百円の軌跡

第八話

「……如月さん、それでは私のたった一度のデートのお話、します」
 聞き間違えたかと思った。
「なんだ、佳澄には彼氏がいるのか」
 声しか知らないけれど、そこはかとなく残念感が広がっていく。
「いえ、特には」
「残念だな。せっかくフリーかと思ってたのに」
「だからいないです。如月さん、私の言葉を聞いてますか」
 佳澄にしては珍しいほどのはっきりした答だった。
「ごめん。いないって言ったんだな。じゃあ別れたのか」
 こういう話はうまいこと突っ込んでいくものと決まっている。
「そ、その人のことは好きなんです。でも付き合っているわけではないですし、
会ってもいません」
 好きだけど会っていない。当然ながら付き合ってもいない。一番簡単なシナ
リオなら絶賛片思い中ということになろうか。なら
「玉砕覚悟で告白しろよ。お前かわいいから絶対いけるぜ」
 少しだけ自分の気持ちを抑え込んで言葉をつむぐ。
「そんなこと、できません」
 その答を待っていた自分を腹黒いとも、汚いとも思う。それでも
「じゃ、しばらくは佳澄はフリーなわけだ。俺と一緒だな」
「如月さんも、そうなんですか?」
「ああ、ずっとそうだった」
「……私もずっと、そうでしたから」
 ずっとそうでしたから。その無力さに俺が立ち向かえるのだろうか。逃げ出
した俺がもう一度、その先を目指してもいいのだろうか。
「お前、これまで誰かと付き合ったことあんの」
 負けたっていい。目指すだけなら無料だ。ならばせめても立ち向かってやろ
う、そう思う。
「いえ、ないです」
 それが社会という集団に馴染めない俺の、社会とやらへの逆恨みだ。
「なら結果なんてまだわからないだろ」
「でも」
 分かっている。自分の無力さを知らされる痛みは誰よりも俺が知っている。
だから
「俺は佳澄のこと好きだぜ。必死なところも、からかわれて慌てるところも、
最後には俺をやり込めるところも、全部好きだ」
 こんな俺の言葉が励ましになるのなら、それでいい。それが俺なりの、こん
な茶化してしか言うことの出来ない告白。自分の気持ちを偽って他人の言葉に
仕立て上げ。
「あ、わ、私、その」
 声しか届かぬ相手に精一杯笑ってみる。
「って感じに告白してみろよ。とりあえず、さっさとロマンチックな話を続け
てくれ」
 今はこれでいい。誰よりも逃げる自分がこの上なく惨めだけれど、それでも
これでいい。楽しく笑えたら、次の痛みには耐えられる。
「……はい、入学式の日だったんです」
 話が始まった。くぐもった甘い声が受話器越しに夢のかけらを作り上げる。
「入学式、といえば佳澄は一年だからこの前だな」
「……」
 余計な突っ込みを入れたせいか、受話器の向こうに沈黙が走る。
「悪い。続けてくれ」
「はい、その人は荷物をたくさん抱えた私を助けてくれたんです。その人に荷
物を持ってもらって、それで駅前で遊びました。約束もしました。でも、次の
約束を守れませんでした。それ以来その人とは会っていません。これで話はお
しまいです」
 沈黙が降りる。
「……それだけ?」
「はい、悲しい話です」
 沈黙だった。話はもう、終わったらしい。
 あまりにも沈んだ雰囲気になったのでとりあえず茶化してやる。
「たった一度くらいすっぽかされたくらいで拗ねる男なんて佳澄のほうから願
い下げておけ。かわいいんだからいくらだって次があるだろ」
 約束を守れなかった理由は、聞かないことにした。
「ですが」
 言葉を遮る。
「で、それからその男とは会っているのか」
 沈黙が少し。そして
「会っていません。でも、話は、しています」
 その言葉に何か引っかかる。
 会ってはいないが、話はする。そんな奇妙な付き合い、あるのだろうか。
 まあいい。
「まずは会って、話し合うところからスタートだな」
「……ですが、私は約束をやぶってしまいました」
 切羽詰った声だった。だから
「一度約束を破っただけだろ。そんなの許してくれるって。なんなら一度俺と
会ってみるか。約束をする練習台くらいにはなってやるぜ」
 なんだそれ。佳澄にとやかく言う前に、俺のほうがはるかに意地汚い。
「……十五日、午後六時に駅前のコインロッカーの前で待っています」
 随分長い時間の末。受話器の向こうにある、考えに考え抜いた顔ですら思い
浮かぶ。
「って佳澄は俺に約束をしたのか。正気か」
「……はい、約束です。守れない約束ですが。それで、如月さんも分かってく
れると思います」
「それなら期待せずに待ってるぜ」
「はい、期待はしないでください。どうせ行きませんから」
 電話が切れた。
 十五日、午後六時、駅前のコインロッカー。
 声しか知らない佳澄と出会う日。
 カレンダーを見た。
「うわ、十五日って明日じゃねえか」
 突然のめぐり合わせであるが、これが俺の引きこもり締めである。

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