百円の軌跡

第三話

「よし、佳澄。目、覚めたか」
「はい、目、覚めました……私、どうしていましたか」
 信じがたいことにキスで目を覚ましたらしい。
「ああ、陽花にキスシーンを見られたんだよ」
「……そうですか、って私、あ、そんな」
 蛍光灯。
 それが学生時代の佳澄のあだ名だった。スイッチを押してからの反応がいち
いち遅い、だから蛍光灯。本人は「明るい性格だから」だなんて幸せな勘違い
をしているが、一生このままにしておこう。人間知らないほうがいいことはい
くらだってあるものだ。
「キスシーンを見られるのは毎週のことだが、大丈夫か佳澄」
「大丈夫なんかじゃないです。だって陽花に見られたんです。もうお嫁にいけ
ませんっ」
「……お母さん、それギャグのつもり?ピン芸人にでもなったらどうよ」
 待て。
「いや、気にせずお嫁に留まっていいぞ佳澄。そうでないと俺がかわいそうだ」
 と、学習能力もなく毎週繰り返す佳澄だ。よくこの学習能力で高校を卒業で
きたものだ。
 しかもトップで。
 高校当時、佳澄の試験の合計点は俺の三倍を超え、現在佳澄の年収は俺の二
倍を超える。俺、形無しである。
「かくなる上は記憶を改ざんするしかありません。陽花、お母さんの近くに来
てください」
「改ざんって、お母さんならやりかねないわね。絶対嫌よ」
「では陽ちゃん、百円でどうですかっ」
「佳澄、いまどき子供でも百円では釣られんぞ」
「ですが、このままでは、このままでは取り返しがつきませんっ」
 今日の佳澄はいつもに増して暴走気味である。どうやら陽花にキスシーンを
見られただけではなさそうだが、それだけで記憶を改ざんしようとは恐れ入る
根性だ。
「……陽花。見なかったことにしてもう一度食卓に入りなおしてくれ。この家
の最高権力者であり一家の大黒柱である佳澄のご要望だ。佳澄がへそを曲げて
しまうと明日から生活苦に陥るぞ」
「お断りよ、そんなの。だいたいお父さんとお母さんでしょ。別に朝っぱらか
らキスしていようが寝技掛け合って唸っていようが別に構わないわよ。娘の情
操観念に影響を与えない程度なら最大限の譲歩はするって言ってるでしょ」
 そんなことを言いつつも、陽花だって休日のキスを見ないと若干苛立ちを覚
える口である。
 揚句の果てには今日はキスしないの、などと聞いてくる。
「そうだな、陽花。寝技もいいかもな。次は弟がいいか、それとも妹にしよう
か」
「うーん、弟かな。やっぱり」
「そうか、今日当たり仕込んでおくか」
 腕が鳴る。
「ってなんで私がアホ夫婦の会話にっ!」
 アホにアホって言われた……
 アホって言われた……
 言われた……
「死のう」
 部屋を後にする。その後ろから聞こえるのはただ一人の娘、陽花
「あ、もしもし。警察ですか。はい、いつも変態の父がお世話になってます。
もうすぐ死体ができるので来てください」
「って止めろよっていつもお世話にって警察ってもうすぐ死体って何だよ、陽
花」
 突っ込みどころが多すぎて自分でも意味が分からない。
「ふーん。ということは突っ込みの無かった『変態』という言葉には自覚があ
るのね」
「っは、しまった」
「ほら、アホが釣れた」
 もう、開き直るしかあるまい。
「俺は見せつけたいんだ。ほら、こうやって恥らう佳澄もかわいいだろ。な、
かわいいに決まっているかわいいと言えかわいいよね陽花さん」
「はいはいのろけはいいからお母さんのフォローに回りましょうね下僕」
 陽花が指を差す。その先には怒りのオーラを纏った佳澄が一人。
 あ、忘れていた。
「もう一回キスしておくか。やっぱりキスして仲直りは王道だからな」
 というわけでなぜか怒っている佳澄の頬にキス。ほんの少し甘い感じの匂い
が癖になる。
「どうだ佳澄。けんかのあとはほっぺにちゅ、だ」
「はい、ありがとうございます……私、どうしたんでしょう」
「陽花にキスシーンを」
「……はい、あ、見られたのはもう知っています……思い出しました。ですが
それはともかく」
 見られたことを公言する佳澄というのは連れ立って初めてだ。
「なんだ、今日は他にも理由があるのか」
「はい。私、怒っています。いいですかっ」
 にぎりこぶしを作る。こうなった佳澄を止めるのは誰にもできない。
「陽花の玉肌を狙うなんて許せませんっ」
「それだったのか、佳澄!」
 玉肌、恐るべし。
「そんなことでしたら私に言ってください。私がなんとかしますから。陽ちゃ
んもです。ああっ、嫉妬してしまいます」
 やっぱりアホだ。
 会話の流れからいくと俺が陽花を襲うのを手伝ってくれる、ということだろ
うか。
「とりあえず襲っていい許可が佳澄から下りたわけだが、陽花どうするよ。襲
われてみるか」
「いや、襲われてみる以前に出てないでしょ、そんな許可」
「許可なんてしてませんっ。私が玉肌になるんですっ」
 うっわー。
「……さーて、朝ごはんにするか、陽花」
 爆弾発言、である。さすがの俺ですらどうしたものかと視線を泳がせるほか
ない。
「……ちょっと、こっち見ないでよお父さん。なんか変な菌が感染しそうでしょ」
「悪いな、こんな親で。パンツは箸で摘んでいいから」
 が、女というものは一般的に男より強いものであり、その程度の爆弾など一
瞬でやっつけられるものであり
「……お母さんも過激ねえ。妬けるわ。じゃ、今日の夜は早めに引きこもって
おくから精一杯玉肌でお父さんを誘惑しちゃっていいわよ、お母さん」
「陽ちゃんに言われなくても目一杯しちゃいますっ。覚悟してください」
 などと暴力の応酬を続けていた。
「というわけで佳澄にされちゃうか。明日干からびたら許せ、陽花」
「うん、お母さんって実はすごそうだもんね」
「ああ、実はすごいんだ。昨日も一勝負終えた俺の」
「背中にキスなんてしていませんっ」
 アホだ。
 これでまた、佳澄の歴史の中に偉大なるアホの一ページが。
 自分でバラしていた。人、それを自爆という。
「もういいからお母さんをなんとかしてあげて。夫婦漫才は間に合ってるから」
「いや、佳澄。お前も修行を積めばこれはこれで喜んでいる佳澄がわかるよう
になる」
「いいんです。私はどうせ乗せられやすくて変な人なんです」
 完璧に開き直り、たそがれていた。いじられるとたそがれるのは出会って以
来の佳澄の仕様だ。
「ま、二十年ほど連れ立ってこれだからな。いろいろと苦労はあったんだ」
 いろいろと苦労。
 口に出してしまうと、それはものすごくちっぽけに聞こえてしまう。
「苦労、ねえ。お母さんなんて結婚してからのほうが苦労してそうだけど、お
父さんって何か苦労したの」
 そんなことを聞く娘も妻も全てが奇跡なら、俺がここに居て幸せに暮らして
いるのも奇跡だ。
「そう、だな。苦労とは少し違うが、聞きたいか。陽花」
 そう、あらゆる奇跡の上に立って生きてきた。限りない無力を思い知らされ、
それでも歩んで、すがって、ここまで来た。
 佳澄の幻影に笑いかけた。
 佳澄の幻影と己が無力に泣いた。
 佳澄を思いっきり殴りつけた。そして、救われたのは他でもない
 俺だった。
 ありきたりの幸せはありきたりには存在しない。
 陽花がそんなことを見越したかのように笑う。
「どうせ無料ってわけじゃないんでしょ」
 さすが俺の娘だ。わかっている。
「当然勝負だ。俺が負けたら全部言ってやるよ」
 外を見る。風がいい感じに吹いている。
「で、何で勝負するの。お父さんが決めていいわよ」
 乗りやすい娘が身を乗り出していた。
「……勝負といえば、ずっと昔からPK戦だ。そう決めている」
 勝負といえば、昔からこれと決めている。
「佳澄、というわけでお前が審判だ。俺を勝たせろ」
 微妙に涙を浮かべ、俺を睨む。
「いいえ。今日はずっと陽花の味方をします。陽ちゃん、お母さんは恋する女
の子の味方です」
「な、陽花。お父さんに隠れて恋だと、許さん」
「いや、恋してないんだけどね、お母さん。でもお父さんをヘコますのなら共
闘よね、お母さん」
「はい、二人で目一杯しちゃいますっ」
 母娘責めか。身内だけどな。
 この俺を一瞬でも慌てさせるとは、佳澄も強くなったものである。年々この
勢いで強くなられるとあと数年で家の中に俺の居場所が消えそうである。
 ……
 ………
 …………
「話は俺たちがちょうどお前の年だった頃にまでさかのぼる」
「はあ、壮大ね」
 語る。
「全ては『かけ間違い』と百円が紡いでくれた」
 何も知らなかったあの頃。
 祈るだけで奇跡を起こすことができたあの頃の物語。
 覚悟を決めた日のこと。
「……格好つけないでいいからさっさと語りなさいよ、お父さん」
「もう、動かないでください。薬がはみ出します」
 一言で言おう。
 負けたのだ。あっさりと。
 大変情けないことに負けてしまった。その上に怪我までしたとあらば立場な
んてどこにも存在しない。佳澄のあてるシップの冷たさを足首に感じながら紅
茶を一口含んだ。

「実はあの頃、俺は引きこもっていた」

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