月下 -Queen of the Night-

第七話

 寄り添ってくれた。
 その昔。小さかった俺にそうしてくれたように、彩花がいてくれた。
「……哲也。その、少し痛い」
「あ、悪い」
 慌てて手を離す。見れば彩花の腕には俺の手の跡がくっきりと残っている。
その肌の白さと、薄桃色に染まった握り跡に見蕩れてしまう。
 場所は俺の部屋。時間はあれから一時間経った。
 部屋の中が薄暗い。
 予想以上に細くて小さな彩花の掌の感触を思い出す。
 その感覚がどこまでも過去の記憶とつながり
「姉だ」
 それだけを告げた。
「お姉さん、か」
 彩花の声が優しく響く。
「何も聞かないのか、彩花」
「嫌なら言わなくていい。秘密を持つ哲也も格好いいぞ」
 笑えた。こんな馬鹿をどこまでも優しく受け止めてくれる彩花にも、姉にも
俺は一生頭が上がらない。ちっぽけな覚悟ができたことに感謝する。

 姉の話をしよう。
 四歳離れた人だった。
 とても快活で元気な人だった。
 彩花の言うとおり、どこかのお姫様のような気高くて、優しくて、聡明で、
風格があって、毅然とした人だった。
 俺の知りうる限り、一番美しい人だ。こればかりは彩花でも勝つことができ
ない。
 俺と違って庭の手入れが大好きで、休日の大半を庭で過ごしていた。一番の
お気に入りの場所は彩花も座っていた巨樹の下で、いろんな本を片手に持って
いた。そして俺はいつもその隣にいた。
 よく植物の話をしてくれた。全然興味のない俺だったが、その流れるような
上質の言葉が大好きで、意味も分からないのにずっと聞いていた。特に記憶に
残っているのが月下美人だ。
 一年に一度、または二度。たった一日夜にしか咲かない大輪の花。異国の地
からたった一人訪れた風変わりな皇女。姉の言葉はその花をどんなものよりも
気高く、美しく、幻想的なものであると紡いだ。その姿はまさに神託を告げる
神の使いだった。そしてそんな言葉の最後、姉はふと人間であったことを思い
出したかのように笑い、
 いつか見てみたいな。
 彩花とそっくりの言葉を告げた。
 姉と彩花は確かに良く似ている。どんなときも正義と公正に溢れ、強さと優
しさを兼ね備えた姿は時に彩花より頼もしかった。
 が、姉の行動には唯一の例外があった。
 俺だ。
 姉はどんな正義や理屈よりも俺を優先した。俺のことになるとどんな事実も
正義も平然と投げ捨て、捻じ曲げた。どれだけ俺が嘘をついていても、それを
見抜いていようとも、同道と俺の言い分を弁護した。どれほど卑怯な手を使っ
ても、絶対に俺を助けてくれた。
 俺はそんな姉のことが大好きだった。いや、今でも姉のことは大好きなのだ
と思う。話すことも、姿を見ることもなくなったが、それでも俺にとって姉は
全てだ。
 転機は俺が中学一年生の晩秋。姉の誕生日の前日のことだ。
 姉が熱を出して倒れたのだ。
 原因はわからない。ただ、姉は何の言葉を発することすらできず昏睡したの
だ。すぐに病院に運び込まれたが、打つ手立ては何もなかった。
 祈るだけだ。
 昏睡が突然だったのと同じように、正確に三日後姉は目を覚ました。自宅で
その知らせを聞いた俺がどれほど嬉しかったか、言葉にはできない。
 最初に思いついたのは姉の誕生日プレゼントのことだ。姉は誕生日の前日に
倒れた。昏睡から目が覚めて誕生部プレゼントなんて格好いいじゃないか、そ
う思った。
 それは初めて渡す姉へのプレゼントだ。迷うことなんて何もなかった。
 ―いつか見てみたいな―
 印象に残るその言葉。
 月下美人。
 育て方も何も知らなかった。どんな花が咲くのかも分からなかった。最初か
らプレゼントの中身なんてどうでもよかった。
 ただ、姉の笑顔を見て、あの声を聞けたらそれでよかった。有り金全てを費
やして月下美人の鉢を購入し、病院に走る。
 姉になんて言ってやろう。昏睡騒動で俺を焦らせた仕返しだ。どうだこの雑
草、と偉そうに言うべきか、実は昆布なんだと言ってみるか。少なくとも素直
に誕生日プレゼント、なんて絶対言わない。
 そんなどうでもいいことを悩みに悩み抜いた。そして病院の個室。ノックも
そぞろに飛び込み、駆けてきた息を整え、
「プレゼント、月下美人」
 結局、そんな言葉しか出なかった。一気に恥ずかしさがこみあげてきた。恥
ずかしいから姉に背を向けた。
 ずっとそうしていた。
 だが、すぐに聞こえてくるはずの余裕と優しさに溢れた声は聞こえてこない。
 我慢できなくて振り返った。
 瞬間。
 両肩をつかまれ、病室の扉に押し出された。信じられない力だった。姉が俺
を病室から追いやったのだ。
 俺の記憶もそのあたりはあいまいだ。ただ、気がつけば病院職員に肩を抑え
られ廊下に座り込んでいた。身体のあちこちが痛かった。
 なぜ姉が俺を拒否したのか、その理由を知ったのは次の日だ。
 高熱で脳の発声野に障害を負ったらしい。そう、医者に告げられた。
 少しわき道にそれる。
 人間は実は耳で音を聞いているわけでも、目で物を見ているわけでもない。
耳という組織は音波を捉え、電気信号に変換する装置だ。その電気信号に意味
づけをおこなっているのはあくまでも「脳」である。
 人間が言葉を発しようとする際は、「脳」で意味づけされた言葉を判断し、
的確な言葉を選び取り、脳の発声野から声帯に電気信号を送り、声帯が電気信
号を筋肉振動に変換し、言葉を作る、という長い過程を経る。つまり、ここま
でのどこが欠けても人間は返事を返すことはできない。
 姉が失ったのはまさに最後の部分、正しい言葉を電気信号にして声帯に送る
部分だ。当然音を聞くことはできていたし文字を理解できなくなったわけでも
ない。ただ、言葉を口にすることができなかったのだ。
 それだけのことで、姉は祝福された人生を失った。
 言葉を奪われた人間の苦しみが俺に理解できるわけなんてない。ただ、姉は
俺を病室から追いやったように、友人の見舞いにも、先生の見舞いにも全てに
背を向けた。筆談くらいは十分できたにもかかわらず、だ。一切視線を合わせ
ようとせず、一切言葉を綴ろうともしなかった。当然学校も休学した。
 季節は春になり、俺は中学二年生になって姉は書類上なんとか高校二年生に
なった。あの日、病室から追いやられた俺の手にあった月下美人は何度も叩き
割ろうとした末、万一の可能性に掛けてハウスに移した。庭の手入れを俺が代
行するようになったのもこの頃だ。気分の悪い庭の巨樹を仰ぎ、それでも姉の
手入れしていた頃を保とうと必死で勉強した。
 いつか姉が病気から解放され、障害を克服できるようになるまで。
 季節は秋になり、姉はまた高熱を出して昏睡した。
 同じように三日程度で快復し、今度は音を失った。姉はますます孤独を深め
た。
 二度目の春を迎え、俺は中学三年生になって姉は高校を自主退学した。もう
告げるまでもないがその晩秋、姉が三度熱を出し、手足の運動機能を失った。
 最後に姉の部屋に入ったのは高校一年生になったことを一応姉に報告したと
きだ。そのとき、姉はもはや俺が部屋に入ったことに気付きこそすれ、具体的
な行動を取ることですらできなかった。
 正直なところを言おう。
 骨折や捻挫ならいざ知らず、未だその機能すら解明すらされていない脳に障
害を負った姉が回復することなんてない。姉はこのまま全てを失っていく、最
初からそれくらいわかっていた。だから俺が高校一年の晩秋、姉が光を失った
と聞いても何も思わなかった。全ては神か悪魔の仕組んだ予定調和というやつ
だ。
 そこまできてようやく、俺は「なぜ姉が世界の全てに背を向けたのか」を理
解した。
 もし、次に熱を出せば姉が失うものは何もないのだ。
 今、長かった夏が終わり、季節は秋。何の根拠も無いが、今年も姉は多分熱
を出すだろう。
 次に熱を出せば良くて理性、悪くて命を失う。自分が一歩一歩確実な死に追
いやられているとわかって世界を愛せる奴なんていない。
 医学が無力だとなじるなら俺は無知で無能だ。姉の姿を正視することも、当
り散らすこともできない。ただ、姉が俺を拒むことを幸いに背中を向けて逃げ
るだけだった。
 結局、学校を好きだと思うようにして家のことを忘れるようにした。
 最初の言葉を繰り返そう。
 俺は学校が大好きだ。そう思うことにしている。
 ただし、それは姉の体験することのなかった高校生活だ。俺にはそれを楽し
む権利がない。

 一気に語った。
 言葉にするとあっけない三年間。
「……ありがとう、哲也」
 彩花の声が金色の光のむせる部屋に柔らかく響く。
 なぜ、彩花が俺にありがとうと言うのか、俺には理解できなかった。
 それでも、
 ありがとう。
 その温かな響きの五文字の単語がただただありがたい。こんなとき、日本と
いう国に生まれてよかったと思う。
「ごめんな、彩花」
 こつん。笑い声と共に軽すぎる手刀。
「哲也。私に隠し事をするなんて絶対に許してなんてやるものか。一生尽くし
ても尽くしきれないほどの大事件だ。許してほしければこれからも私に尽くす
こと、だ」
 ああ、そうか。
 構えていた何かが溶ける。
 彩花は姉とは違う。姉だったら問答無用で俺を許してくれた。どんな嘘をつ
いても信じてくれたし、どんな隠し事も絶対に知らない振りをしてくれた。だ
からこそ姉には正直であれた。俺はそんな姉のことが大好きだった。
 彩花は問答無用で俺を許さない。絶対に許さないだろう。ことあるごとに蒸
し返して楽しむだろう。だからこそ、この上なく彩花のことが好きだ。
「ならずっと、尽くさせてもらうか。よろしくな」
 ほんとうに、そう思った。
「生憎だが駄犬に頼む用事なんてないんだ」
 えー。
「わかったわかった。精一杯頑張らせてくれ、な。彩花」
 膝を地面につき、わがままなそぶりの貴婦人に礼を尽くす。
「うん、ありがとう。哲也」
 それは彩花が俺にだけしか見せないわがまま。
 俺は多分、学校を楽しいと思わなくても、次の楽しみを満喫している最中な
のかもしれない。
    

←第六話へ 第八話へ→
「月下」もくじ
他の作品を探す