Present for "YOU"

前半

 静かなエンジン音。日記を片手に持ち、靴を脱いで足を大きく伸ばす。乗り
心地は快適。さすが高価なだけある。
 ここは国際便のビジネスクラス。到着地の時間でもうすぐ日を跨ごうとして
いる。
 海外出張の多い私がここを愛用しはじめたのは最近だ。確かに高い。ものす
ごく高い。割増料金だけで一往復くらいできそうなほどに高い。それでも私は
ビジネスクラスを選ぶ。
 まず、静かである、ということ。
 それから寝心地がいい、ということ。
 そして今は経済力に余裕がある、ということ。
 最後に自分の生活レベルを誇示したいのかもしれない。
 昔は貧乏だった。いわゆる母子家庭に生まれ、母と娘の二人だけの生活です
ら厳しかった。その母も高校を卒業したときに失い、お金にはずっと苦労して
生きてきた。今振り返ると懐かしいけれど、当時は寝る暇もないくらい仕事を
して、勉強をした。戻りたいとは思わないが、いい思い出だ。毎日が充実して
いて、自分の思い通りに全力投球できた。つい過去を懐かしむ。
 そう、家庭の欠落は貧困をはじめ、いろんな不幸を運んでくるものであるが
、私は別に虐待に遭ったとか、いじめられていたとか、そんなことはなかった。
母を始めとする周囲の温かい手が私を育んでくれた。お金には困ったけれど、
導いてくれる先生がいて、手を取ってくれる相談者がいて、良い理解者と志を
等しくする友人に恵まれた。おまけに運にも恵まれたらしく、努力に見合うだ
けの成功を収め、私はここにいる。残念ながら父の姿を知らないけれど、そん
なことは瑣末な話だ。私の幸せに影を落とすようなことではない。
 母は決してだらしのない人間ではなかったと思うが、私の父が誰なのかは教
えてくれなかった。教えてくれなかった、というよりはどうやら母にも記憶が
ないらしい。私も小さかったし、そんなに深くは突っ込まなかった。別に母が
刹那的な衝動に駆られ、つい行きずりの誰かと……みたいな話があったって驚
かないし、恨まない。でも万一思い出すのも嫌な記憶の結末が私という存在だっ
たらあまりにもいたたまれない。と、少し空恐ろしいことを考えたこともある
が実のところは前者なのではないか、と私は睨んでいる。つまり、母だってそ
の昔好きになった人がいた、ということだ。母は存外初心な人だったし、私よ
り夢見がちなことを平気で口にした。いつか白馬の王子様が迎えに来てくれる、
と信じていたのではないだろうか。
 その母の影響だろうか。私もかつて夢を見たことがある。格好いい男の人と
母が笑いあって立ち、その間に私がいるというものだ。あの夢を見たのはいつ
だっただろう。
 いや、そもそもあれは夢だったのだろうか。
 まあいい。
 今更顔も知らない父を、既に亡くした母の回想をするのも少しばかげている
。母に親孝行できなかったのは心残りだけれど、私は今母に誇ることの出来る
生き方をしている。それだけで十分じゃないか。小さいながらも自分で企業を
立ち上げ、それなりの成功を収めた。きっと母は褒めてくれる。もしかすると
未だに結婚しない私に愚痴の一つや二つこぼすかもしれないけれど、そればか
りは甘んじて受け入れよう。出会いがなかったと自分の不運を嘆いてみてもい
いのだが、結局のところ自分から何一つとしてアクションを起こさなかったが
故の独身なのだ。人生に二度あるという結婚したい熱も合計三日ほどで醒めて
しまい、気がつけば三十を少し通り越した。最近では一人も気持ちがいいと開
き直っている。それに今は気の合う仕事仲間に囲まれている。それで十分だ。
 寝よう。商談を書き留めた日記を閉じ、テーブルランプを消す。
 真っ暗な客室。誰もが寝静まった空気。高級感に満たされた場所。目を閉じ、
リクライニングを最大限に活用する。
「ふぅ」
 なんとなくため息。心臓がざわつく感じだ。
「どうかなさいましたか」
 突然だった。後ろの席は空席だと思っていたがいつの間にか誰かが座ってい
たらしい。
 年を取った男性の声。こういう場所には結構似合う。
「申し訳ございません。誰もいないと思い、リクライニングを」
 マナー違反を詫びる。
「いえいえ、お気になさらずに……ああ、リクライニングもそのままで結構で
すよ」
 男性がそう伝えたので再びシートに身体を埋める。
「それにしてもため息はよくありません。特に若い方には似合わないものです。
いや、申し訳ない。差し出がましいことですかな」
 振り返ろうとして、やめておく。寝ておかなければしんどいことはわかって
いるのだが、どうも時差がひどいと寝付けない。
「そうですね。少し寝つけなくて」
 年齢はわからない。が、振り返るほどの必要も感じない。それに、この方が
気分も出る。
「仕事疲れ、というところでしょうかな」
「ええ。そうですね。大きな仕事を引き受けることになって」
 飛行機の搭乗時間が長いとたまに隣の人と会話が意気投合することもある。
昔、まだこんなところに座っていなかった頃、隣にいた外国人と話が盛り上がっ
たことも度々あった。隣の席になったよしみだけで一ヶ月間も泊めてもらった
こともある。今の仕事のアイデアをもらったのも飛行機のエコノミーだった。
今ではありえない。隣との間に広い通路が設定されてしまうと、話し合うこと
なんてせいぜい迷惑でもかけてしまったときくらいだろう。懐かしい気分にな
る。
「ご立派ですね。まだ若い女性の方だ。世の中が変わったとはいえ、苦労なさっ
たんでしょうな」
 思わず笑ってしまう。苦労をしなかったわけでは
「ですが、それだけというわけでもない」
「え」
 沈黙、
「思い出す過去がある……そんなところでしょうか」
 思い出す過去。
 遠い日の記憶。
 努力に見合うだけの成功を約束された私の人生。振り返っている暇なんてな
く、駆け抜けて、この椅子を手に入れた。ようやく座ってみると、思い出すの
は母のこと。
「……マッチ売りの少女ってお話、ご存知ですか。そう、マッチを売る少女が
大晦日の晩に行き倒れるお話です」
 突然話が飛んだような気もするが気にしない。
「マッチの明かりの中に幻想を見て幸せそうに死ぬっていう話、ですね」
 男が控えめに笑う。
「まあ、幸せか悲劇かどうかともかく、あなたは考えたことがありませんか?
もしマッチ売りの少女が『ほんものの幸せを願っていたら』と。おそらく少女
にはとびっきりの幸せが与えられ、温かい家と食事が少女の帰りを待ち、物語
にも何にもならない幸せな生涯を送る」
 確かに少女が救われるのは結構だが、それでは物語にならない。かぐやひめ
は月に還り、ネロとパトラッシュは絶望と不幸のうちに報われず、人魚姫は泡
と消える。少女が救われてしまうと
「物語が成立しませんね」
「ええ、そうです。では少女に欠けているものはなんだったと思いますか」
 マッチ売りの少女が救われるために足りなかったもの。それは
「運、ですか」
 即物的に言えば金、ということにもなる。
「それは違います。もしマッチ売りの少女が幸福な家庭に生まれたとして、第
二の誰かが不幸のうちに死ぬでしょう。『マッチ売りの少女』は絶対に救われ
ることがありません」
 なるほど。少女Aが救われたとしても、少女Bが救われない。それなら
「弱者を生まない社会構造が」
「いえいえ。政治談議をしようというものではありませんよ。それほど真剣に
考えなくとも結構です。その代わり、少し昔話をしましょう……」
 そして男の長い話が始まった。


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