百円の軌跡

第四話

 引きこもり。
 それは心の病気だとか、声なきSOSだとか、まあいろいろと言葉を飾ること
は出来るが、つまるところは人生の裏街道である。
 そこに俺はいた。が、引きこもりといえども外界から完全に隔絶された存在、
というわけではない。いくら部屋を暗くしようとも、カーテンを閉め切ろうと
も、季節の移ろいというものは肌を通じて語りかける。というわけで俺はそこ
まで暑くないはずの夏を越え、即死級の寒さの冬を越え、空気すら色づきそう
な春を越え、連続引きこもり日数がついに三百六十五日に達しようとしていた。
当然高校一年の春から学校に行っていないわけで、万一今俺が学校に復帰しよ
うとももう一度一年生からやり直すわけであり、余計学校に行きづらくなって
いるわけだが。
 それでも俺は生きていた。
 なぜか。
 死ぬほどの勇気も元気もないし、退屈に殺されるほど繊細な人間でもないか
らである。それに現代というものはまことにもって引きこもるには最適の環境
である。パソコン一つあればそれだけで時間はつぶれる。とりあえず音楽でも
聴いて、ゲームに興じていれば日は経ち、月は過ぎ、年は重なる。
 外界では延々と続くと思われていた戦争が終結したらしいが、引きこもって
いれば戦争の存在すら忘れられるものである。全く、人の不幸は蜜の味という
が、少し離れてしまえば不幸も幸福も無味無臭である。
 さて、こんなとき、お約束の展開としては切ない裏設定が明かされるのだ。
 すなわち
 なぜ引きこもったか。
 先に謝っておく。ごめんなさい。
 期待に応えられなくて申し訳ないが、俺の引きこもりに理由なんてない。当
然裏設定もなければ生き別れの妹がいたりもしなければ死に別れた恋人がいる
わけでもない。凡百の社会不適合がある日突然思い立って引きこもった。それ
だけのことだ。
 確かに身の丈似合わない学校に行き、成績も中の下、素行も中の下。学校に
俺の居場所があったわけでもなかったわけでもない。それでもたった三年、高
校生活を楽しもうと思っていた。努力らしい努力はしなかったが、決して道を
踏み外そうとも思わなかった。
 でも。
 どんな些細なきっかけだったか、無力な自分に気づかされる瞬間というもの
がある。
 それは五月病という奴なのかもしれない。学校を休んだことがない、それだ
けが取り柄だった俺は身体がだるいという理由で学校を休んだ。一日休むと学
校に行くのが面倒くさくなり、部屋にこもった。それが俺の引きこもり始めだ。
 最初にやったことはカーテンを閉めることだった。曇りの日でも外に出れば
まぶしいと思えるようになれば筋金入りの引きこもりになれるらしい。
 時間の過ぎ去りは部屋に張ったままのカレンダーで確認している。睡眠時間
は一日十二時間、暇だけは暇になるほどあるので運動不足にならないように部
屋の中での筋トレは欠かさない。が、所詮は引きこもりである。やがて口を開
くことも、自分の声を聞くこともなくなり、この世からほんとうに隔絶された。
 そして時間が過ぎ、引きこもり始めた初夏が終わり、セミの声だけが響く暗
い部屋で夏を過ごし、時折窓を叩く雨の音にはっとする秋を過ごし、壁紙です
らいてつくような冬を過ごし、再び春が訪れたのに、俺は一年間同じ場所に居
続けた。
 真っ暗な部屋にはパソコンのディスプレイの明かりが一つ、外付けハードディ
スクのLEDが一つ、光学マウスのレーザーが一つ、オーディオと空調の待機ラン
プが一つ。明かりといえるものはそれだけ。
 だから、それを最初に見たとき、ついに精神に支障でもきたしたかと思った。
 部屋の隅に何かが光ったのだ。
 一秒に五回程度、青色の点滅を繰り返す物体が家の中の突如現れた。
 回りくどいのは嫌いなので、言ってしまうとそれは俺も存在を忘れていた携
帯電話である。高校生になって購入したはいいが、もしかしたら誰かに番号を
教えたかもしれないが、着信なんてこの瞬間までなかった。存在ですら持ち主
に忘れ去られ、出会いのメールにも寂しい人妻からのワン切りにも愛想を尽か
されていた携帯だ。神様も粋な計らいをするものである。
 一ヶ月で三千円程度の基本料金を一日に割ると百円程度。俺はこの日のため
に毎日百円を払い続けていた、というわけだ。
 埃の積もった携帯電話に手を伸ばし、電話を受けていた。
「はい、もしもし」
 その声で気づく。
 自分の声を聞いたのも久しぶりな自分がいた。少しくぐもってしまった自分
の声はあの頃と大して変わらない、と思う。まだ見ぬ受話器の先の相手にほん
の少し申し訳なくすら思う。が
「あ、あっ」
 その人の第一声はそれだった、と思う。
 ついに言葉を理解できなくなったかとすら思った。俺が引きこもった一年で
言語体系が全て変わってしまったのか。
 アホか俺。
 そんなわけがない。頭を落ち着け、謎の声が何を伝えようとしたのかを必死
で考える。
 とりあえず女性の声であることは認識できた。が、それは誰がどう贔屓目に
聞いてもそれはあえぎ声である。
「悪い。あえぎ声は間に合っているんだ」
 間に合ってはいないのだがそういうことにしておく。
 世の中、自分に無関係なあえぎ声ほどやるせないものはない。
「あ、待ってください。あえぎ声ではないです、その」
 あえぎ声が言い訳に転じた。間違いなく女性の声で、しかも相当に幼く聞こ
える。声自体はしっとりとして大人のようなのに、言葉尻が跳ね上がる、独特
の声に舌足らずの発音だ。どこかで聞いたことのあるような、いわゆる初恋の
人の声と例えればいいような声。要するに俺の好み、というわけだ。
 こんな声が日々百円で聞き放題。さすが、テクノロジーの勝利。
 アホか俺。
「よかったな。かわいいは正義だ。で、俺に何か用か」
 どうせ暇なのだ。間違い電話であっても何かの勧誘であっても暇つぶしくら
いにはなる。
「あ、あの。如月さんで間違いないですか」
 あやうく携帯電話を取り落としそうになりながらも何とか踏みとどまる。
 如月。
 俺の姓である。電話番号だけなら間違いもあろうが、苗字まで分かるとなれ
ば異常だ。
「そうだけど、どちらさんで」
 疑問を必死で押し殺し、平然を取り繕って聞いてみる。
「……は、はい。皆瀬と申しますが、あの、如月さん、ですよね」
 微妙な会話だった。まるで先を続けてくれといわんばかりである。頭の中に
ある記憶を必死で掘り起こす。
 みなせ。
 出てこない。出てくるはずがない。だって俺には女性の知り合いなんて親戚
くらいだ。いや、中学の同級生の線も考えられるかが、卒業してから会ってい
ない以上、電話番号なんて知っているはずがない。
「皆瀬、ねえ。いや、皆瀬なんて知らないけど掛け間違いじゃないのか」
 受話器の向こうに沈黙が広がる。弱々しい吐息が申し訳なさを引き立たす。
「そう、ですか。そう、ですよね。ごめんなさい。掛け間違い、でした……」
 どうせごまかすのならもう少し気の利いた言い方くらいできたっていい。そ
れは誰がどう聞いても嘘、だ。そんな律儀な架け間違いなどあるまい。
 そもそも電話番号と名前が分かり、掛け間違いということがあろうか。
 いや、百歩譲ってこの電話が掛け間違いであったとして、それでも俺は男。
 このきれいな声の女の人と会話を続けたい、ただその一心。男のロマンであ
り、正義であり、本能である。いざ、パラダイス。
 アホか、俺。
「まあ、もしかしたら会っているのかもな」
 アホでいい、そう思った。
 どうせ引きこもりだ。人生の敗者だ。今更アホの烙印が一個や二個増えよう
とも関係ない。
 本能に従うだけのサルですら白々しいと思えるような言葉を平気で吐けてし
まう。俺だってごまかすのならもう少し気の利いた言い方をすればいいのだ。
でも、どうせ不器用なんだから開き直ってやる。
「でも、間違い電話かもしれません、私」
「いや、暇だったし別にいいよ」
 話の振りは最悪だ。
「い、いえ。また掛け直しますっ」
「あっそ。それじゃあな、皆瀬」
 電源ボタン。
 それだけのことだった。
 皆瀬。
 退屈な時間を一瞬だけ楽しいものに変えてくれたことに感謝する。
「って間違い電話に感謝し始めたら人生終わりだな」
 でも声がかわいらしかった。だから許す。というか許して欲しい。
 部屋から音が消え、一年間馴染んできた孤独が部屋を覆う。
 たったそれだけの会話で一日という時間の長さを思い出した。

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