
ああ、望んだ。望みに望んで、祈り続けて、どれほど後ろ髪を引かれて姉へ
の気持ちを捨てたのか分かるやつがいるのか。
「俺は姉の顔を見ないことにしたんだ」
「そんなのは嘘だ。お姉さんが好きで好きでたまらないことくらい私にはわか
る」
彩花が言い放つ。母を背負った姉の強さだ。俺の背負う弱さとはかけ離れた、
まぶしすぎて目も開けられない強さだ。
ならば、取るべき進路は決まっている。
「彩花は俺の姉をどうしようってんだ」
自分の声の温度が限りなく低いこと背筋を振るわせる。
「うん、哲也とお姉さんがもう一度仲良くなれるように力を使いたい」
一転の曇りもない真っ直ぐな言葉。
「どうせ次の誕生日には全部奪われるとしても、か」
一応確認したかった。彩花の決意を。
「それでも、奪われるとしても、与えることに間違いはない」
間違いない力強さと潔さが当たり前のように語られる。未練は、多分ない。
「なら別れよう、彩花。俺はついていけない」
「哲也。そんなことで話をごまかそうとするな」
彩花の言葉を遮った。
「ごまかしてなんてない。俺は姉の最期に立ち会わなければならないんだ。与
えられて、そして死んでいく姉なんて俺は見られない。だから、彩花にはつき
あえない」
俺は姉を失うのが怖い。口も聞かず、その存在を無視しようとも、姉をほん
とうに失うのは怖い。
「哲也。そんなわがままを言うな。まったく世話の焼けるやつだな」
彩花がいたずらっぽく笑う。でも
「本気だ」
「哲也、随分と嘘をつくのも上手になったな。そんなに真剣だと、本気と見分
けがつかない」
彩花なら分かっているはずだ。俺が真剣で本気だ、と。
「それじゃ、帰るわ」
言いたいことはいろいろあった。感謝の言葉しか出ないような気がした。だ
からやめておく。
「哲也、」
その声をかけた人はどんな顔をしているのだろうか。
「ありがとな」
靴を履く。隣に並ぶ革靴を見て、今更ながらに彩花の足の小ささに驚きを覚
える。
「哲也。私は何一つ納得したわけではないし、頷いたわけじゃない。それでも
哲也の通す筋があるというのなら、通せ。その代わり私は私の筋を通す。絶対
だ」
扉を閉めた。逃げることですら中途半端な俺がいた。
家に帰ってから泣いた。こんなとき、泣いた奴が負けだ。
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