百円の軌跡

第六話

「如月さん、一時間目は」
「一時間目か、そんなもん寝てた。ちなみに最近のマイブームは寝ながら登校
だ」
「はあ、すごいですね……では、二時間目は」
「爆睡だ。寝相を変えたぞ。ちなみに改定版漢字苑にタオルを引くといい枕に
なるんだ。覚えておけ」
「はい、覚えておきます……では三時間目は」
「外の景色を見ながら優雅に激睡だ。ちなみに目を開けながら寝るのは睡眠能
力検定二級の実技検定だぞ」
「目に悪そうですけど……お昼休みは」
「グラウンドで魚を焼いた。練炭に団扇を持って廊下にただずんでいるやつが
いればそれは俺だ。気をつけろ、佳澄」
「はい、いつだって気をつけています」
 何をやっているのか。
 アホな会話である。
 違う。俺と皆瀬の会話である。
 が。
 俺と皆瀬の会話はなぜかアホっぽくなってしまう。多分皆瀬が限りなくアホ
に近いからであって、俺に突っ込んでくれないからであって、悪いのは皆瀬で
ある。
 ちなみに皆瀬の名前は佳澄というらしく、最近は名前で呼んでみるという大
実験を展開中だ。最初はものすごくどきどきした。なんたって女の子を名前で
呼ぶのだ。
 かすみ。
 少年の心にはそんなひらがな三文字がどんな法律も届かぬグアンタナモ基地
の壁のごとしである。最初は屈強な敵に立ち向かう勢いで、精魂込めて、全身
の勇気を込めて言った。
 かすみ。
 さらりと流された。
 まるで名前で呼ばれるのが当然、かのように。で、俺が名前で呼べば佳澄も
名前で呼んでくれるのかと思いきや、残念ながら俺の名前すら聞いてくれない。
 というわけで電話がかかってくるようになって一週間が経過し、実に無意味
な会話を延々と繰り返し、学校の話という嘘をつき続けていた。行ってもいな
い学校の話を適当にでっち上げ、いるはずもない友達の話まで作り上げ、受け
てもいない授業の話をする。そして、最後はこう締めくくられるのだ。

「学校は、楽しいですか」

 その質問にだけは答えられなかった。最後の最後で、その質問にだけはうそ
をつけない自分がいた。代わりに佳澄が言ってくれる。
「私は今日、楽しかったです。そう思います」
 最後の最後。俺がつくことの出来ない嘘の終わりを締めくくってくれる佳澄
の嘘。お互いに一通り嘘をついて笑いあって。
 だから、いつもその言葉が出れば潮時だ。電話を切り、小さな、少し馬鹿ら
しい決意をする。佳澄に学校を楽しい、そう思わせることができるまで嘘をつ
き続けよう、と。
 が、まあ、そんな建前とか格好良さとかはともかく。
「ところで佳澄は学校、どうやって過ごしてんの」
 そういえば今まで佳澄が何歳であるのかということですら聞いたことがなかっ
た。俺は佳澄のことをあまりにも知らなさ過ぎる。とかく女の子の秘密を知り
たがるのが男の性なのである。
「学校ですか、えっと、楽しく、過ごして」
 そんなことを聞いているのではない。皆瀬佳澄。その彼女が学校になじめて
いないことくらい、最初から分かっている。一つ一つ、佳澄の鉄壁の十二単を
脱がせていけばいい。まずは
「佳澄は何年生だ」
 当たり前の質問。誰も躓かないはずの最初の挨拶。それでも怖くなって歩み
を止めてしまう俺には大冒険だ。
 そう、ここから始めればいい。
「……高校生です。それで、一年生をやっています」
 一年生。俺の一年前の身分であり、そして今の俺の身分でもあろう一年生。
無駄に親しみを感じてしまうのはきっと、俺には届かない輝きへの憧れなのか
もしれない。
「そうか、それじゃひとつ年下なんだな」
 憧れ。自分に届かないもの。年下という言葉にいろんな思いを込め、先輩風
を吹かせてみる。
「……はい。そう、ですよね」
 年下と分かると全てに余裕が見えてくる。佳澄の鉄壁の守りを突破するのも
案外楽だろうと思う。
 まだ見ぬ恥じらいの顔に、まだ見せぬ笑顔をそっと向けた。
「佳澄、また電話かけてきてくれ。待ってるぜ」
 相変わらずの言葉だったけれど
「はい、ありがとうございます。私も今日、如月さんとお話できて楽しかった
です」
 その声に、忘れていた優しいものを思い出す。
「俺もだ、佳澄」
 その声だけで、自分の無力さなんて吹き飛ばせそうな気がする。そう、それ
ほどまでに、
 俺は
 佳澄という人が心に焼きついていた。言い尽くしようのない俺の無力感は、
佳澄の前だけでは万能感に変わっていたから。

←第五話へ 第七話へ→
「百円の軌跡」トップへ


トップへ