百円の軌跡

第九話

 運命というものは実に不思議なもので、男というものは実に単純なもので、
気がつけば俺は久しぶりに家を出た。
 三時間前から風呂に入り、歯を磨き、着替え、着るものがないのでとりあえ
ず一年ぶりの制服に袖を通し、全くもって場違いよろしく玄関の扉を開ける。
 もしかしたらこれは壮大なネタではないのか。何度もそう思った。
 例えば、だ。
 アホな引きこもり男をからかって待ちぼうけを食らわされるところを見て笑
おうという魂胆ではないか、そんな線が一番濃い。
 が。
 俺にそんな暇な遊びを仕掛ける相手すらいない現状だ。別に誰かに笑われよ
うとコケにされようと痛くもかゆくもないほどに痛すぎる人生裏街道の住人な
のだ。
「……一年、か」
 知っている人なんてどこにもいない。知っていた空気も、空も、何もかもが
ない。でも
「でも街並みは一緒だな」
 変わるのだろうと思う。この街並みだって後数年すれば完膚なきまでに変わ
ってしまうのだろう。ただ、人という生き物と比較すると変化の速度が遅いだ
けで、俺は確実に解きに取り残されている存在だ。
 そう、この世というものは常に走り続けなければ取り残される。別にわざわ
ざ引きこもらなくても、逃げなくても、必死でついていかなければこの世はダ
メ人間の一人や二人、一瞬で切り捨ててしまう。
 夏を含もうという大気を感じる空気を肺に溜め、散りそびれた桜の花を軽く
叩いてやる。
 時間は午後四時。
「仕上げは、あそこだな」
 床屋に向かった。仮にもデートである。悔いの残らないように、一年分のい
ろんなものを全て切り捨てる気分で乗り込んだ。
「ところでお客さん、どうしますか」
「ツインテールにしてくれ」
「無理です」
「では今より長く」
「……二枚刈りでよろしいですね」
 久しぶりの床屋の親父が一年前と同じ言葉を言う。
「すまん。今からデートなんだ。思いっきり格好良くしてくれ」
「了解しました」
 わかったのか分かっていないのか、親父がハサミを滑らせる。
 その髪を通る指使いが世界とのつながりをもう一度俺の中に戻らせる。こん
な感覚が、人の触れ合いが当たり前だった頃が甦る。そう思うだけで頬がほこ
ろんでしまう。
 そんな俺を見て窓の外の通行人が笑って通り過ぎた。


 多少短くなった髪を触り、頭皮を撫でる微風のくすぐったさに首をすくめ、
この地方一大きな駅前へとやってきた。
 時刻は午後五時三十分。佳澄との待ち合わせまであと三十分ある。
「よし、最終確認だ」
 場所は駅のトイレ。足元に落ちている微エログラビアについては見なかった
ことにする。
 何度も確かめた自分の姿をもう一度鏡でチェック。
 大丈夫、風で髪が乱れるなんてことはない。これ以上格好良くなりようがな
い自分の姿に根拠なしの自信を持つ。
 頭と顔の外見はオッケー。首から下に目線を移す。一年振りに袖を通す制服
だ。しわもいっていなければ埃もついていない。単純に着用していないからな
のだが、清潔感は最高だ。が、少々堅そうな印象すら受けてしまう。涙ぐまし
い努力の一環としてカッターの第一ボタンを開け、ネクタイを強く締める。
「でも制服なんだよなあ」
 いくらなんでも女の子と会うのに制服はないだろう、と思う。
 が、ここまで来て当たり前の事実に気づく。
 今日は平日の夕方だ。一般人なら学校帰りは当然である。だから制服である
ことに問題はない。むしろ私服で徘徊しているほうが問題だ。もう一度カッター
の第一ボタンを締めなおし、ネクタイを首のぎりぎりにまで上げ、気合いを入
れる。
 最終確認終了。
 トイレを出、コインロッカーへ歩く。背筋を張り、目線は少し上向き。ちょ
っと格好いい入りたての軍人みたいだ。

 如月さん、やっぱりかっこよかったです。
 ああ、当然だ。佳澄はかわいいけどやっぱり無乳だったな。

 妄想炸裂。
 アホか、俺。
 そんな俺の顔をトイレに入ってきたおっさんがいぶかしむ。
 大丈夫。恥なんてとっくの昔に捨ててきた。佳澄の前で恥を晒さなければそ
れでいい。
 新聞の自販機に蹴りを入れて一気に駆け出した。
 一年間失っていた万能感が戻ってくる。
 一刻でも早く佳澄に会いたかった。そして
 一秒でも長く佳澄といたいと思った。

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