Fairy Ring Overdose

第9話

母のこと、自分の行く末
「有紀ちゃん。起きて」
心地よい眠りからふっと覚めた。ソファの上、田中さんのにおい。そっか、こ
こで寝てたんだ。仰向けのまま目を開けると心配そうな田中さんの顔があった。
少し悲しそうな顔をしている、そんな田中さんが妙に珍しくて懐かしくて眠気
ですらどこかに消えていく。ただ、もう少し体を横に向けたままにしておきた
かった。ソファがちょっと濡れている。
 泣いてたんだ、私。ああ、夢を見ていたんだ。どこからが夢だったんだろう。
「有紀ちゃん。お父さんの夢見てたんでしょ。夢の中でおとうさんって言って
た。小声だったけど」
 はい。それからお母さんを呼びました。そう答えてまた目を閉じる。そうい
や夢でお父さんが出てきていたっけ。そんな記憶とともに涙がこぼれ落ちた。
 母親が憎かった。
 もし、母が父と別れていなければ。
 寒い、寒い冬の日。中学の卒業式を間近に控えた日。あの日も春の近くで雪
が降っていた。自宅に帰ると既に冷たくなった、父がいた。発見が早ければ父
は生きていたかもしれないといわれた。一番大切なときに、母はいなかった。
私を一人にさせた。だから、母を憎んだ。
 一人帰る、雪の道が寒くて、つらくて。
 雪は大嫌いだ。
 その雪の中で思った。有紀という名の自分を恨んだ。そして母を憎むことにし
た。
 夢の中にすら出てこない母が嫌いだった。私を捨てた母を憎んだ。
 雪の降り積もる日、ひとり住み慣れた家を出て親戚の住む都会へ出てきたあの
日。春を思わせる優しい光に満ちあふれた都会の街。
 冷たく光る街の明かりに幸せを求めた。だけど、私には遠すぎて、つかめなか
った。
 悲しいばかりの物語。きらびやかであればあるほど悲しくなる物語。街の光は、
幸せは手を伸ばしても届かない場所にあるって知ったから。
 母を恨み、父の面影を宿した同級生に恋をした。実りはしなかったけれど、思
いすらも伝わらなかったけれど、別れですら上手くできなかったけれど。
 みんな、私の前から消えていく。
 片山みさきに叩かれたあの手の感触を今でも覚えている。別れって冷たいもの
だと思っていたけれど、なぜだか片山みさきの温かさが今でも頬に残っている。
「お母さん、かあ。呼ばれたかったなあ、お母さんって」
 田中さんのつぶやきが切なかった。この人の失ったものが辛すぎたから。
 何も言わないけれど、田中さんが私にとってどんな人なのか今ならよくわかる。
 私の憎み続けたその本人。私が父と一緒に夢の中で呼んだ、その人。
「有紀ちゃん、この写真を見てちょうだい」
 淹れたてのコーヒーを片手に持ちながら田中さんは話しだす。田中さんの手の
上には父と、母と、その母の腕に抱かれた私。林の中で撮ったのだろうか。足元
には円形に広がる白いもの。
 なんだこりゃ。さっき話に聞いたフェアリーリングじゃないか。
 かわいいキノコが仲良しに生える姿は家族のようだった。私にはずっと無縁だ
った、その家族の中で私は祝福されていた。
 写真の中の幸せはどこにもないのに。いつかは私の行き着く先、そして戻る場
所。
「これが有紀ちゃんのお父さん、で、これが私」
 許せない思いがどこまでも続くと思っていた。母を憎んで生きてきたのに。こ
んな幸せそうな写真を見せられてしまう。
「一緒に育てていこうって約束したのにね、母親らしいことをできなかった。赤
ちゃんをおいて働き続けた。全てを有紀のお父さんに背負わせて。大切だから離
れていいって思っていた。いつか戻れるんだって思ってた」
 私を捨てた母が目の前にいる。愛した人と娘を失った人がそこにいる。そして
私の大好きな人の姿がそこにある。私の悲しみを一番理解してくれる、私に悲し
みを与えた母がそこにいる。
「私は娘を捨てた。あなたを」
 母は私を捨てた。母に私の思いがわからないのと同じように、私には母の気持
ちがわからない。どれほどの思いで私を捨てたのか、愛する人を捨てたのか。そ
れは並の決意ではなかったのだろう。
 大切だからこそ離れる。そんな藤原義信の言葉がよみがえった。私にはまだま
だわからない、大切な気持ち。私には母を許すことなんてできない。
 それでも。憎めない。憎んでいないから、許すこともできない。だから、その
胸元に戻ることもできない。
 母に会うためだけに、ずっと寒さの中に身をおいてきた。だから、もう憎まな
くたっていい。私は一人で生きていけない。この先、何度捨てられようとも、私
はきっとここに戻ってくる。家族というどうしようもない呪縛が私をこの場に戻
す。
 母に捨てられ、父を失い、光だけが氷のように明るい都会に流れ着いた。同級
生を心の底から好きになった。全てが不幸だった。母に会ったら何を言ってやろ
う、と何度も考えてきた。記憶にすらない母を憎むふりをして。
 記憶のどこかにあったフェアリーリングという言葉がしっかりつながる。父と
母とのしあわせを演出した場所。藤原義信と私を一瞬だけ近づけた場所。妖精た
ちのいたずら。幸せの出発地点。
「母がいればお父さんは生きていたはずなんです。娘もきっと幸せだったんです」
 母に背を向けて物を言う。母は何も言わない。母がどれほどのものを背負って
いるのか、私にはわからない。失ったもの以上の幸せを母はつかもうとした。
 家庭を捨てた母。社会で必要とされている人。私を生んだ人。
 家庭で生きた父。私のために生きていた父。私を育てた人。
「有紀」
 言葉をさえぎろうと思った。母の言葉を聞くと心が壊れてしまう。
「物語の結末を教えてください。とっても物悲しい、世界一悲しいお話の結末です。
物語の女の子は雪を手のひらに乗せようと思うんです。でも、雪は体温で溶けてし
まいます。だから、女の子は体を冷やし続けました。世界はどこまでも冷たくて、
死にそうになるんです。この女の子は死んだのでしょうか、それとも手に入れたの
でしょうか」
 結末は私が知っている。そして母も知っている。この話は根本的に間違っている
のだって。
「ゆきは幸せじゃない。それはきっと間違っている」
 雪、それとも有紀。答えなんてわかっている。でも、耐えられない。
「私、幸せになりたいんです。その上で生きていたい。教えてください。私は幸せ
になっていいんですか。生きていて、いいんですか」
 幸せになりたい。人を不幸にしてでも幸せになりたい、と思う。母は今、幸せな
のだろうか。父や私を不幸にして、幸せを得たのだろうか。それ以前に。父は不幸
だったのだろうか。
 子供のころの私がいた。父がいて、近所のおばさんがいて。とっても幸せだった。
 私はいつだって笑っていた。父が亡くなった瞬間、母を憎んだ。笑っている私は
もう、いなかった。父を思っていつも泣いていた。父が死んだのは母のせいだと決
め付けた。仕方のないことだったのに。顔すら見たことがないと思っていた母を憎
んで、生きてきた。父の親戚の家に居候させてもらって、甘えて生きてきた。母が
一人で生きている辛さを知らずに。だいたい、私のほうこそ母のことを思ったこと
などなかった。父と暮らしていて幸せだったから母のことなんて考えもしなかった。
 父の死の責任を転嫁するだけのために母を思い出した。私は最低だ。たった一人
でどれほどの思いで幸せな道を自分から断ち切り、生きてきたのかなんて考えるは
ずもなかった。
 泣いていた。藤原義信に会いたかった。
 それは言葉になって零れ落ちる。自分のものとは思えない泣き声だった。悲痛な
自分の声で生まれて初めて世界をのろう。
 今から人生の最初で最後、世界を呪う。
 不幸を生み続けるならこの世は終われ。終わるのが嫌なら、私に幸せを。
 この街に私一人分の温かさを。私の居場所を。
 もしかしたら不幸になるかもしれないけれど。母と暮らしていきたい。
 きっと叶わないだろうけれど。藤原義信と生きていきたい。

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