月下 -Queen of the Night-

第九話

 さて、罵倒されたり踏んだり蹴ったりの喫茶店であるが、居心地がいいのは
間違いない。コーヒーを口に運び、左手でレーズンの入ったパウンドケーキを
取り分ける。いちごジャムは彩花が後から注文したスコーンに引っ付いてきた
ものだ。仄かな酸味にいちごの香りが周囲に漂う。普段あまり甘いものを食べ
ない俺ですら気にせずに口にできる上品な感じがなんとも言えない。
「彼氏器用だな。よく左手だけで切り分けるよ」
 一号が感心。
「うん、哲也は器用だぞ。サボテンを接木したり寄せ植えしたりするんだ」
 彩花がベタ褒め。
「おう、手先は器用だぞ。彩花は俺の指先テクニックの奴隷なんだ」
 俺自爆。
「わははここに正当防衛が成立したな哲也覚悟しろ」
 嘘です花瓶で殴りかからないでください。
「そういや彼氏。人間にはなぜ手があるのか知っていますか」
 二号。相変わらず丁寧な口調の割りに意味がわからん。
 なぜ人間に手があるのか。
「彩花は何のために手を使っているんだ」
 振ってみた。
「哲也に突っ込みを入れるときと哲也を殴るときと哲也を脱がすときだな。遼
太は」
 俺がタコ殴りにされているわけである。
「ゲームのパッケージを掴んでレジに持っていくときとマウスをクリックする
ときだ。悪いか。康太は」
 非常に悪いと思う。
「マンガをめくるときくらいですね。彼氏はどうです」
「ま、そりゃ、おっぱいを揉むためじゃないか」
 真剣に思う。
 もし、だ。鳥のメスにおっぱいがあれば、鳥は空を飛べるように進化しなかっ
ただろう。揉むのに忙しくて。ワニだって這い蹲ることはなかっただろう。人
間が手によって文明を開花させてきたというのなら、その原動力はおっぱいで
はないのか、そう思う。
「俺は文明おっぱい起源説を唱えたいんだ。そして人間を偉大にしたのはやっ
ぱり巨乳だと思うぞ」
「うん、哲也はいいことを言うな。遼太、康太、巨乳は正義だ、常識だ、絶対
だ。少しは哲也を見習え。わかったら返事」
『うす、姉ちゃん最高っす』
 反応速度コンマ一秒。二人で揃って姉を褒め称える。恐るべし神対馬彩花独
裁恐怖軍事政権。
「さすが母親代わりってところか、彩花」
「うん。娘にとってさしあたっての理想と天敵は母親だからな。私も良く遼太
と康太の所有権を巡って母とバトルしたものだ」
 そして母親が亡くなって以降、彩花はほんとうに母親代わりになったわけだ
。自分の気持ちも、欲しいものも、何もかもを隠して弟たちに付き合い、それ
を一番の幸せだと信じて疑わないのだ。
「彼氏はどうなんだよ。姉ちゃんいるんだろ」
 彩花ならなんでも弟たちに言っていそうな気がした。
「何か聞きたいのか一号」
「さしあたって彼氏の中学校時代のお話でも。俺たち中学生ですから」
 スキンヘッドの二メートル近い身体で中学生と名乗るかこいつら。まあ、
「語るほどではないぞ。今とあまり変わらん。適当に学校に行って、適当に過
ごして、適当に毎日を送っているだけでさ」
 今こそ彩花がいるが、友達も好きな人も何もない毎日だった。
「私も興味あるな。少しずつ聞いてみよう。哲也、部活は」
「やってない」
 即答。
「彼氏、恋愛とか初恋は」
「ありえない」
 即答。
「おい彼氏、なら趣味は」
「特にない」
 即答。
「哲也、お前の生きる価値は」
「別にな……こら、誘導尋問するな彩花」
 中学一年まで姉の背を見て生き、それからは初めて放り出された世界に溶け
込めず隅っこで生きてきた。冗談ではなく価値のない人生を送ってきたのだと
思う。
「どこかで事故に遭ったとか、そういうのもないんですか」
 そんなもん期待するな。
「敢えて言うなら姉ちゃんが病気になったのと、そのせいで庭の手入れをする
ようになったことくらいか」
「つまんねえ。どうせネタだらけの人生で笑わせてくれるかと期待してたんだ
ぜ」
 俺の人生で笑おうとするな。
「言い忘れてたけどさ。俺中学一年くらいまでの記憶が曖昧でな。言われると
思い出すんだが、どうも出てこない。なんか昔と聞くと姉のことくらいしか思
い出せない」
 別に頭をぶつけたわけでもなければ記憶喪失というわけでもないと思う。が、
実は俺は小学校のときの担任の名前ですらアルバムを見ないと思い出せない。
 いや、仮に自分の昔の話を聞いたところで、それが他人のものであるかのよ
うな印象すら持ってしまう。
 昔という言葉は、姉の背中と庭の巨樹の影ばかりを俺の心象に投影する。
「それは多分、哲也の姉がとても立派な人だから、だ。平凡で平和なことが一
番いい」
「ああ、平凡だったんだろうな」
 そう、平凡で平和だった。
 今日の喫茶店に流れる時間に似ていた。
 姉は俺を罵倒することもなければ突っ込みを入れることもなかった。種類も
思い出せない紅茶を淹れ、庭の巨樹の下で取り留めのない会話を、俺のどうで
もいい話を聞いてくれた。
 ずっと過去の話だ。俺は一人で、負け犬でもいい、生きていかなければなら
ない。そのためにすることは過去を思い出すことではなく、流されながら負け
る一歩手前で粘ることくらいだ。
 そのために学校を好きだと思うようにしている。そして今は彩花を大好きだ。
 そんな取りとめのない、少し優しい会話をして午後の日の傾く頃。彩花たち
と別れた。
 とてもいい日だった。だから、家に帰るのはもう少し遅くなってからにしよ
う。この楽しい気分をしばらく味わいたいから。

 週が変わって月曜日。
「哲也。今日の放課後は暇か、そうか。哲也は本当にいつも暇だな。生きてい
て楽しいか」
 待てこら。
「毎日がパラダイスだって言っただろう、彩花。俺は毎日獅子奮迅の大活躍だ」
「ん、まさか暇ではないのか。それは驚天動地の抱腹絶倒だ。明日の天気は地
球滅亡だな」
 そこまで言うか四文字熟語。
「いや、暇だけどさ」
 なんという不毛な会話だ。
「やっぱり暇なのか。わははははははははダメ人間め」
「笑いながら罵倒っすか」
 今の問答にどのような理由があったのかを聞きたい。
「さて、ひとしきり笑ったところで哲也。哲也の常に暇な時間を彼女との愛情
を深めるために使ってみないか」
 それだけのことを言うためになんという罵倒と遠回りだ。慣れたけどさ。
「要するに彩花も暇なんだろ」
「いや。私は常に哲也のことを夢想するのに忙しい」
「俺だって彩花のことを夢想するのに忙しい」
「いや、哲也の場合は妄想だが、私の場合は夢想だ。言ってみればサルと人類
の違いだ。わかるか、哲也。まあ残念な頭脳ではわからんだろうな。いい、特
別に許す」
 今日の罵倒は通常の三倍増しである。何か特別嫌なことでもあったのか、い
いことでもあったのか。
「で、今日の放課後に何をするんだ」
「健全な男女が二人、放課後だ。することなんて一つに決まっているだろう」
「しりとりか」
 ……待て。単なるボケだ。沈黙は勘弁してくれ。
「哲也。しりとりでもかまわないが、私は害虫駆除ごっこか雑草むしりごっこ
を楽しみたい気分だ。当然哲也は害虫か雑草の役割をしてもらう。ああ心配す
るな殺虫剤は二年分くらい用意しているぞ」
 要するに俺は駆除されたりむしられたりする役目か。
「彩花。今更だが俺、主役は向いていないんだ。演技が下手だからな」
「大丈夫だ、演技なんて一瞬でいらなくなる身体になる……と、冗談はさてお
き、だ」
「彩花の家に、案内してくれるんだな」
 あまり話が発散しないように先手を打つ。
「さすが察しがいいな。前の約束どおり、私の家に案内しようと思う。実は今
日は家族が旅行で家に誰もいないんだ。夜まで二人っきり、だな」
 ……
「って言いたかっただけだな、彩花。俺は彩花と二人っきりになるのが最近も
のすごく怖い。次に夜道が怖い」
「ああ、旅行のいうのは嘘だ。まあ夜遅くにでもならない限り誰も帰ってこな
いのは事実だ。なんだ、それだけの事実で早速妄想とは哲也の大脳は資源の無
駄遣いだな」
 ちなみに半分以上は彩花の妄想だと思う。俺の大脳が資源の無駄遣いなら彩
花の大脳はパンドラのブラックボックスである。まあいい。四の五の言っても
彩花は義理堅くも俺を家に案内してくれるというわけだ。ならばせいぜい楽し
ませてもらおう。
    

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