百円の軌跡

第七話

「今日は如月さんが女の人と出かけたお話、聞かせてください」
 待て。
「開口一番から何言ってんだよ」
 聞き間違えたかと思った。
「あの、やっぱりだめですか」
 だめ、とかそういう問題ではない。そもそも
「俺が女と出かけた、なんて言ったか」
 高校一年生の春以来、引きこもっているのだ。中学生の頃なんて友人と遊ぶ
ので精一杯、デート以前に女と話したことも数えるほどしか
 あ。
 思い出した。
「でも、あるんですよね。そういうこと」
 そういえば。
「……一緒に歩いたくらいなら、あるな」
 記憶に残すほどでもない話でもないし、人に自慢するようなことでもないが。
「聞かせて、もらえますか」
 そんな俺の話をなぜ、聞きたがるのか分からないけれど。
「いいけど、たいした話じゃないぞ。確か入学式の日だ。帰りそびれて一人で
歩いてたらちょうど同じく帰りそびれたっぽい奴を見つけてな。俺にしては珍
しく自分から声をかけて、それで駅まで歩いて少し遊んだような気がする。あー
そいつの第一声は覚えてるぞ。『はい、行きたいです、私』だったな」
 なんでそんなことを覚えているのか分からない。返事としては面白い部類だっ
たし、必死で、とても拙い声だったからかもしれない。だが、もしあの印象的な
声がなければ、俺はこの話を思い出すことすらなかっただろう。
「……そう、ですか。それで」
「駅前で適当に遊んで、最後に俺が偶然百円の自動販売機見つけてジュースを
おごったんだよな。セコいだろ、俺。それで終わり。でも一回だけだし、次の
約束はしなかったな、多分」
 かすかに残ったその記憶。適当に遊んで、そして別れただけ。相手も、場所
も、時間さえも記憶に残っていない。そもそも相手の名前を聞いた記憶すらな
い。好き嫌い以前に出会いといえるのかどうかですら怪しい。ただ、瞬間的な
思いつきで自分の孤独を埋めるために時間を潰そうと思っただけ。
「それで、お話は終わりですか」
 小さな声で現実に戻される。受話器の向こうにあるまだ見ぬ顔がいつもより
少し憂いを帯びたような、そんな気がした。
「ああ、話はそれだけ。いや」
 何かが引っかかる。俺は確か
「どうかしたんですか。他にも何か、思い出しましたか」
 佳澄にしては積極的な突っ込みなのに、あくまでも急かそうとしないその声
がただ、悲しい。
「いや、なんでもない」
「そうですか、ところで今日の学校は」
 間髪を入れず、話題を転換したのは佳澄のほうだった。
「そう毎日聞いても話は変わらないぞ。佳澄のほうはどうだった」
「私は今日、楽しかったです。そう思います」
「そうか。いつか思えるといいな、楽しいってさ」
 無責任極まりない言葉で、俺には届かなかった幸せを願う。
 それっきり、受話器の向こうからその話題について出てくることはなかった。
ただ、これまでと同じ会話を繰り返し、どこから湧いてくるのかも分からない
笑い声に小さな笑顔を返し、そして満たされぬ寂しさが残る。
 小さな、小さな奇跡がずっと続いてくれますように。

 で、そんなセンチメンタルな気分が続いたためしなどなく、翌日は例によっ
て例のごとく、佳澄がロマンチックな話、などというものをせがんだ。
 意味が分からないので意味の分からない答を返すことにした。
「それでさ、そいつが映画一の名句を言うんだよ。『約束はしないよ、だって
この時間を永遠にしたいから』って。どうだ。なんかロマンチックだろ」
 百円で拾ったネット配信映画の台詞だ。ちなみに最後は破局だったと記憶す
る。格好いい台詞を言っても結果が伴わないとダメ男の烙印が押される典型例
である。世の中ダメ男にもなれない男に満ち溢れているが、俺はせめても格好
いい台詞だけを言ってみようと思う。
「はい、とてもロマンチックです。如月さんは映画、好きなんですか」
 珍しく佳澄と意見が合っていた。
「ああ、トマトが流しを転がって人を恐怖に陥れるシーンに特殊メイクを使っ
た映画とか大好きだぞ」
 心に響くトラウマ系B級映画はこの世の至宝である。
「はあ、トマトに特殊メイクするんですか……如月さん、今名句とメイクを掛
け合わせたんですね。感激です」
「んなわけがあるかって感激すんな」
「……でも、深く心に響く物語なんでしょうね」
 全然聞いちゃいない。
「で、俺のロマンチックな話は終わりだ。佳澄はどうなんだ。女だからロマン
チックの塊みたいなもんだろ」
 女とロマンチックの相関性はないだろうが、勢いだけで言ってみる。
「私のロマンチックなお話、ですか。それは、少し恥ずかしいです」
 少し恥ずかしいと聞いて引き下がるようでは男の名折れ。
「いいから言え。俺は恥らう姿が好きなんだ」
「はい、私、思いっきり恥らっています」
 うわ。
「ああ、やっぱり白のソックスにローファーは最高だよな」
 条件反射でつい口から零れ落ちた。今は反省して
「はい、下着をつけずに直接ブラウスを着ると、肌に触る硬い感じがなんだか
どきどきします」
 反省終了。妄想開始。
「で、佳澄は胸でかいのか」
 どこのセクハラおやじだ。
「いえ、この前鏡を見ると肋骨が浮かんでいました。全然ありません」
 微乳か。
「いや、むしろ無乳か」
「はい? むにゅう、って何ですか。なんだか、かわいい響きなのに邪悪なも
のを感じまるのは気のせいでしょうか」
 そうやって騙されていくのだ。アホめ。
「いや、全然邪悪じゃないぞ。でもさすがに肋骨はいただけない。というわけ
で今日からおっぱいが大きくなる呪文を唱えろ」
「そんなの絶対嘘ですっ。私、何度もいろんなこと、試してみました。でも、
ちっとも大きくならなかったです。私もう騙されませんっ」
 思いっきり騙されそうなやつがいた。ここで騙さねば男でないとすら思える。
「いや、佳澄はまだおっぱいの神様に祈りを捧げてないだろ。今度こそ効果覿
面だぜ」
「でもそんなの恥ずかしいです。でも教えてほしいです。やっぱり恥ずかしい
です。でも聞かぬは一生の恥です。私はどうしたらいいのでしょうか」
 逡巡と懊悩と葛藤が佳澄の頭を渦巻く。
「いいから聞け。まずは牛乳を飲め」
「……牛乳って一階の売店で売っている百円の紙パックのでもいいですか」
 学校の売店に牛乳なんて売っていただろうか。
 いや、そもそも牛乳は取り放題だったような気もするが、まあいい。
「なんでもいい。で、飲みながら右手を振り上げて」
「はい、今振り上げました」
「それで一気に振り下ろすと同時に」
「同時に」
「『おっぱい!おっぱい!』と掛け声を出すんだ」
 あまりにアホすぎて三回も繰り返すとどんな鬱病の患者でも笑えてしまう最
高の呪文だ。
「はい、今日から頑張ります。その、如月さんは大きいほうが好きなんですね」
「ああ、どっちかというとな。って佳澄も結構マニアックだよな」
「い、いえ。私はただ、如月さんの好きにしてほしくて」
 うわ。
「がんばろうな、佳澄」
「はい、がんばりましょう」
「とりあえずロマンチックに戻ろうか」
 これ以上やっていると頭が先にやられてしまいそうな、そんな気がした。初
心な少年の心には飾らないエロなんて刺激がきつすぎるのである。
「でも、多分つまらないと思います」
 その言葉をどこかで聞いたことがあるような、そんな気がした。だから
「つまらなかったら俺が楽しくしてやる」
 どこかで言ったことがあるような、そんな気のする返事をする。
「……如月さん、それでは私のたった一度のデートのお話、します」

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