けんかのあとは

第6話

頑張れ女の子。宣戦布告ですよ
 屋上には人がいない。ただ、何日か前に降った雨水が隅のほうに溜まってい
て、錆びた手すりが自分たちを取り囲んで、どこまでも雲のない空が広がって
いる。それだけ。青空に向かって大きく深呼吸する。
「昨日、駅前の繁華街で見たんだけどさ」
 光は自分から話を切り出す。もう渓のペースに巻き込まれない。心はどうし
ようもなく不安定だけど、今負けてしまうとずっと負け続けることになる。
「あなたたちが付き合っているのは構わないけれど、それだったら二人で幸せ
にやっててよ。別に幼馴染の顔覗いなんてしなくていいじゃない」
 そしてちょっとカマをかける。多分、聖と渓はまだ付き合っていない。昨日
のことが頭に痛いが、光はなんといっても聖の幼馴染。聖の姿を見れば、渓と
付き合っているようにはどうしても見えない。この直感にかけてみる。さて、
渓がどう答えるか。
「まだ付き合っちゃいないよ。朝霧さん、話が早いなあ」
 素直に答える。渓は明るくて世話焼きな女の子だ。それ以上に計算高く自分
の思いを実現する。
「それじゃあさ、昨日どうして二人で歩いているの」
 何気なさを装って光は聞く。聞かれた渓は一瞬苦笑い。光は母親のようだ。
そう思うと亡くした母親のことを思って、なんともいえない気持ちにある。が、
顔には出さない。渓は表情を計算しつくして表しているのだ。
「やだなあ、あそこ通ってバイト行っているんよ、中西君って。まあ、二人で
歩いているくらいで怪しまないの」
 聖がアルバイトをしていることですら初耳の光。道理で毎日のように授業中
は寝ているわけだ。聖、バイトは禁止って校則にかいているでしょうが。光は
怒ろうとして笑ってしまう自分に気がつく。素直に感情を表すことができれば、
どんなにいいだろう。聖に一度でも思いっきり怒ってやって、泣いてやって、
そうできればどんなにいいだろう。
「……そうだったんだ。聖、元気かな。どうしてあんなにお金いるんだろ。聞
いても話してくれないんだろうな」
「そんなことないよ」
 渓が強く否定する。来た、本題だ。光は身構える。
「朝霧さんが話しかけないから答えないの。中西君、どうやったら朝霧さんと
話し合えるのか聞いてたから。私によ。私は中西君のこと、好きだからちょっ
と悔しいけれど。だからね」
 渓は光をぐいっと見る。そしてびっしり。人差し指で光の眉間を指差す。
「私と朝霧さんはライバル。そんなおくてだったら私がもらっちゃうから」
渓はそういうと光の肩を勢いよく叩き、笑いながら階段へ消えていった。耳元
でささやいて。
 がんばって、と。

 光は、午後の授業が始まってもぼんやりと屋上で空を眺めている。光は誰よ
りも聖のことを知っているはずだった。小さいころは身体の小さかった聖を弟
のようにいじめては泣かせて遊んでいた。昔からそれなりに勉強のできた光は
なにをしても人に遅れをとる聖の世話を焼き、手のかかる弟を持った少しだけ
幸せな姉の気分だった。
 聖の全てを知っているつもりだった。聖は自分のものだと思っていた。
 あれから随分遠くに来たものだ。
 いつだったのだろう、光は一人残された屋上で回想する。
 飼い犬のタロウが死んだ時だったと思う。世界の果てまでいったらタロウの
魂を取り返せると信じ込み、光はたった一人で知らない方向へ歩いていった。
随分歩き続け、夕闇も迫った頃、大きな坂に差しかかった。それはほんとうに
一人でずっと、歩いていたつもりだった。絶望の先に、希望があって、努力す
れば、信じれば全てがかなうと思っていたあのころ。大きな坂を登りきり、光
は世界の果てを覗き込んだ。
 だが、坂を登りきった先には同じような街が広がっていた。それはどうしよ
うもない絶聖だった。絶望の前でこれ以上はないほどに泣いていた。あれは、
生まれて初めて感じる絶望。絶望の先には絶望しか転がっていないという現実。
タロウのいる世界に行きたかった。
 そんなとき、ふっと自分の隣に影が現れた。聖だった。どうしてそんなとこ
ろに聖がいるのか、分からなかった。だが、聖はそのとき何も言わずに肩を抱
いて連れて帰ってくれた。何時間も時間をかけて。夜遅くまで光を連れ出した
と一人、怒られて。何も話さなかったけれど、絶望のふちでも、必ず助けてく
れる人が、必ず見守ってくれている人がいると知った。
 そのとき、聖を好きになったのだと思う。絶望と隣り合わせの、人を恋う気
持ち。
 なんでもない幸せな思い出がこれほどまで胸を締め付けるのはなぜだろう。
その聖が今渓を通じて自分と接点を持ったことに対して腹立たしくも、うれし
くも感じる。渓のように素直になれたら。おもいっきり聖をひっぱたいて、そ
れからあやまりたい。好き、嫌いなんてそれからのことだ。
 秋の空はそんな悩みなどないかのように晴れ渡っている。光は女心と秋の空
なんて言った人は何も分かってないんだと思った。

 渓は聖の前では朝霧さん、と呼ばずに「光ちゃん」などと呼んでいる。ひと
つには光が名前を呼ばれることを嫌う、ということ、もう一つには聖がいつも
「光」と呼び捨てにすること。
「光ちゃんと仲直りしたければ」
 放課後の教室で渓は聖を前に演説する。聖はそれをおとなしく聞いていた。
「とにかく成績を上げることね。人のこと言えないけれど、応援する」
 聖は苦笑いしてその提案から逃れようと必死であるが渓の笑顔の前では無力
だ。もはや、今の聖は光に支配されきっている。
「想像するの。成績とその曲がった性格が直ってあなたは誰もが振り向く格好
いい男性になるの。想像できた?返事は?」
「はい、できました」
 もはや授業である
「たくさんの男共を押しのけてかわいい女の子の中からあなたが手にするもの
は何」
「なんだ、……なんですか」
「光ちゃんにきまってるでしょ」
 渓は教壇を思い切り叩き、決めつける。埃が舞ったように見えたのは気のせ
いか。いつものことながら渓の熱血な性格に押されていつの間にか聖は頷いて
いた。
「でも、俺にはバイクとバイトが」
「そんなことは心配しなくていい」
 最後の抵抗をこともなげに渓は破り一枚の紙を黒板に貼り付ける。
「これが中西君の一日。寝る時間を四時間とれば一日三時間も余裕ができるじゃ
ない」
 運動部のマネージャーをしているだけあってその予定表は完璧ではある。も
ちろん常人なら三日で音を上げるであろうがそんなことにお構いはない。しか
し既に渓にコントロールされている聖にはできるような気が、していた。渓は
かるく、ウインクまでしてみせる。
 渓にとってもこれはある程度計画性のあるものである。この予定をこなすこ
とができないと分かれば光よりも自分のほうに目を向けてくれるのではないか、
と。女に浮かれた男の足元を掬うことなど、簡単なことであるのは考古学レベ
ルの方程式だ。聖にとってはどこから光と仲良くなる必然性が出てきたのかも
分からないまま、その方程式に代入されてしまったわけだ。聖がうなずくや否
や、渓はスカートを翻して教室を出る。

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