Fairy Ring Overdose

第8話

父、幸せ
 誰かの入ってくる音がした。
 私の大好きな、足音。待ち望んでいた足音。聞き間違えるはずのないお父
さんの音とにおい。
 部屋の暖房がなんだか優しい気分を運んでくる。温かくて、肌の触れ合う
ような気持ちのいい湿っぽさ。これから色がついてくるぶどうの棚のような、
そんな暖かくて湿っぽい香り。私の大好きな、お父さんの姿。お父さんに田
中さんの家で会えるなんて思っていなかった。街に出てきてからこんな時間
はなかった。突然甘えたらきっと困ったような顔をする。その顔が見たくて
隣に座るお父さんの肩に抱きついてみる。
 田中さんはいつの間にか席をはずしていた。毎日の生活。学校のこと。私
が読んだ本のこと。他の誰もが分かってくれない、私の中の素敵な思い出た
ちのこと。藤原義信のこと。片山みさきのこと。田中さんのこと。私のつか
んでいた幸せ、そして失ったもの。みんなお父さんに話した。正直に。後か
ら後から出てくるたくさんの言葉。お父さんは軽くしか返事してくれないけ
れど、しっかりと聞いてくれた。
 私がいて、家族がいて、その周辺がいて。ああ、これが幸せだったんだ。
それはきっと、私とそしてお父さんにしか分からないような種類の幸せだけ
ど、最高の幸せ。こんなときがずっと続いてくれればいい。何もかも忘れて
こうやって他愛ない話をしていたい。
 離れていたって実はお父さんを感じたことは何度かある。一人で本を読み
ながら後ろに人の気配を感じたり、通学中の電車でそっと私を守ってくれて
いるような、そんな人がいることに気付いていた。声に出しては言わないけ
れど、お父さんを捜してしまう。もちろん、気のせい。
 この街にきて。親戚の家に住んで、初めて迎えた朝。光の雫が木の葉を滑
り落ちる、そんな朝に思わず、外へ出た。お父さんがそこにいる気がして。
都会の乾いた空気の中に、視線を感じたほうへと向き直る。そこにいたのが
藤原義信だった。この街にきて、私は父の面影を藤原義信に何度も重ねてき
た。かりそめの幸せだと知っていたけれど。
 この幸せは、続くのだろうか。いや、答えはわかっている。私の追い求め
ようとしているものこそが、幸せと大きくかけ離れた幻想なのだと。
 いつの間にかずいぶんと日がくれていた。時計がないから今が何時かはわ
からない。幻想的な夕暮れがきれいなカーテンを通して部屋を染める。入っ
てくるはずのない風を感じた。風は太陽のにおいがした。稲穂の太陽に焼け
る物悲しい匂いだった。
「また、会えるの」
 お父さんに聞いてみる。答えを知っているけれど。
「まだ、一緒にいてくれるの」
 もう一度、おそるおそる聞いてみる。目を閉じて答えを待つ。奇跡を信じ
て。
「今日だけだ、有紀」
 運命には逆らえない。今父に会えていることこそが奇跡なんだ。
「会えないことはわかっているだろう。おまえは一人でも大丈夫だ。この街
はすてきなところだ、温かくて。それに」
 涙があふれた。父の運命に泣いた。そして私の現実に涙を流した。ずっと
守られてばかりで、きっと私は自分というものから外に出られなかった日々。
そして大人の人の優しい手の中でしか生きていられなかった現実。自分から
は手を出そうとせずに人からさしのべられる手だけを待って。世の中をあき
らめたふりをして。あきらめられない幸せに泣いて。幸せを求めた数だけ涙
を流した。
 この街は温かくなんてない。冷たく輝く遠くの幸せを眺めるしかできなか
った私にはそれがよく分かる。この街では冷たくなければ幸せになれないん
だ。ああ、泣き言でも何でもいいさ。泣き言を言えば父に助けてもらえると
思っていたんだ。
 私はまだまだ助けてもらわなくちゃいけないし、自分を守っていくなんて
できっこない。冷たさに真っ向から勝負するなんてできない。必死でつかも
うとしたものは必ず手から零れ落ちていくって、知らなくたっていいじゃな
いか。
 きっと、一番大好きだった母に捨てられて。一番大好きな父に捨てられて。
一番好きな藤原義信にも捨てられて。ふざけあった友人、片山みさきからも
捨てられて。
「有紀にはお父さんよりもっとしっかりと守ってくれる人がいるだろ。この
街に」
 この街はたとえようのないくらいに冷たくて。守られなきゃ生きていけな
いのに自分から守ってくれる人を突き放して。私はまだ、まだ。嫌だよ、今
日限りだなんて。そう繰り返しながらお父さんの腰に抱きついてみる。甘え
なんかじゃない。無駄だとわかっているのにこうやってしがみついて、泣い
た。
 ゆっくりと髪の毛をなでる手。私に向かってゆっくりと、優しく撫でるお
父さんの手。そんなに大きくもなくて、それに温かくもない。だけど、ゆっ
くりとお父さんの匂いがどこからか降りてくる。いつのまにかそんな中で私
は泣き止んでいた。泣くことよりも、その安らかさが懐かしかった。昔、私
の記憶がある頃よりも昔、こうやって撫でられながらいつのまにか泣き止ん
で寝付いてしまったような気がする。そのときのように何の邪魔もされない
眠気の中でわたしはそっと目を閉じた。なんだかどんなに悲しいことがあっ
てもきっとやっていけそうな、そんな気持ちになりながら。とっても甘い、
記憶の外で匂った何かを思い出していた。
 お母さん、お話があります。
 お父さんがいなくなりました。私を育ててくれたお父さんが。お母さん。
私は、さみしくて、一人で、たった一人で生きていくなんて嫌です。
 お母さん、私、わかってました。
 幸せは冷たさなんかじゃないって。冷たくなればお母さんに会えるわけじ
ゃないって。
 わからないふりはしていたけど。だから、近くにきて。
 お母さんが家を捨てたのは、そこが大切な場所だからだって。私はずっと。
「お母さんのところにいきなさい」
 優しくて、暖かい男の人の声を誰の声がする。
 誰だったっけ。
 藤原義信、いや違う。藤原義信に似た、世界一優しくて、私のものだった、
大好きな男の人のはず。
 さよなら。私を守ってくれた、人。

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