コーヒーの香る半地下の喫茶店。気の利いた交響曲に程よい照明。食器の触
れ合う音が時折響き、時間の経過を不規則に刻む。スモークガラスを通す太陽
光はあまりにも弱く、客たちの表情は見て取れない。それだけなら調度品の高
級さに支配された空間なのだが、ならばそこはかとなく漂う居心地の悪さは客
の責任なのかもしれない。
もう少し観察してみよう。現在、喫茶店には客が四名。うち、女一人は膝を
組み、男三人は膝を抱え、押し黙る。喫茶店の壁に染みこんだ重苦しい気配は
どうやらここが発祥の地らしい。
こういうとき、大抵の理由は後ろ暗いものと決まっている。そして物語はい
つもこんな空気で幕を開けるのだ。例えばそれは銀行強盗の計画だったり、国
家転覆の陰謀だったり、内乱扇動の密談だったりする。あるいは、男三人で女
一人を吊るし上げているという線も否定できない。
あくまでも物語のセオリーとしては、だ。
事実は小説より奇なり。詳しく観察すればそんなセオリーなど風の前のとも
し火ですらない。
そう、この場の主人公はどう見ても紅一点の方であり、支配力も権力も女一
人に偏っており、例えるならば女王様と専属奴隷ABCという感じである。そ
れだけでも視線を合わせたくなくなるような一人と三匹であるが、実はこの重
苦しい雰囲気がしょうもないギャグの滑った結末だと知っては憐れみの余地す
ら存在しない。
前置きが長くなったが、ここから先が真の前置きである。なぜこんなことに
なったのか説明しよう。
時間は本日、三時間目終了までさかのぼる。
「哲也。今日は土曜日だというのに昼から暇か、そうか。哲也は本当にいつも
暇だな。生きていて楽しいか」
起きた瞬間に罵倒。しかも二度ネタ。
「おう、俺の灰色の人生も彩花のおかげで毎日がパラダイスだ」
寝起きにもかかわらず罵倒に余裕で返事する俺。
「さて、どうしようもなく暇に溢れた哲也の人生にもっと花を添えてやろうと
思っているんだが、先に感謝しろ」
オッケー。
「そいつはすげえな彩花。いや彩花様。俺の家の家訓に七代先に渡ってまで彩
花様に感謝するように記しておこう。朝と晩には彩花様の方向を向いて土下座
するのは近未来の常識だな俺の未来予測がそう伝えてくれるぜ」
超投げやりだ。
「ったく小人の賞賛は侮蔑より耳を汚された気がするな。まあいい。私は上機
嫌だから特別哲也にも教えてやろう」
どうせ彩花が目を輝かせている時点で俺に逃げ場なぞ存在するわけもないの
だ。
「なんだよ。いいことって」
義務感八割強制二割。俺の意志はその他一パーセント未満。
「うん。実は今日弟たちと待ち合わせをしているんだ。うらやましいだろう」
「どこで」
「駅前だ」
「なんで」
「買い物に付き合うためだ」
「そうか、頑張れよ。俺は寝る。じゃあな」
「こら、続きを促せ。話がまだ半分も済んでいない」
どうでもいいが教室で髪の毛を掴んで起こすな顔が近すぎる。
「それで、俺にどうしろというんだ」
「哲也も来ないか」
「どこに」
「駅前に」
「なんで」
「買い物に付き合うためだ」
「そうか、頑張れよ……ってなんで俺が彩花と弟の買い物に付き合うんだよ」
彩花だけなら百歩譲ろう。だが、彩花の弟となると納得がいかない。
「私の命令があればそれは哲也の義務だ。ここまではいいな」
全然良くないが一応頷かないと先が続かない。
「哲也の義務は世の中の常識。すると哲也が自分の義務と常識に対して理由を
聞くことが理解できない。以上、証明終わりだ」
なんという新常識。常識検定もびっくりだ。彩花が数学を苦手科目とするの
も深く頷ける。
「ま、要するに俺も付き合えばいいってことだな」
「うん、そういうことだ」
どうせ暇だし彩花と過ごすというのは魅力的だ。
「わかった。じゃ、一眠りするから放課後に起こしてくれ」
「こら、なぜ寝るんだ」
ものすごい勢いで襟首を掴まれて教卓に頭をぶつける。このままの勢いで殴
られ続ければ俺の寿命は持って後三ヶ月だろう。
「ったくな。今更殴るなとは言わん彩花。代わりに授業中くらい寝させろ」
「は?」
「だから放課後まで寝させろ」
ものすごく気の毒そうな視線が俺を向いていた。
「あのな哲也。今日は土曜日で半日授業なんだ。実はもう授業は終わったんだ。
お前は三時間ぶっ通しで寝ていたんだぞ」
時計を示される。なるほど、十二時と五分だ。そういえば教室に人が少ない。
何のために学校に来たのか激しく謎だが、それだけ眠れた俺も表彰ものである。
中身のない鞄を肩にかけ、まだまだ緑色の楓の並木を通る。
「いい天気だと思わないか、哲也」
「ああ、秋晴れだな」
天高く馬肥ゆる秋。そんな言葉にお似合いの青い空。冬の空は高すぎて届き
そうにもないが、秋の空は優しいくらい高くに見える。ちなみに天高く馬肥ゆ
る秋というのは本来「外敵に備えよ」という意味だと聞いたことがある。
「哲也、何も言わずに少し私の荷物を持ってくれるか」
外的襲来。恐るべしことわざパワー。
「で、何をたくらんでいるんだ」
よもや彩花が髪を梳くためとかそんな女性みたいな理由で俺に荷物を託すわ
けがあるまい。
「哲也、罰ゲームという言葉を知っているな」
うわ出たよ突然発言。
「ああ、知っている。最初から俺がやらされる羞恥プレイのことだな」
あきらめと悟りを足して二乗したような境地だ。もはや理不尽さを訴えるよ
り罰ゲームをいかに淡々と済ませるかを考える。
「わかっているじゃないか。なら今からゲーム開始。駅前に早く到着したほう
が勝ちだ。ゲーム開始」
言うと同時に駆け出す。上機嫌に輪をかけたような背中が秋空の街に跳ねる。
なんというか、綺麗だ、が。
俺の手には彩花の荷物と自分の荷物。一つため息を浮かべ、後を追う。そん
な女のケツを追う時間がなぜか楽しいとすら思える俺。随分丸くなったもんだ
俺も。
が、
「遅いぞ哲也。せめて全力で走る振りでもするんだ」
彩花こそ変わったと思う。昔の彩花なら冗談でも不公平なゲームを楽しんだ
りしなかった。それが今では面白いという理由が正義より先立ち、仮にプラス
をマイナスにしようとも自分の意志でやりたい放題。
三十秒遅れで彩花に追いつく。息を整え
「さすがに荷物二つも持たされると勝負にならん、彩花」
「いや、不公平じゃないぞ哲也。私は常に哲也では想像できないような荷物を
胸に抱えているんだ。女は大変なんだ」
なるほど。やっぱり富士山と巨乳は遠目に鑑賞するのが一番いいのかもしれ
ない。もしかすると男は生まれた瞬間から勝ち組なのかもしれない。
「だが苦労の暁には報われる日が来るんだ彩花。なんなら俺がここで彩花の
胸に報いてやっても嘘ですごめんなさい俺が悪かったです」
最近彩花の拳に力が入った段階で謝罪モード。
「罰として今日は一日私の荷物を持つんだ、哲也」
彩花にしてはかわいらしい罰ゲームだ。うんざりした顔を演技し、
「はいはい。許してくれ彩花」
荷物を持ち替えてお辞儀。こういうときは多少憎たらしく見えるくらいの丁
寧さがいい。
どたばた騒ぎをやりながらも駅前で軽く食事を取り、時計の前。
「哲也、笑顔で挨拶するんだぞ」
「当然だろ」
午後一時二十分。壁に背を預け、横に並ぶ彩花と弟たちを待つ。
「ん、寝癖がついているな。整えておいてやろう」
「ん、あ、おい」
有無を言わせぬ勢いで一気に間合いをつめ、どこから出したのかも見えなかっ
た櫛が髪に絡む。迫ってきた薄い桃色の唇に飛び上がる。
「こら逃げるな哲也。子供みたいだな」
「彩花が近すぎるんだ」
「ったく、世話のかかるやつだ。ほら。もっと近くに来ないか」
袖を掴まれ、動きを封じられる。器用に俺の髪に櫛を押し当て、少し背伸び
して髪を梳く。
が、実のところ彩花の長髪が首に当たる感触と吐息が触れる頬とたまに押し
付けられる胸の感触と二の腕の白さとその奥に見る素肌と知らなかった何かの
香りせいでいっぱいいっぱいだ。髪の毛なんでどうだっていい。むしろ脳みそ
がどうにかなりそうである。こんなときだけ指一本すら動かせない自分がつく
づく情けない。これ以上は男として理性が保てなさそうだ。誰か助けてくれ。
「うわ、姉ちゃん積極的だな」
「むしろ襲ったらどうですか彼氏」
助けられた気がした。
「って今の声誰だよ」
「お、遼太に康太。来ていたのか。紹介するまでもないがこのエロくてアホな
顔をしているのがペットの哲也だ」
「って俺ペットって触れ込みかよ」
「エロくてアホの方には突っ込まないんだな、自覚あったのか哲也」
「ほっとけよっ」
思いっきり突っ込もうとして、やめておいたのだ。
目の前にあるものの異様さに凍りついたからである。
巨大な影とスキンヘッドが二つ。彩花が名前で呼んでいなければ命の危険す
ら感じそうだ。
俺がボケる隙間も彩花が突っ込みを入れる暇もなくこの巨体は彩花の弟らし
い。
「哲也。自己紹介タイムだぞ」
自己紹介なら最初から言うべきことは決まっている。
「俺は名乗るほどもない高校生だ。趣味はサボテン栽培な」
笑顔で挨拶しろなんていわれたが正直この状況で笑顔を作れる奴は人生を悟っ
ているかアホかどっちかだ。
「なんだこいつ。意味わかんねえから彼氏って呼ぶぜ」
こっちの粗暴な感じが遼太で
「そうですね。俺たちのことも一号二号で結構です。彼氏」
そっちの言葉遣いの丁寧なほうが康太。
そして俺の名前は「彼氏」に固定されたらしい。身長二メートル近いスキン
ヘッドに彼氏と言われた日にはケツの穴でも必死で防衛すべきなのか真剣に悩
む。
「随分いい身体してるな。なんかスポーツしてんのか一号」
とりあえず聞いてみる。
「ああ筋トレしてるぜ。俺の恋人は上腕三頭筋だぜ。姉ちゃんを彼女にしてる
奴に言われたくねえよ」
なぜ姉と筋肉が比較対象なのか問い詰めたいがもはや日本語が通じる相手で
はないと悟る。
「二号、結局一号は何を言いたいんだ。翻訳してくれ」
というわけで多少理性のありそうな方に聞く。
「はい、バスケットボール、つまり球入れをやっているんです彼氏。ちなみに
姉ちゃんはタマ蹴りが得意ですけど」
なぜ姉とタマが並ぶのだ。
「お前らの中で彩花は一体なんなんだ」
「そりゃ彼氏決まってるだろ姉ちゃんは」
一号が残像を残して視界から消え、二号の首に手刀が紙一重。
「康太。遼太のようになりたくないだろう。いくら二つあるものでも一つを失
うとつらいぞ?」
「はい、気をつけます姉ちゃん」
彩花の金言に思わず股間を押さえたくなってしまう。まったく、えげつない
兄弟だ。
「で、そろそろ俺が彩花と弟二人の買い物に付き合わされる理由を教えてくれ
るか」
倒れている一号を起こし、商店街の中をそぞろに歩いて三十分。彩花に話を
振ってみる。
「それは当然哲也が私の家畜だからだ。以上、証明終わり」
ペットから家畜に変身ですかそうですか。
「彼氏、突っ込みも言い返しもしないんですか」
二号か。
「ああ、別にペットでも家畜でも実験動物でもなんでもいい。少なくとも彩花
の役に立っている間は命の保証もある」
実験動物の場合はないかもしれないが。
「聞いていた通り皮肉屋で負け組みだな彼氏。なんで引きこもらないんだ」
なぜ引きこもらなければならない一号。
「負け組みでも極めれば威張り散らせるんだ一号」
「こいつアホの極みだな康太」
「遼太、そういうときは天才と紙一重といってやったほうが喜ぶ。ね、そうで
しょ彼氏」
喧嘩の叩き売りだ。
「こらお前たち。今日は四人で買い物だ、なぜ男同士は仲良くできないんだ」
いつもどおりの彩花の言葉に、疑問が解けた。
彩花は俺がいれば弟たちももっと喜ぶ、そんな風に考えたのだろう。まった
く安直というか、弟にはとことん甘い姉だ。買い物だってそうだ。弟たちのバ
スケットボール用品に上着を買い、弟たちの参考書を選び、遠目に小物を眺め
る彩花。それは買い物というほど物を買うわけでもなんでもなく、彩花が自分
のものを買うこともない時間。全てが弟を中心にした午後の優しい瞬間。
もしかすると、彩花は俺に対しても自分を優先させないでいるのかもしれな
い。
商店街も歩きつくし、再び駅前。なぜか止まっている献血車両に人が並ぶの
を尻目に半地下の喫茶店へと入った。
コーヒーを頼み、一服。
「しかし血の気の多い奴だよな、一号って」
「どこがだよ、喧嘩売ってんのか彼氏」
ほらみろ、血の気が多いじゃないか。
「彩花。一号を献血を紹介していいか」
「ああ、別にかまわん。遼太なら腕をまくって『逆満タンでお願いします』と
か言ってくれるぞ、な」
「言わねえよ姉ちゃん。というか死ぬから多分」
「いや、遼太なら大丈夫でしょう。言ってくれますよ。『リッターでお願いし
ます』とか」
「だから言わねえよ康太。献血でリッターも採血するか」
「おい一号。実は俺、昨日リッターで血を抜いてもらったんだ」
「なんだと彼氏。なら俺は逆満タンでいくぜ。ちょっと行ってくる」
風を巻き起こし、扉の閉まる乱暴な音が響く。まったく、一号の血液は三倍
くらいに薄めないと一般人には受け付けそうにないような気がする。
「おい彩花。一号が本気で行ってしまったぞ」
「心配するな哲也。あいつがノリを忘れたときこそ心配しなければいけない」
膝を組む彩花が優しく笑う。
「余裕だな、彩花」
「それは……中学に上がった頃にはもう姉ちゃん、お母さんの代わりでしたか
らね」
横から聞こえてきた二号の声に振り向く。それは俺が軽々しく立ち入ってい
い場所ではないのだろう。少ししんみり
「抜いてきたぜ彼氏。全血献血だってよ俺生きてるぜ」
「早っ」
「遼太。成分献血と全血献血の違いも知らないのか。真性のアホだな。もしか
しなくても遼太、お前軽自動車に軽油を注入するクチだろう」
「え、違うのかよ姉ちゃん。軽油で走るから軽自動車って名前じゃないのか」
アホだ。
「では姉ちゃん。ラーメンにラー油を入れるという事実はどう考えたらいいん
ですか」
康太、それは面白すぎるが発想の無駄遣いだ。
「さすが康太。面白いな。それは私も想定外だ」
「この分じゃ一号も二号も原付に原油を入れてそうだなおい」
……
「おい、遼太、康太。ここに最大のアホがいたぞ。しかもギャグまでつまらん。
罵倒しろ」
「最低だな彼氏」
「最低ですね彼氏」
そして耐え難い沈黙に放置プレイ。非常に長い話になったが、このどうでも
いい雑談が喫茶店の空気を凍りつかせたわけである。銀行強盗も、国家転覆も、
内乱扇動も何もないお気楽な秋空の下の話なのだ。
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