百円の軌跡

第十四話

 ローター音が腹に響く。
 イヤープロテクターを通じているが、それでも振動までは止められない。はっ
きり言って乗り心地は最低である。めったと乗ることのないヘリコプターとい
う乗り物に大いなる期待を寄せまくっていた俺ではあるが、現時点では二度と
乗りたくない乗り物ナンバーワンである。ただ乗りの身分で言うのもアレだが、
よくこんな乗り物を考えたものである。映画なんかで颯爽と降り立っているの
は絶対に嘘だ。小さな窓から見える冷たそうな海に、思わず身震い。
 手渡されたタオルでもう一度体を拭き、目を閉じる。
 また明日。
 佳澄と約束した日のことを思い出した。
 まだ春には少し早い入学式の次の日、最後の雪が降った。
 駅前にはうっすらと雪が積もり、吐く息も白く、昨日とは見違えるような寂
しい景色が広がっていた。
 それでも、あの温もりがあるのなら平気だと思った。だから、ずっと待った。
 春の訪れを告げる雪が、ロッカーに身を預けた俺の目に入る。
 ずっと、そうやっていた。
 そこに来た目的を忘れるほどに、寒さの中に身を置いた。
 寒さに身体を震わせて、ようやく気づいた。
 ―俺、なんでこんなとこに来たんだろうな―
 どうしようもない無力感がこみ上げてきた。それきり、その無力感から逃げ、
その事実を記憶の奥底に封印した。
 自分の無力を突きつけられて、無力な俺はそれを受け入れる力すらなくて、
そして尻尾を巻いて逃げ出した。
 あの日の無力感を、この負け犬の自分を見返してやりたかった。
 今、俺は強く生きているのだろうか。
 拳を硬くした。
 意外なほどに狭いその中で隅のほうに座り、視界を流れる海の景色を眺める。
まだ高い太陽の光がまぶしい。窓に映る自分の顔に見とれてしまった。
 軍事機密の塊のようなものの中に学校の制服を着た高校生が一人。これがつ
い一昨日まで引きこもっていたのだから笑える。俺の他には操縦士二名と、俺
を殴り飛ばした千島という名の女性大尉と、その大尉に野上と呼ばれた女性兵
士。
 ちなみに俺の隣は千島大尉で、何かの図面を見比べながら無線で俺の知らな
い言語をやり取りする。その隣には野上と呼ばれた大尉のかばん持ちみたいな
小動物的存在、野上さんが座り、時折俺をにらむのだがぜんぜん怖くない。ま
さに魔法少女が連れているペットである。微妙な沈黙と針でも刺すかのような
視線に耐え切れず、フライト三十分経過でついに
「あの、大尉」
 口を開いた。とりあえずなんと呼んでいいのかわからないので階級で呼んで
おく。映画なんかではよく階級で呼んでいるし。
「千島だ。そう呼べと言っただろう。鳥頭かお前は」
 無線を置き、相変わらず図面に何かを書き込みながら俺の言葉に返す。まさ
にマルチタスクである。脳の作りが基本的に違うのではないかとすら思える。
「千島さん、ってものすごく力が強いですね」
 呼びかけたものの、特に話題もなかったのでアホなことを聞いてみた。直後、
期待の中に走った微妙な沈黙を感じ、仮にも女性に聞くことではなかったと反
省する。
「力が強い、か。確かにうちの中隊の筋肉バカどもにはいつもあれでしつけて
いるが、高校生にはきつかったかもしれんな。だが本気でやっていればお前の
首と身体は永劫の別れになっていたところだ。命拾いしたな」
 物騒なことを言いながら笑顔を作る。少々この人の感覚を疑う、が。
「笑えない冗談ですね」
 そう返すことにした。全く、笑えない冗談を
「それ、本当ですから」
「え」
 にらみつけるだけだったかばん持ちの野上さんが口を開く。
「大尉だったらあなたなんて一発です」
 あくまでも冷め切った声で、淡々と事実を告げるかのように言う。
「なんだよ、俺に恨みでもあるのか、野上さん」
「大尉に気安く声をかけないでください。これはただの忠告です」
 言うだけ言って顔を背ける。そんな俺と部下を優しい顔で眺め、千島さんが
口を開く。
「……私の実家だった場所なんだ」
 ぽつりと。何かをかみ締めるような小さな言葉が空気を支配する。
「果ての島、その北の果ての岬。私と、父と、母のいた場所だ」
「千島さん」
「大尉、あの」
 それだけ言うと黙ってしまう。不思議な人だった。強い意志で私情をすべて
押し殺した機械のような人。それでいてその目には誰よりも優しさが宿ってい
る人。
「幸せの場所だ。さて、そろそろ到着らしい。如月、不用意に外を見ないよう
にしてくれ」
 軍事基地のど真ん中に降りるのだ。その辺の理屈は嫌でも分かっている。
 随分揺れたヘリが降り立ち、ふらふらする足取りをなんとか立たせ、そして
地面に足をつけた。その途端に冷たすぎる風が顔に痛い。
 最果ての島の、最前線だった基地の中だ。
 時間は午後五時三十分。約束の時間まではあと三十分。
「千島さん、ここから北の果てまでは」
 間に合うのだろうか。黙りこくったままの、言葉にならない感情を秘めたそ
の人に問う。降り立った場所にあった花壇の花に一瞬優しい目を向け、
 なにかをその黄色い、地味な花につぶやいた後、
 言った。
「安心しろ。あそこは奇跡の起こる場所だ。お前が信じていれば、それは叶う」
 その言葉だけでどんな嘘も真実になるような気がした。

 それはごく普通のライトバンだった。いわゆる商用車というやつで乗り心地
よりも荷物の積み下ろしを優先された車だ。走行距離だって十万は軽く越えて
いる。それでも。
 六桁のナンバープレートの車なんて初めて乗った。しかも運転しているのは
大尉である。どれほど偉い人なのかはわからないが基地の人が目を剥いて敬礼
していたくらいだから相当に偉いのだろう。助手席には野上さん。そして後部
座席に俺。野上さんがバックミラー越しに俺をにらみつけるのが非常に怖い。
「野上、そんな睨みつけてやるな。これもちょっとした息抜きだ」
「……お気になさらずに、大尉」
 この二人の微妙な間柄が少し笑えてしまう。
「如月、この島の風景はどうだ」
 突然俺に言葉が振られた。顔を外にやる。
 もうすぐ日が沈みそうだった。足元に散りばめられた小さな花が車の中でも
分かる強い風に揺れ、さっきまで降っていたと思われる雨露の中に光を反射す
る。オレンジ色の光が草陰を包み込み、限りない優しさを与える。パノラマの
海には小さな漁船が隊を組んで並び、沖を目指す。風の強すぎる、樹の一本す
ら生えることを許されない風景だった。それはただ、単純なまでに
「きれい、ですね。この世のものとは思えないほどに。そして孤独です」
 それ以上の言葉が出なかった。これ以上はないほどに澄み切った空と輝く海、
朽ち果てた家、どこまでも広がるなだらかな斜面を彩る花。
「花の島、ですね」
 そう、付け加えた。
「去年、この場所は基地ではなくなり、一般人も入れるようになった。世界一
美しい夕焼けの見える場所だ」
 それだけを言うと軽くブレーキがかかる。
「私はここで生まれ、育った……うん、到着だな。これ以上車は進められない
のでここに止め置こう」
 車が止まり、外に出た。
 途端に身体をさらうような強い風と冷たさが身体の中に入ってくる。薄すぎ
る大気と水の微粒子が肺の中を満たし、何もかもを浄化していく。眼前に広が
る海と、草原と、光を失う直前の太陽と。それが
 世界一美しい夕焼けの始まりだった。
「後はお前の足で歩け。大丈夫、私がいる」
 軽く添えられた掌の温かさが俺を押す。
 足を進める。一歩、また一歩。
 途切れそうな息を吐き、破裂しそうな心臓を上から押さえ、たった百円しか
入っていない財布を握り、背筋だけはしっかり伸ばし、歩いた。
 小学校の残骸を通り、廃屋が見え、道が終わった。
 海が、見えた。
 一面、強すぎる茜色を満たした光景だった。
 それは世界一美しい夕暮で、世界一孤独な夕焼けだった。
 もう、この場所の地名なんて誰も忘れてしまったというのに看板が立ち。
 それに寄り添うように人影があった。
「ふぅ」
 小さなため息。
 あの一年前の日に、頭の中の何かが接続する。
 途切れそうな息も破裂しそうな心臓も吹き飛んだ。残ったのはしょぼい財布
と背筋の伸びた俺の姿。
 そして
 長い髪。白い服。細すぎる影。見覚えもないのに懐かしさすら感じてしまう
その姿。
「佳澄」
 距離十メートル。呼びかける。
「……え」
 こちらを振り返ることもなく。時間は
「ため息つくと幸せが逃げるんだ、知ってるか」
 六時ぴったりだった。
 俺は間に合った。
「はい、今の幸せを逃がしてあげたため息です。もう、必要ありませんから」
 それは電話で聞いていたよりもはるかに強く、しっとりとした声だった。
「思い出したんだ、佳澄との」
 言葉がゆっくりと出る。
「どうして今頃、なんですか」
「お前の背中を押したの、俺だったんだな」
「なんで、そんな」
 拒否する言葉を遮る。
「お前がくれたきっかけだから、だろうな」
 手を差し出す。動かない佳澄に一歩ずつ近づく。
 そして
 その首筋にそっと触れる。
 それでも動かない佳澄がいた。俺の手の中に確かに握られていた。温かくて、
壊れそうな姿だった。
「あのときもそう。諦めようと思ったときに手を差し出してもらって、また、
なんですか」
 拒絶の言葉だった。だからこそ肩をしっかりと抱く。
「遅れるのは、ヒーローの特典だからな。悪かった、いい言葉が思いつかん」
「どうして引き返せないところまで来て、また」
 ずっと気づいてやれない俺がいた。
「もう、だめなのか」
「私、私、もう、助けてなんてありません」
 その過酷な運命を今出会ったばかりの俺が助けられるというほうがおかしい
のかもしれない。
 奇跡を起こす最後の方法を、使うことにした。
「佳澄。預かってきてるものがあるんだ。お前に渡すぜ」
「なにを」
 肩を掴んだまま、一瞬目を閉じる。
「あっ」
「甘えんなこんちくしょう」
 盛大に殴りつけた。
「っは」
 瞬間、拳に走る痛み、地面に倒れる佳澄。
 マンガのようにいい音なんてしなかった。それでも、その拳の痛みだけで続
ける。
「母親が優しいから死ぬだと。ふざけんなこら。俺にだけ学校に行けだと。ア
ホかお前。病気で世間知らずかどうか知らんが、寝言は寝て言いあがれ」
 もう一発。
「っあぅ」
 そこには鼻血を流す佳澄がいて、俺の顔をただ見つめていて
「一人逃げるなんて俺が許すか。こんなきれいなところで死に晒すだと。迷惑
も考えあがれ。お前なんか病院のベッドの上で死ね。俺が見ていてやる。一人
で死んで自己完結なんて絶対認めないぞ佳澄。何とか言いあがれ」
 弾切れ。そして息切れ。
「……くせに」
「言いたいことはでかい声で言え」
 最後の強がりを、精一杯突きつける。俺の弱さを見せつける。
「私のことなんて何も知らないくせに、分からないくせに、なのに、なんで」
 そう、病気で苦しんできたやつの気持ちも、学校に行きたくていけなかった
やつの気持ちも、『生きます』とつぶやかなければならなかったほどのやつの
気持ちも、何も分からない俺がいた。
「私に生きろってそんな残酷なことをなぜ言うんですか。分からないくせに、
なにもわからないくせに。嘘つき」
 何もわかってやれなかった俺の無力さをなじる。
 目を閉じた。せめても、今度こそは弱さを受け入れようと思う。
「そうだったな。俺は嘘つきだな。学校行ってる振りしてさ、佳澄のことをわ
かっているつもりでさ」
 まぶたに映る夕暮れのオレンジが痛くて痛くて、泣いた。そんなオレンジ色
が
「何も、わかってない、……嘘つき」
 消えた。
 俺は結局、どこまでも無
「……甘えるな。他人のことなど誰にもわからない。それでも無力なお前でも
祝福されている。お前がそんなうわごとをほざく時間のために犠牲になった奴
がいる」
 声がした。
 俺の隣に立ち、佳澄を見下ろす姿があった。
 千島さん、だった。
「……何も分からないくせに」
 佳澄の拳が千島さんの胸を叩く。一通り、その拳を千島さんが受け止めてや
り、そして
「ああ、分からないな。だから人間はこうするんだ」
 そう言って、千島さんは殴り続ける佳澄の手を止めた。鼻血と涙にまみれた
その顔を、千島さんが胸元に近づけて、
 抱いた。
「あ」
 夕暮れの中に、抱かれていた。
「落ち着くまで泣くといい」
 それは、この大気の薄い、冷たい風から子供を守る母親の絵だった。
 それは、どんな宗教画よりも尊い母性を現していた。
「私、生きている意味なんてなくて、お母さんを悲しませるだけで」
 佳澄が涙を胸にこすりつけながら言う。
「……そうだな。その運命には、泣いていい。だが、人生には最初から意味な
んてないんだ」
 佳澄の泣き声が止まった。
「……それなら、どうして生きろと。何にすがって」
「そんな安っぽいゴールが人間の意味にはなりえまい。より高次の存在でもな
い限り、人生に意味づけなんてできやしない。人間は無力だ」
 圧倒的な力を持ったその人が言った。
 人間は無力。
 それでも、その人はその圧倒的な力で道を切り開いてきたはずだ。その姿が
ただ強く、美しく佳澄を抱く。
 ここで終わるべきでないと誰かが告げるから。終わらせたところで意味には
なりえないのだから、
 だから
「無力だが、お前には祝福してくれる人がいる。悲しんでくれる人もいる。こ
こにいる。最後まで抗え。それだけの思いで、人は生きていける」
 そうして、世界一美しい夕焼けが終わろうとしていた。
「残酷です、そんなの」
 茜色に染まったその世界が、世界一の孤独に生きる二人を照らす。
「うん、残酷だ。だが、その残酷さが人間の誇りへの果敢なる挑戦だ」
 佳澄がその場に座り込み、声を上げずに涙をこぼした。
「ずっと泣いて過ごしてもいいですか、私」
「ああ、心配するな。お前は絶対に笑う」
 佳澄を抱いていた手を解き、向かい合う。
「私は数え切れぬ人間をこの手で殺してきた。それでも、こんな私でも温かい
だろ」
「……はい、温かい、です」
「ふん、背中を守ってやるのは私の仕事だ。だがお前の正面を守るのは私では
ない」
 それは俺がよくわかっている。世間に甘えてばかりで、ただの役立たずの俺
だけど。それでも。
「佳澄。少し俺も真似してみていいか」
「はい、好きにしてください」
 うわ。
 というわけで好きにしていい許可を受けた俺は佳澄を正面から抱いて、キス
した。
「今更だけど、今更だな、佳澄。ごめん」
「……最低ですね、如月さんは。謝罪の言葉なんて陳腐なものでは許せないで
す」
「じゃ、もう一回キスするな」
「はい、ありがと……ってごまかさないでください」
 顔を赤くした佳澄がいた。世界一やかましいファーストキスだと思う。
「……好きだぞ、佳澄」
「はい、私もです」
 そうして、一番言うべき言葉を伝えた。
「というかお前たち早く乗れ。続きは民宿の部屋ででもやってくれ。恥ずかし
くて見ていられない」
 めちゃくちゃ恥ずかしかったけれど。その日は島の民宿に泊まり、帰宅に必
要な金をぴったり民宿のおじさんにもらい、島を後にした。
 でも、そんなぴったりで若者二人の旅行を満たせるわけもなく、俺の百円だ
けの所持金ではせいぜいジュース一本なわけで後先考えず金を使い、途中で佳
澄に死ぬほど怒られながらもなんとか都会の駅にまで戻った。
 駅で俺を待っていたのは家族でも先生でも警察でもなく、軍隊だった。
 千島さんのことは絶対に口外しない、と厳しく言い渡されて無罪放免。
 その後、父親に殴られ、母親にどつかれ、先生に絞られ、佳澄の親になぜか
礼を言われた。
 佳澄のケツを追いかけた無銭旅行の話はこれでおしまい。

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