百円の軌跡

第十話

 時は午後五時五十七分三十秒。
 場所はこの地方一の巨大ターミナルの一角、コインロッカー前。
 噴水前とか巨大テレビ前とかもっと待ち合わせに適した場所があってもよさ
そうなものだが、長引いた戦争のおかげでそんな「あってもなくてもどっちで
もいいもの」なんてものは姿を消した。結果、機能美に特化しすぎたせいでロッ
カー前くらいしか待ち合わせ場所がないのだ。
 というわけで待つ。待ちながら駅の風景を見渡す。
 目の前を過ぎる若いカップルに出張帰りのサラリーマンに、学生服の集団。
どれでも一つ百円のパン屋に時代遅れの薄汚い靴修理店に緑の証明写真スタン
ド。どこにでもありそうな、ずっと変わらぬ駅前の風景が広がっていた。
 と。
「……あんな色じゃなかったよな、確か」
 視線のどん詰まりにはグレーの筐体が見える。新型の券売機で、生体認証で
人間に現金をチャージし、改札機を通ることができるようになったと聞いてい
る。
「で、あそこは花屋だったはずだ」
 券売機の隣には百合の花が印象的だったちょっと場違いな花屋があったのだ
。頼まれもしないはずなのに駅に売れ残りの花を飾り、軍人が通ると花を渡し
ていたおばちゃんがいて、ちょっとした名物だった。
 でも。
 バケツからこぼれた水も、落ちた花びらも、生花の青臭い匂いも何もかも消
えてしまっていた。
 代わりに。
 コップのブランドを売っているようなコーヒー店が立ち、何が楽しいのか大
勢の人が順番待ちをしている。近くのタイルにガムテープを貼っている辺り、
新装開店セールか何かをしているのだろう。
 知っている世界が消え、想像の届かない現実があった。
 それは明らかに一年という年月を感じさせるものだった。
 俺の知っている世界が真実ならば、この現実もまた紛れもなく真実なのだ。
だとすれば現実や真実というものはなんて嘘臭いのだろう、と思う。
 俺の欲しい現実はこんな姿をしていない、なんて叫んだところで
 浦島太郎。
 そう、昨日の事実から今日の現実を類推できることが正常だというのなら、
今の俺はまさに異常なのだ。理由すら定かでない引きこもりを続け、人とのつ
ながりを絶ち、それでも今もう一度、人に手を伸ばそうとする落伍者。
 こんなにも無力なのに。自分の無力さに気づかされたのに。
「俺、無力なんだよな」
 つぶやきにずっと昔が甦る。
 あのときも、こうやって何もないコインロッカーの前に立ち尽くしていた。
 立ち尽くして、
 コインロッカーを睨みつけて、自分の無力を恨んで
 ふと、コインロッカーに見慣れた四桁の番号を見つけた。
 どこで見たものだったか。
「このポンコツが。大事なときに働きあがれ」
 自分の頭を殴る。
 その四桁には続きがあって、いつも暗い部屋の中の小さな液晶に映っていて、
 俺は、その瞬間が大好きだった。
 そうだ。
「佳澄の携帯電話の番号だよな、上四桁の」
 胸に入れていた携帯電話を取り出し、確認してみる。
 ……大当たり。
 ちなみにそこは誰も使っていないらしく、表示は「空」になっている。
 今度俺がコインロッカーを使うことがあれば、絶対その場所を使ってやろう、
そう思った。机の引き出しに好きなこのリコーダーを見つけた小学生のような、
そんなサルみたいな自分の興奮に笑えてしまう。
 なんたってまだ見ぬ人を、会ったこともない人を、約束しただけの人にどき
どきするのだろう。

 −あってはいませんが、話してはいます−

「まさか、な」
 いずれにせよ、佳澄には感謝だ。どんな美女であろうとどんなゲテモノであ
ろうと、どちらにせよ俺は佳澄に感謝する。だって、佳澄は引きこもりを終了
させる機会を与えてくれた人なのだから。

 ……
 …………
 ………………

 午後七時二分五十二秒。時計の文字盤に浮かぶ液晶の1902という文字だけで
腹が減る。
 どんなときでも腹が減るのが若さなのだとすると、それがまさに俺の罪であ
るような気がする。
 若いことはそれだけで罪だと言うが、あれはどうやら大人の負け惜しみでは
ないらしい。
 さて、現状を冷静に分析する。
 場所は変わらずロッカー前。時間は約一時間経過。
 そう、間違いなく確かに一時間待った。目を離したわけでもトイレに行った
わけでもない。いつ佳澄が来てもいいように周囲に気を配った。顔を知らない
からすれ違ったかもしれないが、それでも見落としていないという根拠ない自
信がある。相変わらず絶えぬ人の流れを眺め、間違い探しのような駅の風景に
身を任せ、待ち続けた。そろそろ来たっておかしくはないはずだ。
 が。俺は今も一人でここにいる。

 どうせ行きませんから。

 ここにきてようやく、昨日の佳澄の言葉を理解する。
 理由はわからないが、佳澄は約束をすることが出来ないのか、約束を守るこ
とが出来ないのだ。約束を守れないならそれで構わない。だが、もし、
 約束を守ろうとして守れなかったとしたら。
 とりあえず電話だ。途中で事故にでもあっていないことさえ確認できたら帰
ろう、そう決める。
 携帯電話を触り、これまでかかってくる一方だった電話番号を睨みつける。
 もしかすると佳澄が全く違う場所で待っているなんて楽観的希望を込め、発
信ボタンを押した。
 『お客様のおかけになった電話は現在電波が届かないか電源が入っていませ
ん』
 なんだそれ。
 俺が佳澄を別の場所で待たせて、嫌われて着信拒否だったらまだいい。どう
せ佳澄だから一日もすれば機嫌も直すだろうし、絶対に電話がかかってくる。
だが。
 佳澄がもし、約束を守ろうとして、守れなかったのなら。
 たとえば途中で事故に遭ったとか、たとえば途中で事件でも起こったとか、
たとえば急病だとか、たとえば
 たとえばそれが佳澄の避けられぬ事情だとか。
 駅前、コインロッカー、待ち人来ず。
 何かを思い出したような、そんな気がした。
 遠い昔だったかもしれない、つい最近のことかもしれない。
 ただ、それは些細なはずの何かが引っかかって動けなくなった、その日のこ
とに似ている。
 自分の無力さを思い知った日。
 そんな過去、思い出したくなかった。
 どうせ俺は無力で、これから先もずっと無力なのだ。
 やっぱり明日からも引きこもろう。俺がいなくたって地球は回る。街は変わ
る。誰も彼もが笑っている。明日も佳澄からかかってくるはずの電話を心待ち
にし、今日のことなどなんてこともないかのように馬鹿なことを言って、馬鹿
な話をしていよう。
 今日も一日平和だった、明日も一日平和だろう。一年前にはなかった喫茶店
の看板に背を向けて、来た道を引き返し
 行き先と出発時刻の書かれた電光掲示板が見えた。
 『祝!深町線 開業』
 深町線なんて鉄道、聞いたこともない。
「開業ねえ。おめでとう、世界」
 目で追う。どうやらこの街五本目の地下鉄が走ったらしい。それを象徴する
かのように開通記念の切符を買い求める謎の集団が駅窓口に並んでいた。よく
見ればおっさん連中の中に子連れの母親がいたり、おじいちゃんがいたりする。
鉄道ファンというやつも裾野が広がったのだろうか。落ちて踏まれたパンフレッ
トに描かれた意味不明なキャラクターがパンフレットの左端でいびつに笑い、
十四日の開通式への案内を呼びかける。
 十四日。今日は佳澄との待ち合わせの日だから十五日である。
「昨日開通かよ。それでこの混み具合ってのも異常だな。くたばれ、世界」
 一人で突っ込み。この世なんてほんとうに意味のわからないことで盛り上が
る。そんなに開通式が楽しければドカチンバイトにでも行けばいいのだ。
「おい、若者」
 突然声をかけられる。年のころ、三十いくつくらい。列に並びながら新聞を
片手にこちらへと手招きする。
「なんんだよおっさん。ドカチンバイトなら明日紹介してくれ」
 おおかた記念販売品を二人分欲しいとか、そんなところだろう。
「いやお前さん、開通は今日だぜ」
 目の前のやつがわけの分からないことを言う。
 曰く。本日は十四日。
「何言ってんだよおっさん。今日は十五日だろう」
「間違ってんのはお前だ。ほら」
 男が腕を指し、そこには間違いなくそうかかれていた。デジタルの液晶。
 PM0713 0514
「あ」
「な、俺が正しいだろう」
「いや、おっさんが間違ってるだけかもしれないだろ。今日は誰がなんと言お
うと十五日だ」
 男が怪訝な顔すらする。
「口だけは回るやつだな。そんなに嘘だと思うなら百円やるから新聞でも買っ
て来い」
 胸元に銀色の物体が飛んでくる。
 百円硬貨だった。乗りかかった船に避けられない意地の張り合い。
「ああ。おっさんが正しかったら倍返しにしてやるぜ」
 五歩と離れぬ売店に向き、包装用紙レベルのスポーツ新聞を持ち上げる。
「いい包装紙だな。おばちゃん、百円で買ってくぜ」
 板台の上に百円を叩きつけ、その場で広げる。
 と、名前も知らないルーキーが開幕戦で三安打。その下には夜も眠れぬマム
シ&すっぽんドリンク、寂しい人妻へのフリーダイヤル。性欲をもてあます。
 ではなくて。
 日付だ。
 トップを見る。そこには

 十四日。

 つまり、それが事実だった。
 笑えた。
 今日佳澄が来なかったのは当然で、俺が一日ずれていて、それは多分俺の部
屋のカレンダーが一年前のやつだからで、
 そういえばカレンダーなんて架け替えていなかった。最初から気づいてたじ
ゃないか。カレンダーを張り替えていなかったことなんて。一年前のカレンダー
なのだから一日ずれるのは当然だ。
「アホか、俺」
 あらゆる不安が、自己嫌悪が、世の中への斜が吹き飛んでしまう。
「おっさん、ありがとうな。俺デートの時間を一日間違っただけらしい。ほら、
百円返しと約束の百円な」
 これで財布の中には百円。明日佳澄にあったところで場末の安い自販機で缶
コーヒーでも買ってやるくらいしかない。
「わかっただろ、若者。でもいちいちデートとか報告するな。俺が悲しい」
「そうか。悲しいなら俺の門出を祝ってくれ。じゃあな、おっさん」
 ものすごい安心感で元来た道を引き返す。その証拠のように半分スキップ、
勢い余って喫茶店の看板を蹴飛ばし、繁盛する切符売り場を過ぎ、待ち合わせ
予定地のコインロッカーの前を過ぎ、もう一度佳澄の携帯電話番号上四桁ロッ
カーを確認して。
 そこには
 『使用中』
 そう、表示されていた。俺が離れている間に誰かが使ったのだ。
「くそ。いずれ俺専用ロッカーにしてやるぜ」
 ん、ちょっと待て。
 たくさんあるロッカーの中で「使用中」はここだけだ。そんな偶然あろうか。
 いや、もうちょっと待て。
 それはロッカーを使う人だっているだろう。偶然ロッカーが使用中で何がお
かしい。
 いやいや、もうちょっと待て。
 どうせ使うならわざわざ一番下の、屈まないと入れられないようなところを
使うだろうか。俺なら出し入れのしやすい胸辺りのロッカーを使う。
 いやいやいや、もうちょっと待て。
 何か理由があるのだ。出し入れのしにくいその場所を使う理由が。
 例えば俺に見つけてもらうため、とか。
 ……決めた。
 ワンコインだけ、自分の運を試すことにする。
 ロッカーの鍵解除方法は百円を入れて管理端末からロッカー番号と暗証番号
を打ち込むだけだ。
 最後の百円を投げ入れる。
 『ロッカー番号と暗証番号を打ち込んでください』
 記憶に残る、ずっと携帯電話のディスプレイに映っていたその番号を端末に
打ち込む。
 『解除キーを受け付けました……認証中………受け付けました。またのご利
用をお待ちしております』
「……おい、嘘だろ」
 解除成功。
「……まさか、な」
 浮つく身体でロッカーに戻る。
 足元の位置にまで屈みこみ、そして中を、見て。

 それは小さな、薄桃色の封筒だった。

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