月下 -Queen of the Night-

第三話

 灯台下暗しという言葉がある。その言葉通り、教室の最前列というものは教
師からは意外に見えにくい位置なのである。ただし、物事には両面があり、最
前列という奴はいかんせん周囲の状況がさっぱり把握できない場所でもある。
特に最前列の真ん中というポジションはの一人間違って手を挙げようともボケ
て座っていようとも気付けない。というわけで流れに身を任せ多数派のケツを
追いかけ長いものに巻かれるのが大好きな俺は教室の最前列を「さらし者の席」
と定義し、絶対に座りたくない席ナンバーワンに指定している。どうでもいい
ことだが長いものに巻かれるという言葉の長いものというのは象の鼻であると
聞いたことを今思い出したが、進んで象の鼻に巻かれようという奴の気持ちが
理解できないのは俺だけではあるまい。
 前置きが長くなったが、場所は今話題の教室の最前列で教卓のまん前。俺の
席はつい三日前からそこだ。ちなみにすぐ後ろは彩花である。ほんとうのとこ
ろ俺は場所よりも後ろに陣取る彩花が怖い。俺だってこんなことにならないよ
うに席替えのくじを買収し、考えられるだけの人事を尽くして天命を寝て待ち、
窓際の最後尾という最高のポジションを手に入れた。そのはずだ。
 が。
 席替えの終わった瞬間、クラス委員でもある彩花がクラスを睨みつけた。特
に俺のほうである。喧騒に湧いていたクラスの温度が一気に下がる。
「このクラスに実に悪あがきの得意なやつがいる」
 当然そっぽをむいた。
「お前だ、神野」
 まさに悪あがきを指摘されたわけだ。そして彩花がくじ運すらも変えてしま
う強権を発動し、神野のようなアホに相応しい席は教卓の前だこのアホちんを
更生させるために私は万命を賭してすぐ後ろで監視しておいてやろうなどと管
を巻き俺の席を変更したのである。逆らったところでいいこと皆無なので瞬時
に従った。
 結果、俺は授業を抜け出すどころか授業中の読書すらも封じられ、嫌でも机
とにらめっこを強いられている。休み時間くらいは息を抜かせてくれても良さ
そうなものだが、次の授業が始まる二分前までに席についていなければ鬼も逃
げ出すような形相で詰め寄られた上、授業中に後ろでシャーペンを芯を二分に
一回の割合で折る血も涙もない拷問が行われるため、事実上主権を奪われて過
ごしているのと同じである。最近ではクラスの奴が哀れみともついていけない
オーラとも取れるような肌寒い目線で彩花と俺のことを遠巻きにしてくれてい
る。もうどうだっていい。彩花と付き合うということはこのクラスにとって人
柱を差し出したのと同じ意味を持っているのかもしれない。
 時間は昼休み、十二時と二分。
「哲也。すごいぞ」
 授業が終わった瞬間、ほんとうに高校生かと聞きたくなるほどの笑顔を振り
まいて俺の机を引っ張り、身を乗り出す。そんなことをする奴はこの世に一人
しか存在しない。彩花だ。そして彩花がこんな底抜けの笑顔を浮かべていると
きはロクな事が起こったためしなんてない。どうせ腹黒いことでも考えている
に違いないので敢えて視線を外しておく。
「なんだ、また胸でもでかくなったのか」
 ごちん。暴力反対である。
「哲也。胸がそんなに簡単に大きくなるものなら誰も苦労はしない。私だって
苦労しているんだ、しているんだ、いるんだ。別にバストマッサージ三時間と
かやっているわけではないが、いろいろあるんだ」
 そんなに揉むと腫れるぞ多分。というかむしろ俺が揉みます。
「ああ、俺にできることがあったらなんだってするぜ」
「哲也。非常に言いにくいことだがまずはその最高にエロくてアホな頭を治療
しろ」
 非常に言いにくいですがそれは無理です。
「他のことなら受けて立つぜ」
「よし、ならちょっと見てくれ」
 携帯電話をスカートのポケットから取り出す。
 ……
 余談ではあるがプリーツスカートのポケットというものは男にとって永遠の
神秘である。一生に一度くらいは手を突っ込むそれなんて偶然フラグに遭遇し
てみたいが、セットで惨殺フラグがついてきそうなのでなかなか踏み出せない。
いつか彩花がいないとき、こっそりと脱いだ直後のスカートのポケットに手を
突っ込んでみたくなる俺を変態と言える奴が何人いるのだろうか。今度生まれ
変わってくるときは彩花の携帯電話になってみたい。例え二年で使い捨てられ
ようとも、最期にトイレに落とされようとも洗濯されようともいい。
 まあ、そんな邪念は横に置き、ディスプレイを眺める。映っているものを見
てため息。
「……いや、絶対胸のほうが成長率いいと思うぞ」
 そっぽを向く。向いたところにまた携帯電話のディスプレイを押し付けられ
る。
「ほら、もっとよく見るんだ。見ないと私のパンチ」
 なに、パンチラか。
「はいはい見ます見ます」
 下アングル
「パンチとハイキックで目を覚まさせてやる、と続けようと思っていたんだが
な」
 え。
「まあ、リクエストに応えてやろう」
 靴底。
 意識と視界が吹っ飛んだ。未遂未満で蹴り飛ばされる俺もかわいそうである
がなんとなく自業自得のような気がそこはかとなくするのがまことに遺憾であ
る。
 さて、彩花の携帯電話のディスプレイに映っているのは何の変哲もない普通
のどこにでもある一般的なありきたりの可もなく不可もない球サボテンである。
撮影日は本日正午。十分前だ。自宅に置いたカメラから携帯電話に自動転送さ
れるように仕組んだらしいが、まさに才能の無駄遣いだ。
「な、かわいいだろ。ほら、触ると少し痛いんだが、これがまた癖になる」
 普通のサボテンを素手で触って痛くなければ化け物だ。でも、
「よっぽど気に入ったんだな、彩花」
 このサボテン、実は先日の園芸植物展示会で俺が彩花に買ってやったものだ。
値段は千三百円という安物だが、気に入ってもらえて何よりである。
「ああ、サボテンがあんなにも愛くるしいとは思わなかった。サボテンの可愛
らしさを知らない奴は人生の四分の一を寝て過ごしているようなものだな」
 通常の人間は四分の一から三分の一を寝て過ごしていると思うが、敢えて黙
っておく。必要以上に靴底を見たくない。
「彩花、水はやっているか」
「ああ。サボテンも俺も雑草も生きているんだ大切にしろコアラが水を飲まな
いという話もあるがサボテンは水が必要不可欠だ奇想天外だって空中の水分を
吸収しているんだぞ、だったか」
 恐ろしい記憶力である。一字一句間違えずに記憶している彩花の頭こそ奇想
天外だ。ちなみに彩花が最後に言った奇想天外とはサボテンの仲間で、その奇
想天外な形と奇想天外な生態ゆえに奇想天外な名前をつけられた奇想天外な植
物である。
「すごい記憶力だな」
「当然だ。哲也の言葉は恥ずかしいものから格好悪いものまで全部頭の中にコ
ピペしている」
 脳内に留まっているのならコピペの「ペ」は不必要な気もするが、要らぬこ
とを言って無差別に恥ずかしいことをマルチポストされるのは勘弁して欲しい。
知らぬが仏であるほうが無難である。
「うまく栽培しろよ。そのうち花も咲くぜ」
「ほう、サボテンも花が咲くのか」
「数年後の話だけどな」
 俺の未来予測によれば、だ。
「そうか。これで楽しみが増えた。ほんとうにありがとう、哲也」
 不意打ちの感謝の言葉。
「いちいちおおげさだな。サボテンくらいで」
 照れ隠しにそっぽを向く。いつ咲くかもわからないサボテンの花ごときで幸
せになれるのなら安いもんだ。
「そんなことあるもんか。いつ咲くかわからないものをずっと待っている間、
幸せだぞ」
 幸せ。その言葉がとても貴重で、俺を繋ぎとめてくれるもののように感じた。
ついでに何だかんだいって、彩花も立派な女の子なんだな、と再認識。まさに
スプーン一杯分にもならないような幸せを感じ、彩花の作ってきた栄養バラン
ス最高の弁当をつつく。
「ときに彩花。これは何だ」
 弁当箱の端のほうに控えていた謎の物体を摘み上げる。折りたたまれていた
黒いものが長く伸びる。
「昆布を醤油で少し炊いたものだが」
 匂ってみる。いい香りだ。
「俺、今まで昆布は嫌いだったんだが」
 口に含む。たまには彩花を困らせてみたくもなる。
「ああ、哲也が海産物を嫌いなのは知っている。でも百貨店の地下で日高の生
昆布を見つけたんだ。きっと哲也でも好きになれると、そう思って」
 いつもの強さはどこへやら、言葉が尻すぼみ。彩花は適度にいじるとものす
ごくかわいい反応してくれる。
「ありがとうな、彩花」
「……え」
「それなりに美味しかったってことだ」
 嘘だ。ほんとうは十分すぎるほどにおいしかった。彩花と一緒にいると新し
いことも、楽しいこともいくらだって増えていく。学校を好きだと思い込まな
くたって、十分すぎるほどに学校を好きになれる。
「哲也が素直に礼を言うとなんか気持ち悪いな。悪いものでも食べたのか」
 思い当たるものといえば彩花の弁当くらいだが、そんなことを言ったら殺さ
れそうなのでやめておく。
「さて。昼からは開墾するか」
 ごちん。
「授業に精を出すんだぞ、哲也。でないと私は哲也にふしだらな行為を強要さ
れたと満員電車の中で叫ばなければならなくなる」
 先生、この人痴女です。
「仮にも彼氏だぞ。人生を強制終了させようとするな」
「そうだったな、忘れていた」
 こら。
「忘れんなよ」
「だが、哲也がどんなことを強要しても、私は、その、恥ずかしいが」
 上目遣い。本気で鳥肌が立つ。
「あのな、俺はおしとやか彩花が一番怖い。次に凶器を振り回す彩花が怖い」
 どっちでも一瞬で死ねそうな自分が切ない。
「そう真に受けるな。当然ギャグだ。今度からはうまく受け流せ、哲也」
 昼食は改善されたが、消化は最悪になったような気がする。
 予鈴。あと五分で眠いのに眠れない授業の到来である。

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