「……哲也」
それは一般的な女性よりは少し低く、それでいて透き通った声。少し寂しさ
を帯びた秋空にとても良く似合う。といえば詩的であるが本能に従えば少々色っ
ぽいいと評することができる。そのしっとり感を帯びた声質は何物にも変えが
たい癒しという名の至宝だ。まあ色っぽかろうが癒しであろうが結局人間のコ
ミュニケーションにとって声質は二次的なものであり、その中身こそが一義的
なものである。というわけでどんな癒しボイスであって例えば俺が
「また胸でもでかくなったのか」
なんて言葉をかけて
「なるかアホ」
と返ってきた上に顔面に拳の風圧を感じた日にはせっかくの色っぽさも癒し
も台風の前の紙くずである。だが、既に見切りをつけた俺には彩花の振るう拳
など止まった棒に過ぎない。鼻先に風圧を感じながら北斗○拳伝承者もびっく
りの速度で拳をかわすなんて朝飯前だ。この背中の反り、識者が見ればフィギュ
アスケートに勧誘するんじゃないか。
「ふ……もはや俺は彩花の攻撃に対して無敵だな」
ついでに勝利宣言だって忘れない。
「おめでたい奴だな。自分の姿を今一度確かめてみてはどうだ」
……ん。そういえば下半身が涼しい。
「っていつのまに露出」
いつのまにやらズボンのチャックが全開である。それ以上は以下自粛。
「哲也……二分の一だな。そんなのではがっかりだぞ?」
彩花が深く頷いてひどく理解力のありそうな視線を俺に向ける。なんとなく
憂いと悲しみと哀れみと憐憫の情とやるせなさと無力さをまぜっこぜにしたよ
うな心境が伝わってくるのは気のせいではあるまい。
「あのさ、彩花。俺は今何と比較されて二分の一という話になったんだ」
空気を読まずに聞いてみる。
「哲也の男としての有り様が私の理想の二分の一だと言ったんだ。そうだ、明
日学校の全教室の黒板に哲也は二分の一と書いておいてやろう」
「……本気で勘弁してください彩花さん」
俺は多分、一生このトラウマから逃れられない。歴史上何人の男が彼女に二
分の一宣言をされたのだろう。もうポエムでも読みたくなってくる。
「哲也。次は一動作で全裸だぞ?」
「よく、肝に、命じます……」
いっそ殺してくれたほうが楽かもしれない。
「哲也」
「今度は何だよ彩花」
睨まれる。
「呼んでみただけだ」
「……そうかよ」
隣を見る。知らぬ人が見れば凛々しく堂々とした姿に見えるだろうが、俺に
はわかる。今日の彩花は呼吸のリズムだって足の運びだって、背筋の伸び具合
だっていつもと少し違う。全く、彩花ともあろう人間が何を緊張しているのか。
「哲也」
「あのさ、彩花。俺の方から聞いていいか」
いい加減じれったい。言いにくいなら誘導だ。
「今日は日曜日だよな」
「明日は月曜日だ、哲也」
なんか俺みたいな返事の仕方だな彩花。
「確認しておくと日曜日というのは休日だ、彩花」
「人によっては日曜日も働いているぞ、哲也」
少しは黙って聞け。
「で、なんで休日なのに制服を着ているんだ、彩花」
「それは哲也が制服フェチだからだ」
空気が凍った。隣を抜かそうとした自転車が大きくハンドルを切って旋回し、
犬があさっての方向に向かって遠吠えし、こんなときだけ空気を読まないツク
ツクボーシがこだまする。
「すまん。笑いをとろうとしただけだ。凍りつくな空気、笑え哲也」
「わはははははは超ウケたぞ今のその発想はなかったわ」
ごつん。
「そんなに笑うな気色悪い」
「いや図星だったんだ、制服フェチが」
……
「……笑えよ、彩花。単なる冗談だろ」
「すまん哲也。これから私とは五メートル離れて歩け。そして明日全教室の黒
板に『哲也は制服フェチ』と書いて未然に犯罪を防ぐ手立てをしておこう」
最近の流行は黒板に告白なのか。偉くなったもんだな黒板。
「彩花、もうどうしようもないくらい大好きだぞ」
「ああ、私も以下同文だ」
表彰状か俺は。
「で、何を緊張しているんだ、彩花」
「さすがだな。所詮ごまかせないか」
やっぱり、彩花は緊張しているらしい。
「別にごまかしていてくれて結構だぞ」
「ではごまかしておこうか。秘密は女を魅力的にするんだ。哲也だって少しは
私に魅力的になって欲しいだろう」
「そうだな、彩花は十分魅力的だぞ。できればもう少しチラリズムのロマンを
わかってくれると嬉しい」
馬鹿みたいな会話だ。でも
「……ありがとう、哲也。その馬鹿そのものもを軽く超越したような会話と顔
で少しリラックスできた」
「って顔もかよ」
「冗談だ、哲也。中の上くらいには格好いいぞ」
ありがとよ。
「そんなに俺の家に来るのが緊張するのか」
本題に切り込んだ。そう、俺たちの向かっている先は俺の自宅である。サボ
テンの植え替えだとかなんだとか言って彩花を家に誘ったのだ。
「哲也。私は変じゃないだろうか。一番いい服が制服しかなかったんだ。いや
、変なのは分かっている。でも、精一杯がこれというのも」
なんだ、そんなことを気にしていたのか。
「家には俺しかいないぞ。別にパジャマで来ても文句は言わない」
「だが、それでも私が気にするんだ」
制服の袖を中指で押さえ、下を向く彩花が新鮮に映る。
「彩花。さっきも言ったが俺は制服フェチなんだ。正直彩花の制服姿はこの世
の美に対する挑戦だぞ。何度悶死したことか」
舞台に立つのを恐れるお姫様がいるのなら、それを和ませるピエロになろう。
全く、お姫様を元気づけるのも一仕事だ。
「……ほんとうに口達者だな、哲也」
「だから制服を着た彩花を家に案内するのはこの上なく嬉しい。行くぞ」
呆然と立つ彩花の右腕から鞄を奪い、走る。この角を曲がれば俺の家が見え
る。
ところでいつも疑問に思ってきた言葉についてぼやいていいだろうか。
借りてきた猫という言葉だ。
なぜ猫を借りようと思ったのか。そもそも猫を借りるような状況が存在する
のか、猫がなんの役に立つのか、猫を貸してくれるやつがいるのか。激しく謎
だ。まあいい、目下の問題は語源ではなく、右横三十センチに控えている人型
の猫である。
問題の猫は楚々とした、という言葉が良く似合う姿をしている。肩から胸に
落ちる線がセーラー服のラインが美しく映え、正座した太ももの曲線美がプリー
ツスカートに強調され、長い髪に隠された薄桃色のうなじが見えるたびに妄想
を掻きたてられる。男としては軽く悶死くらいはできそうなほどの状況である
が、清楚で気品溢れる顔立ちのせいで邪心とは無縁な存在でもある。まさに伝
説に見る聖母か慈母のようである。仮に猫を何匹かぶっていようとも、その姿
だけで理性を失いかける俺を責められる男は存在しない。そう断言できる。
ということで彩花が猫をかぶっていることには目を瞑る、瞑ろう、瞑らせて
くれ。だが、猫なら猫らしく猫をかぶっておとなしくしていてくれればいいも
のの、好奇心猫を殺すという言葉通り、目の前の猫は好奇心に勝てなかったら
しい。結局、俺の部屋は猫にとって目の前に置かれた鰹節と同じ状態であった
らしく、見事「片付け」られていた。そう、俺がお茶を淹れて戻ってくるわず
か三分の間で足場が猫の額ほどもなかった部屋の散らかり具合が綺麗に整理さ
れていた。が、年頃の男の部屋を片付けるということはすなわちそう言うこと
であり、机の上には整然とカラフルなパッケージが並べられているのだ。俺が
彩花から離れ、部屋に一人にした瞬間に死亡フラグが立っていたわけだ。
そう、エロ本イベントである。いや、厳密にはエロ本ではなく法律遵守の某
シミュレーションゲームが並んでいるわけだが、状況はだいたい同じだ。彼女
に見つけて欲しくないものナンバーワンである。むしろ普通にエロ本でも見つ
かったほうが救いようもあるかもしれない。どうでもいいがブランド順、五十
音順に分類するのはやめてほしい。そこまでするのならいっそ一思いに殺して
ください。
これで彩花が怒り狂っているならまだ身体的な傷だけで事が終わるのだが、
さっきから一言も口を聞かず、淡々とお茶を飲んでいるというのは精神的にキ
ツい。彩花の背筋が伸びるたび、俺の背中は猫背になる。
「彩花。お茶、おいしいか」
「……」
反応なし。胃に穴が空きそうである。
「さあて。そろそろサボテンでも植え替えようか天気もいいし」
胃潰瘍で死ぬ前に立ち上がろうとして、視界が反転。見事にひっくり返され、
彩花の左手が首の横に突き刺さる。胃潰瘍を通り越して腸穿孔を引き起こしそ
うである。
「……あの、彩花さん。一つお手柔らかに、お願いしますよ?」
「哲也。一つだけ聞かせてくれ。うん、別にリラックスしてくれていいぞ」
まさに猫撫で声である。が、この状況でリラックスできる奴がいれば俺と交
代してくれ。窮鼠猫を噛むという言葉は絶対嘘だ。
「哲也だって男だ。別に若干エッチな本を持っていようとも恋愛シュミレーショ
ンゲームを買い込んでいても魔改造したフィギュアを製作していようともそれ
を咎めるほど野暮じゃない」
なぜ魔改造なる言葉を知っている彩花。
「それからシミュレーションな、彩花」
ごちん。
「……恋愛シミュレーションを咎めるほど野暮じゃない。弟どもだってその辺
に散らかしているしな。だが、私がどうしても解せないのは」
ごつん。えげつない音がした。
近くに爆弾でも落ちたか直下型地震でも起こったかと思ったが、彩花の右手
の拳に決まっている。木製の床がへこんで見えるのは気のせいか。あんなの身
体に振り下ろされれば三日くらいは集中治療室に入った上に裏口から退出でき
そうだ。被害が床に留まったことにさしあたって感謝。
「なぜ探しても探しても貧乳キャラばかりが出演しているんだ。私の前ではあ
れほど巨乳がいいなどと言いながらだ。哲也の言葉は私に対する哀れみか、嘲
りか、それとも無理をしていたのか。哲也は貧乳好きなのか。だいたい胸がな
い人間のどこがいい。私の努力は一体なんなんだ。こら哲也聞いているか目を
逸らすな。私は今哲也の感性を聞いているんだ」
詰め寄られる。まさに小一時間問い詰めるを具現化したかのような状況だ。
が、冷静に考えれば彩花は二次元の貧乳キャラに嫉妬したわけだ。なら話は
早い。
「彩花。まずは落ち着け」
「これが落ち着いていられるかっ」
また右拳が首の皮一枚を掠める。一生浮気しないでおこう、そう堅く堅く誓
いたくなる風景だ。
「だから落ち着け。あのな、巨乳分は現実、つまり彩花で補給できるんだ。だ
けど栄養が偏るのはよくない。だから俺は貧乳分を二次元から摂取する。俺が
ゲームを買い込めば買い込むほどに彩花は必要不可欠になるんだ。つまり、俺
は彩花を大好きだぞ」
人間生き延びるためならどんな出任せでも言える。
「ああ、私も大好きだ。だが、私如きでこれほどの量の貧乳に対抗できるのか」
なんだ、そんなことか。
「大丈夫、大丈夫、大丈夫。彩花なら対抗できる。偏差値七十は軽く越える巨
乳だからな」
俺も大変だ。
「そこまで言うなら納得しておこう。ではこの際聞いておくが、哲也は長髪と
短髪、どっちのほうが好きだ」
なぜこの際なのかは敢えて突っ込まないでおこう。俺だって寿命がちょっと
は惜しい。
「どっちも好きだぞ。長髪はその隙間から見え隠れするうなじがいいよな。つ
い顔を埋めて匂ってみたくなるのもポイントだ。ああ、短髪は短髪でさわやか
な感じで好きだぞ。短髪といえば青髪が付随する気もするが俺は黒髪で十分だ。
彩花はどっちが好きなんだ」
切り返し。
「もし、哲也が短髪でもいいと言ってくれるなら短髪のほうが楽だ。私が髪を
伸ばしているのはどちらにでもすぐ変われるからだ」
なるほど。たったそれだけのためによく長髪を維持していたな、彩花。
「なら短髪が好きだ」
彩花の短髪姿も見てみたいし。
「うん、わかった。これからも希望があったら言うんだ、哲也」
それに実際、胸がどうとか髪がどうとかそんなことはどうでもよくて
「彩花の好きにしろよ。俺の好みは常に彩花だし」
「なっ」
そんな臭い台詞が全てだと思う。
「て、哲也。私はサボテンを植え替えてもらいに来たんだ。早く済ませないか」
ものすごい勢いで立ち上がった彩花の後を追う。
「おい、彩花。そっちは洗面所だぞ」
最大の危機を当面回避し、背中を見せる彩花に呼びかける。行き先は中庭だ。
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