百円の軌跡

第一話

 食卓に朝食が並ぶ。
 それはここ十数年、ありきたりのように続く土曜日の風景。
 結婚は人生の墓場なり、とは名言であるが結婚と早起きはよく似ている。
 どちらも三文の徳、である。健康にはいいが、努力の割に報われている気が
あまりしない。なくなれば多分困るものなのだろうが何事もなければ空気未満
の存在である。
 ちなみに三文とは現在の値段で大体百円ぐらいらしい。それでも結婚してか
ら毎日百円を貯金すれば銀婚式までに百万近く溜まるのだから百円侮り難しで
ある。今日も朝起きた瞬間に財布の中の百円を貯金箱に投げ入れた。かいがい
しい努力である。自分で自分をほめてやりたい。報ってやりたい。
 というわけで休日の朝。俺はとりあえず結婚生活というものに報われてみた
い衝動に駆られた。
 いっせーのーで。
 ふに。
「わ、なにを」
「うん、柔らかい。本物だ」
「え、エッチです」
 誤解無きように付け加えておくと、俺は食卓に伸びていた妻の佳澄の腕を掴
んだだけである。それくらいでエッチであれば小学生のフォークダンスですら
破廉恥極まりない。
「腕くらいいいだろ、佳澄」
「そ、そんな、朝から肉体が目当てなんて」
 肉体、である。佳澄の言葉遣いはときどき常軌を逸している。だが女性にの
み優しいことで近所にも有名な俺は軽やかに佳澄のミスを訂正してやる。
「肉体って、なんか体が目的みたいで聞こえが悪いぞ」
「では『朝から肉が目当て』って言い直します」
 アホだ。
「……余計悪化したな、佳澄。繰り返さなくていい」
 ため息一つ。
 結婚した頃は「どこか抜けている女の子」だったのに今では「何もかもが抜
けているアホ」に大進化である。カンブリアの生き物ですら佳澄には勝てなさ
そうだ。全く、女という生き物は男にとって永久の謎である。
「よくありません。だって、まだ朝です」
 アホちん佳澄が口を尖がらせて下を向く。どうやら言い足りないことがある
らしい。
 そう、今の言葉を論理的に解釈すると、佳澄のこだわりは肉体ではなく、朝
であることらしい。
 ということは裏を返せば朝でなければ触り放題なのだ。さすが俺。ご近所一
頭の切れる男性である。さて、それなら早速
「じゃあ電気を消そうか、佳澄」
「はい、って、消しても朝であることは変わりません」
 佳澄の頭の回転具合は昔から恐竜並みである。きっと巨大な胸に養分を吸い
取られて頭に回る血液が不足しているのだ。かわいそうに。
「いや、諦めるのはまだ早い。というわけで二十秒だけ甘えさせろ、佳澄」
 掴んだままの妻の手を手繰り寄せる。
 ふに。
「あっ、ですが」
 ふんわりした腕が気持ちいい。
「うん、柔らかいな佳澄は。よし、次はもっと柔らかいところに手を」
「ってまだ朝ですっ」
 あ、忘れていた。
「ごめん、佳澄。電気消したらよかったんだよな。じゃあ二十秒だけな」
「はい……って、消してもだめですっ」
 そんなもん、ダメといわれたことをやりたくなるのが男であり、この世はやっ
たもん勝ちである。
 そもそも俺はなぜ佳澄を手繰り寄せたいのか。
 簡単だ。休日の朝の眠気に佳澄の腕の柔らかさは最高の薬だから。その柔ら
かさとしなやかさとあたたかさだけで笑えるほどに腹の立つアホ上司とのバト
ルにだって打ち勝てる気がする。
 そう、この家の大黒柱である俺を支えるためには佳澄は必要不可欠なのであ
る。人という文字は人が人を支えあっているのである。結婚生活は二人の共同
生活であり二人三脚である。もう、佳澄がいないと生きていけない身体である。
 恐るべし、結婚制度。
 一日百円の威力はまさにアメとムチである。
 男なんて昼も夜も妻に鞭でしごかれ、時折見せるアメの幻影にすがるペット
みたいなもんだ。俺なんて従順なペットとして近所でも有名である。
「あの、もう二十秒経ちましたけど」
 冷酷なタイムリミットが宣言される。だがそんなもんなし崩しという言葉が
世の中にあるということはすなわち
「妄想がまだだ。あとちょっとだけ」
 ふに。いい香りが舞い降りる。
「もう……意味わかりませんっ」
 佳澄の突っ込みはとりあえず無視し、腕から背中へと攻めてみる。要求達成
は責めの一手に限るのだ。そして
「だってかわいいからな、佳澄」
 もちろん切り札だって忘れない。
「……あと十秒くらいなら構わないです」
 交渉成立。
 佳澄の身体を引き寄せる。自然と重なる頬と頬に初夏の暖かさが心地よい。
身体の触れ合わない部分を気持ちのいい風が通り、テーブルクロスを仄かに揺
らし、飾り物の可憐な花がささやかに戯れて。
 その風景は佳澄と再会した頃の初夏の風景によく似ている。
 少し肌寒い風の吹く日。気の逸る淡い命の花たちが咲いていた、そんな日。
 世界一孤独な場所の、世界一美しい夕焼け。身体に受けた太陽の温もりが心
地よかった。
 そんな温かさに昔を思い出した。
「佳澄。キスしていいか」
「は、恥ずかしいですそんなの」
 佳澄が頬を離し、ファーストキス級に顔を赤くする。
 エロい。
 エロすぎる。
 こういう初心なところにそそられるものを感じ出すと中年の仲間入りなのだ
ろうが、これでやらなければ男でない、そうとすら思えてしまう。
 頭が残念なのは残念であるが、何年経っても妻が魅力的、というのはほんと
うに嬉しい。
「俺は恥ずかしくなんてないぞ」
「それなら一人で壁に向かって勝手にしてくださいっ」
 顔を背けて小さくなる。
「何が悲しくて壁とキスせにゃならん」
「知りませんっ、そんなの……」
 最初の頃はキスの一つだけで半日は魂が抜けていた。あの頃と全く同じで、
顔の赤さは変わらないが、時間は間違いなく経ったのだろう。
 と、まあ嫌がるようなことを言いながらも頬をまた俺に引っ付けてくるあた
りはちっとも変わっていない。
 初めてのキスも俺が誘い、佳澄が合わせてくれた。
「俺は佳澄とキスしたいんだ」
「……少しだけなら、いいです」
 何度も繰り返した甘えと言い訳と、ほんの少しだけの抵抗。言葉はともかく、
佳澄は少しだけ顔を上げて受け止める姿勢を取る。恥ずかしさと必死さがない
まぜになったような、自分から求めるような仕草はずっと昔から変わらない。
 佳澄が顔を上げると、押し出された胸があたる。
 ふに。
 行動がいちいちエロいのは佳澄の仕様である。
 その感覚だけでご飯三杯はいける。
 唇を重ねて両手を腰に回し、強めに抱いて佳澄のお腹に手を這わせてみる。
 少々固めの張りが愛おしい。
「佳澄、好きだぞ」
 その言葉を合図に背中にそっと頭に掌が伸びる。そして
「でも私のほうが好きですから」
 必ずきっぱりと言い張るのだ。
 そんな微妙な意地の張りも、昔から変わらない。が
「うわ。休日の朝っぱらから過激ねえ」
 長い年月。たった一つだけ変わったことといえば
「おう、陽花。キスしてやろうか」
 娘の存在だ。

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