百円の軌跡

最終話

「というようなことがあったんだ。思えば佳澄のアホは巨乳のせいではなかっ
たんだな。無乳時代からアホだったし」
「そんな、私はただ、大きいほうがいいって言われて、それで大きくなるよう
に頑張っていただけなのにひどいです。毎日牛乳飲んで右手を振り上げては下
ろす運動を繰り返していたのに」
 あ。
 やっていたのか、あれ。今の今まですっかり忘れていた。忘れてしまうほど
些細な出来事がいくつもあった。
 ほんとうにつまらない、忘れてしまってもいいような話があふれていた。
 語ってしまえば短いような、長いような、そんな一時だった。
「あれからずっと一緒だったな」
「そうですね。一緒に入学して、一緒に留年して、一緒に仲良く高校生活をす
ごして、一緒に卒業しましたね」
 佳澄が思い出を振り返るように、目を閉じて優しく笑う。
「で、徐々に巨乳になったんだよな」
「はい、制服を二度も買いなおしました。全部今でも置いています。サイズが
合えば今でも着るんですが」
 一児の母が高校の制服を着て何をするのかと。
「ま、俺がたまに使っているから心配するな」
「思いっきり心配ですっ」
「あのーアホ夫婦、ちょっと質問」
 横からの声にすっかり陽花を忘れていたことに気付かされる。
「うん、質問か。陽花がどうやって生まれてきたかだろ。それは俺がキャベツ
畑」
 がつん。
「もういいから。それでまず一つ目。私の名前ってその中学生から取ったのね」
 思いっきり殴られた頭を抱え、椅子に座りなおす。
「ああ、そうだ。こないだ結婚式に行ってきたんだが、しおらしかったぞ。だ
が俺にはわかる。あれは早速旦那を尻に敷きそうな感じだ」
「はい、陽花って名前は明るく元気に、そして花のある人になってほしいとい
う願いがこもっているんですよ。ですから、陽花さんの旦那さんも幸せそうで
した」
「な、陽花の旦那だと、俺が許さん」
 ごつん。
「さて、陽ちゃん。他にもお母さんに聞きたいこと、ありますか」
 ものの見事に俺も尻に敷かれていた。オスというものはカマキリに代表され
るがごとく、尻にしかれるようにできているのだろう。
「そうね、もう一つ。今の話だったらお母さん、死んでいるはずなんですけど。
なんで生きてんのよ」
 ああ、その話か
 佳澄の尻に敷かれながら苦笑する。
 そう、俺だって相当の覚悟を決めていた。今考えれば随分安っぽい覚悟だろ
うけど、それでも年齢に応じたい程度には精一杯の覚悟だった。あの北の果て
の岬で格好つけて佳澄を引き止めたはいい、が。現実をどうするかなんて考え
てもいなかった。
 こいつに何を言ってやれるのか。真剣に苦悩した。
 が。
「はい、今の話だと少し変ですよね、陽ちゃん。ほんと、不思議です」
「って他人事ですかお母さん」
「って他人事のように語るなよ佳澄。諸悪の根源はお前だ、佳澄だ」
 いっせいに突っ込みを受け、それでも何かを思案顔の佳澄。まさかとは思う
が、ほんとうに記憶にないのだろうか。
 ありえる。不都合な記憶を葬り去ってなかったことにするのは佳澄の得意技
だ。そもそも佳澄は月一のペースで有無を言わさずパンチラしては「なかった
こと」にし続けた女だ。俺が説明するしかないのだろう。
「陽花、幻滅するなよ。実は俺も覚悟を決めていたんだが、帰ってみると」
 退院おめでとう。
「なにそれ」
「って俺が一番言いたい言葉なんだけどな」
 本気で腰が抜けた。鍛えに鍛えた付け焼刃でこんにゃくに切りかかったよう
な気分だった。
「はい、病院で夜ですね、『やっぱりだめでしたね』とか『家族にだけ知らせ
ればいいでしょう』とか聞こえてきまして」
 で、その結果。
 佳澄の退院祝いの計画だったそうだ。駄目だったのは佳澄の検査結果ではな
く、会議室の使用許可。家族に知らせるに至ってはお約束。
「早とちりだよ、佳澄の」
 まったくもって難儀なお約束である。これで年収が俺より遥かにいいのだか
ら、この国の将来も明るくはない。
「私の退院祝いをしてくれるお話だったみたいなんです」
「ま、そのおかげで俺も引っ張りまわされたわけだが」
「……その頃からアホだったのね」
 多分、あの頃から大きくは変わっていないと思う。俺はずっといろんなもの
にばっか躓きまくるアホで、佳澄は思い込むと一直線のアホ。よくこれほどの
アホ二人でここまでやってこれたものだと思う。
 もし奇跡なんてものがあるのなら、この日常こそが奇跡だ。
 この奇跡がどこから始まったのかなんてわからない。
 でも。
 あのとき金を借りたおっさんとは今でも飲みにいく。意外な酒豪でいつだっ
て酔いつぶされるのだが。あのとき出会って馬鹿みたいな勝負をした中学生は
この前結婚式に呼ばれた。北の島で無料で泊めてくれた民宿だって結婚するま
でもしてからも行っている。
 最後の最後まで財布に残していた百円は今も大切に置いている。光沢も失っ
た期待内だけの硬貨だけれど、毎朝百円を拝んではあの頃より遥かにでかい財
布から貯金箱に百円を入れていく。結婚してから毎日の風習だから単純計算で
佳澄の月給よりは少しくらいが溜まったはずだ。
 付け加えておくと。俺を島に運んでくれた千島さんの追悼式には毎年参加し
ている。あの出来事からわずか半年後、戦争の終わったはずのこの国で最期ま
で戦い、戦死したのだ。この国を代表する英雄だからたくさんの人が式典に参
加している。あのお茶目で優しい人柄を知っている俺からすると別人を見てい
るような気分だ。ちなみに千島さんの遺伝子を引き継いだとされる陽花くらい
の女の子にもあったことがあるが、正直かわいらしすぎてうちの娘と取り替え
「なんかめちゃくちゃ失礼なこと考えたわね、お父さん」
「いやいや、陽花はとてもとても大切な一人娘だぜ」
「心配しなくても陽ちゃんは大切な娘ですよ」
 佳澄が笑いかける。
 それは掛け値なしの笑顔だった。俺は、佳澄に無邪気に笑っていられるほど
の社会的地位も、経済的余裕も何もかもを与えてやれないけれど、今佳澄が陽
花に笑いかけているのなら、それでいいと思う。
 高卒ですぐに結婚して、周りの反対なんかに耳を貸さず、ものすごく狭くて
ボロいアパートで二人で必死に生きた。そんな中で何度も佳澄と笑い、喜び、
怒り、泣いて、絶望して、陽花が生まれて、いつだって陽花の姿があった。
「陽花、好きだぞ」
 脈絡のない言葉が口をつく。
「そういわれると、ちょっと恥ずかしいじゃないの。もっと愛し合ってもいい
わよ、お父さんとお母さん」
 そっぽを向く。
 必死で生きた。小さな奇跡を必死で掴んで、小さな幸せを重ね続けてこんな
ところまで来た。これが俺のそこそこ長い、平凡な人生の軌跡だ。
「ま、今日はいっちょ、佳澄とデートするか」
「え、私と、ですか。いいんでしょうか、その、私とで」
 こんな返答は変わらないけれど。
「お前以外に誰がいるんだよ」
「はい、陽花もいます。三人で出かけてはだめでしょうか」
「ちょ、ちょっとお母さん。お父さんと二人で」
 ああ、そうだ。
 極上の笑顔で陽花の腕をつかむ佳澄は確かに変わったんだ。
 俺がせめてもつっかえ棒でいいから強く生きようと思ったように、佳澄だっ
て強くなったんだ。
「そうか、佳澄。それでは三人で行こう。なんせ向かう先は特別だからな。佳
澄は前買ってやった紺のスーツ、陽花は制服着用のこと。二十分後に出発する
ぞ」
 向かう先。
「え、それってあの伝説の千島、中佐のお墓に、いくらなんでも」
 一目でいい、自慢の娘を会わせてみたくなった。でも、陽花の言葉は少しだ
け間違っている。
「違いますよ、陽ちゃん」
「そう、陽花。行き先は千島さんのお墓だ。別に佐官でも伝説でも英雄でもな
い、佳澄を抱いてくれた千島さんの墓だ」
 休日の陽光が気持ちいい。平和な空気と風景にそっと目を閉じて、佳澄の淹
れたコーヒーに口をつける。
 このコーヒーの値段はいくらなのだろうか。
 いくらだっていい。俺だったら百円でも、全財産でもはたいて買ってやる。

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