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抜け駆けも戦略だと思うのですよ
冷え込みの厳しい、冬。妥協を許さないような風と冷たさの中でも、常緑樹 は時折現れる太陽の光を照り返し、青々と茂る。空から降り注ぐ光はあんなに も冷たいのに、樹が反射する光は暖かい。冷たさを凝縮した露。氷よりも冷た い露が春を待ちわびるねこやなぎの枝垂れに世界中を映しこみ、緑を掬い取っ て、地面に落ちていく。新しい季節の街わびしい、そんなとき。 あまりにも頑張りすぎたせいであろうか、ついに聖は風邪を引いて学校を欠席 した。聖が風邪で学校を欠席するのは初めてのことである。学校では聖の欠席 理由に口の塞がらない大多数と、授業中も気が散って仕方のない渓と、無関心 を装っている光がいたが、休んでいる当人はそんなクラスの状況など知る由も ない。 実は、聖の熱は昼過ぎにはだいぶ、快復していた。元気になると家にいるの も退屈である。聖は自宅でぼおっと天井を見上げながら昔のことを思い出して いた。風邪にかかると隣に住む光が連絡帳を持ってきてくれたこと。ついでに 上がってもらって風邪だというのに遊び、また熱を上げてしまったこと。そん な懐かしい思い出。光の母親に怒られ、泣きながらごめんという光の姿は、な ぜだか聖の心にこれまで感じたことのない思いを抱かせた。それが好き、とい う意味の言葉だと知ったのは次の日のこと。泣いている女はなぜだかきれいだ。 光を好きである理由は、きっとほかにも抱えきれないほどにあるはずなのに、 心の中の隙という光景は光の涙だけ。光が千の笑いをこぼしていたはずなのに、 どの笑顔よりも泣き顔はきれいだった、ような気がする。 午後の空気が冬場の暖かさをやっと、運び始めたころ。聖の家の玄関のベル が鳴る。重い頭を抱えながら鍵を開けるとそこには光、ではなく渓が立ってい た。聖に驚きはない。過去は過去であり、もう、光が自分の家に来ることもな ければ気遣うこともないのだと思っている。だから渓に対して反射的に言葉を つむぐことができた。 「今日は予定通りいかなかった。ごめんな」 渓を見ると頑張らなければと、聖は反射的に思ってしまう。それに渓の作る 顔がちょっと作り物めいていることには気付いてはいるけれど、なんだかうれ しいのも事実ではある。ちょっといい気分の聖とは全く別に、渓は深刻な顔を うつむかせる。 「もういいよ。もう頑張ったんだから、だからもうやめようよ」 渓が玄関で泣き出そうとした渓を慌てて渓を家の中に入れ、扉を閉める。玄 関先で同級生の女の子に泣かれたら、明日からどんな噂が立つか、わかったも のではない。とりあえず鍵を閉めた。狭い玄関に寝巻き姿の聖と、学校帰りの 冬服の渓。寒さと驚きで頬の赤い渓を見ると、初めてであったときの渓の顔を 思い出す。 自分勝手な理由で泣かせてしまった渓のことを。姿だけを見ると光は渓に遠 く、及ばない。心だって遠く離れてしまった光よりはずっと近くにいて、そし て今の自分を好きである渓のこと。いろんな渓が今の聖の中の多くを占めてい る。 異常なまでの渓の接近で、聖は感じる。自分の鼓動を。隠す必要はない。自 分は、渓を好きなのだ。光は思い出にしかならないのだ。 気まずい静寂を破ったのは渓だ。 「あ、あのさ、具合はどう」 「あ、まあ、明日から、学校に戻れる、と思う」 聖の家の広いリビングで。気まずい会話を何度か交わしつつも、聖の家の立 派さに見とれる渓。渓が調度品を眺めてぼおっとしていること、聖は台所でお 湯を沸かしていた。 渓の持ってきた紅茶を聖が入れ、二人で向き合ってそれを飲む。甘い香りの 深い色をした紅茶。紅茶を飲むと心が落ち着く。光の家に遊びに行くと必ず紅 茶を出してくれた昔が一瞬よみがえった。目の周りを涙で少し濡らした渓は回 想の中の光とは違い、鮮やかできれいだった。渓が口を開く。 「光ちゃんは、もうあきらめよう。もう十分素敵だもの」 聖は。もう素敵だから。だから、私を見つめて。それは渓ですら言葉にでき ないほんとうの思い。別に、もう聖に対して計算づくで行こうとは思わない。 心の中だけで付け加える、静かな思い。あまりにも自然なその言葉を聖も普通 に受け止める。 「ああ、もうあきらめようと思う。たださ、光のことは付き合うとか、そうい うのじゃなくて」 渓は聖の顔を覗き込む。ただ、聖の言葉を聞きたいだけ。聖は渓の顔を見ず に話を続ける。 「あいつのことは、宿題みたいなもんだから、さ。それが終わらないと」 次の行動はできない。そう続くのは渓が聖よりも分かっている。少なくとも そこに自分の入り込む余地のないことも分かっている。 「光ちゃんのこと、終わったらどうするの。光ちゃんってやっぱりかわいいし、 頭いいし、やっぱり中西君は光ちゃんと付き合うことになる、よね」 「ちょっと違うな」 渓はあっけにとられる。そんな風に人の話を遮る聖を見たのが初めてだった からだ。渓に向かって笑いかける。何が「違う」のかは説明しなかったが、た だ渓に笑いかける聖。 「それよりさ、光の小さい頃の写真でも見ていけよ」 一瞬落胆した渓は、それでも笑って聖の言葉にうなずく。 それから日が暮れるまでたっぷり昔のアルバムを二人で見ていた。そのアル バムはもちろん、中学校のある日を境に途切れてしまう。聖と光の大切な時間、 そして今の聖と渓の大切な時間。どの時間も誰にも邪魔されない、正しい時間。 聖の光に泣かされている写真、光が大はしゃぎしている写真。いちいち渓は思 いっきり笑って眺める。 すっかり暗くなっていた。近くの駅まで聖が送る。外套の少ない住宅街を、 微妙な距離をとりながら歩く二人。それでも隣を歩く聖の顔を見て思い出し笑 いを繰り返す渓。お見舞いに行って病人に送ってもらっているという、考えて みれば少々おかしな構図ではあるが渓はただ、一瞬でも聖と過ごしているとい う喜びでしかない。底抜けの明るい性格がそれを許す。さて、今日も一回くら いは意地悪してやろう。渓は鼻歌を歌いながら頭をめぐらせる。 「な・か・に・し・君。ちょっと、聞きなさい」 妙なアクセントに聖は身体をこわばらせる。聖もこういう渓にはなれきって いた。 「よーくききなさい。あなた、アルバムをあのままにしておくわけ」 腰に手を当て、説教気味に渓は聖をにらめつける。渓は今、舞台の主人公だっ た。星という名のスポットライトが渓を照らし出す。 「いや、ちょっと」 「ちょっとじゃない。中西君のアルバム、私が先を埋めてあげる。感謝なさい。 私が、……聖と思い出を作ってあげる。じゃ、そこにひざまずいて」 聖はひざまずく。貴婦人に対する、騎士の礼のように。 「お見舞いに来てあげたんだから、ね、私に感謝するの」 そういって渓は右手を聖の前に差し出す。聖はその手をとり、口をつける。 「……聖、君。ありがとう」 その声はさっきまでのように冗談ではなかった。ゆっくりと立ち上がる聖の 顔にそっと手をあて、額にキスをする。 私は光ちゃんよりも、聖よりも本気にしている。だから。 心の中でそうつぶやいてから渓は笑って駆け出していった。 |