|
間抜けで不器用で鈍感で。でもそれでいいと私は思います。
突然手首を捕まれたことにパニックとなり、家から飛び出して、行き着いた のは近くの公園。まだ、朝は早い。学校には十分間に合う。冬の途切れ目にふ っと見せる太陽の優しい光に、一瞬目を細める。その目の先に、一本の小さな 樹が映る。 公園の大きな樹のある広場は光と聖の遊び場だった。無理して樹に登った聖 が怪我したのもここだったし、無理して蝉を取っていた聖が補虫網を破ったの もこの木の枝だった。光の落としたハンカチを拾おうと手を伸ばして池に落っ こちたのも、ここだった。 聖が光の涙しか思い出さないのと同じように、光もなぜだか聖の恥ずかしい 姿しか思い出せない。聖の恥を覚えているというよりは、聖が自分だけを大切 にしてくれた証だから。 あの頃からいつだって聖は無理ばかりしていた。そんなことをしなくても光は 聖といることが楽しかったけれど、聖は必死に自分を楽しませようと無理して いた。そして傷ついた自分をそっと隠してくれた。男友達とはすぐにけんかを する聖は、いつも光にだけは優しかった。光はずっと、聖の特別だった。変わ ることなく、ずっと特別だと思っていた。 今ではもう殆ど分からなくなったが光にはしっかりとみえている樹の傷があ る。小学校三年生の頃、お互いの身長をこの樹に記したのだ。小さいほうが聖、 大きいほうが光。ほんとうは光がそっと、背伸びをしただけなのだ。聖に対し てお姉さんでありたい、そんな優越感がさせた、ちょっとした背伸び。気づか ないはずのない聖は、彫刻刀で拙いながらも自分の名を刻んでくれた。聖より 上に立とうとしても、聖は光をすっと包み込む。まるで目の前に立つ、大きな 樹と、小さな樹のように。 渓が現れて、光は初めて聖があの日以来もずっと自分のことを特別に扱って くれていたことを知った。聖は多分、ここに来るだろう。 聖はためらうことなく光に近づく。この大きな樹と小さな樹、光には光の、 聖には聖の思い入れがある。 聖は中学の入学式後、大きな樹の枝を折って地面に挿している光を見たのだ。 光なりに記念の挿し木をしたつもりだったのだろう。聖はその日のうちに園芸 辞典で調べてその樹は挿し木では育たないことを知った。だが、自分に隠し、 成長を楽しみにしている光にそのことはいえない。かといって枯れるのを眺め ることもできない。聖がとった行動は、そっと光の植えた樹の枝を別の種類の ものに交換することだった。それから光が特に気付いた様子もなく、相変わら ず自分には内緒で挿し木の成長を見に来ていた。聖と別れてからもずっと繰り 返されている光の行動を、聖は陰から何度も見ていた。 「光」 聖は光の後ろから声をかける。自分に背を向け続ける光へ。 「俺、お前に言ってないことがある。ごめん、もう遅すぎるけど、迷惑かけて」 背中を向け続ける光。ただ、冷静に、冷めたまま聖の言葉を聞く。聖に謝っ て欲しいとは思わない。聖が謝るのなら、自分も同じくらい謝らないといけな い。違うのだ。もう、聖の姿に感じるものは幼馴染なんかではない。だから、 ごめんではなくて別の言葉を聞きたい。 「ごめんだなんて、聞きたくない。そんな聖が一番の迷惑よ」 光は淡々と告げる。 「光、俺、お前に顔向けできるように頑張ってたつもりだったんだけど」 「私がいつ頑張ってっていったのよ。迷惑かけないでっていったのよ。いつだ ってそうやって無理して、心配させるの。聖にとって私は何。壊れ物なの」 「いや、光は生ものだ」 「何それ、生ものって。聖、頭大丈夫」 突拍子のない答えに思わず笑う光、赤くなる聖。そうだ。そんなにシリアス にならなくたっていい。 「なにもしなくていい。頑張らなくていい。無理しなくていい。そのままでい い。そうよ、生ものなんだから、壊れ物じゃないんだから」 「光、できればさ」 声のトーンを少し和らげるながらも聖の言葉をさえぎる。 「昔と今はもう違うの。いろいろあったもの。この小さな樹だってこんなにも」 「この樹、いつの間にか生えてたよな」 聖はそういいながらその樹を見ることはできなかった。 「いつまでとぼける気、聖」 光は小さな樹の葉を優しく撫でながら笑って聖のほうを向く。 「誰だって突然葉っぱの形が変わったら分かるでしょ。植え替えたんだって」 言葉は出ない。 「聖はそうやっていつも気にかけてくれる。だから嫌い」 聖は黙ってそれを聞く。 「だって聖は最高の人だもの。聖に謝られたら、許すしかないじゃない。一言 も話さないのに、守ってくれたら好きになるしかないじゃない」 光は自分の言っている内容とは対照的に冷静にそう言う。自分の言葉に聖が どう答えてくれるかなんて考える必要はなかった。ただ、聖の前で自分の感情 を言うことができればそれでいい。それで聖が渓を選ぶなら満足だった。 「ああ、光も見てくれてたな」 光と渓。対照的な二人。選ぶのではない。選ぶ前から選ばれていたのだから。 「今から区切りをつけようと思うの、聖と。だから、教えて欲しい」 光の顔は真剣そのものだった。 「今から三秒だけ待ってあげるから聖の気持ちを見せて」 光はそういってうつむき加減に目を閉じる。言葉が怖かった。だが、目を閉 じた瞬間、光は頬に何かが触ったのを感じた。まぎれもない聖の唇だ。三秒が 経過する。聖はまだ光の肩を抱いていた。突然荒くなった自分の呼吸に驚きな がらも、冷静に聞く。 「聖、やっぱりばかは治らないのね」 「ああ、光。俺のばかを治してくれ。けんかは終了だ」 遠くから学校のチャイムが聞こえてくる。渓はずっと、待ち続けているのだろ う。 「この小さな樹ね、結婚して子供ができてから聖と見に来ようと思ってた。聖 が植え替えたことに気づかない振りしてね。聖、ちょっとこっち向いて。私の 答えを言いたいから」 聖は光のほうにしっかり向き直る、途端、光は聖の頬を本気で叩いた。快音 が響き、聖は吹っ飛ぶ。腰を地面につけた聖にお構いなしに光は続ける。 「水崎さんの痛みの分。私の分はなかったことにしてあげる。この浮気もの」 そういって聖の顔を両手でそっと押さえる。季節外れの紅葉を頬に作った聖 は光の顔を手に取った。冬の青空が暖かな木漏れ日となり降り注ぐ。 冬来たれば春遠からじ。 季節は今、まさに春である。 お読みくださりありがとうございます。お気づきかもしれませんが、光、聖 の名前は南アルプスの最南端にそびえる二つの山から取りました。渓は、聖沢 を見て感動したのが由来です。奥深く、人の訪れにくい秀峰、光岳(てかりだけ)。 厳しい登りと美しい名前の聖岳(ひじりだけ)。その聖岳から流れ出す聖沢をイ メージした「渓」。 |