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日一日の冷たさ
一番嫌いな冬は終わって春の顔が少し見えようとしている。気温は気ままに 高くなったり低くなったり。全くもって私の気分と一緒だった。藤原義信の背 中を見て、その体の動き一つに反応して。藤原義信と登校しなくなって一ヶ月。 もうすぐ卒業だ。感傷を持つには、あまりにもあっけない生活だった。 水ぬるむ、って言葉がある。近くを流れる川は雪解けて増水するわけでもな んでもなく、ただいつもどおり穏やかな水を流し、街の光を映し出す。 その冷たい冷たい、水の中に光る街。私には届かないほど遠くにある幸せ。 ほんと、ばからしい恋心だった。好きな人がこれからどうするかも知らず、 ただ嫌な思いだけを抱かせて別れてしまう。最低だ。一人で電車に乗り、片山 みさきと一緒に街に出、のんびりと帰宅する毎日。それでも、何とか学校にだ けは行っていた。世界にたった一人捨てられた、今の私にぴったりな人生。そ れが私の高校生活。愚か者にはお似合いだ。 街の冷たさがありがたい。誰かが勝手に温かくしてくれるなんて、甘えてい るだけで。届かない向こうにある幸せを見て、皮肉たっぷりに笑っている私。 わかっている。この世界で母に会うことはできない。田舎に戻ることもできな い。だからせめても運命に祈ってやる。もし、母が生きているのなら。 その人はこのうえなく不幸な生活を送っているのがいい。そして言ってやる のだ。私を捨てた罰だって。そしてそして、きっと私はまた、泣くのだと思う。 自分で作り出した不幸に傷つけられたふりをして。 片山みさきと過ごす毎日だけが残る。こうやって街をうろついて、いつもの 店のいつものテーブルで、いつものコーヒーを飲んで。店員と客は違うけれど。 「どうしたのさ、最近。有紀かわいくないと思うけど。振られたの」 片山みさきのいたずらっぽい声が耳に入る。聞きなれた、からかうような声。 「うん、そんなとこ」 やる気なく答えてしまう。力も入らない。仮にも好きだった人ともうすぐ永 遠に別れてしまうんだ。気分が沈まないほうがどうかしている。しかも自分の 不注意で。秘密にしていたことをあっけなくばらしてしまって。片山みさきが 悪いんじゃない。 目の前のガラスに映る私の顔は思いもかけず、あっけらかんとしていた。ほ んとは。街が冷たいのではなくて私が冷たいんじゃないか。そう思って苦笑す る。そんなこと、とっくの昔に知っている。 「どこのどいつよ、私のかわいい有紀をいじめるのは」 鏡を見てきなさい、片山みさき。そこに映っているのが私をいじめる人。片 山みさきの制服の袖を指でつまむ。で、横目。 「へ、私、なの。何やったっけ」 「片山みさき、あんたほんとうに自覚ないの」 もう茶化すしかなかった。まだきょとんとしている片山みさきに語りかける。 「あのね、就職の話した日。あのときのこと、覚えてる」 ありのままを話してしまう。全部は話し終えると私にとっては快適な沈黙が 現れた。 「……」 「……」 ……このままいても埒が空かない。頭を抱えて下を向いたままの片山みさき と、残ったコーヒーをすする私と。ほんと、ばか二人。街の冷たさに、ぴった りの置物。他人に無関心な、家族からは遠く離れた関係が錯綜する都会にぴっ たり。 「……ごめん」 「……仕方ないよ。どうせ遅かれ早かれこうなったんだしさ」 それに、ずっと変わらない関係なんてない。だからあの日変わってしまった ことは不幸だったけれど、いずれ訪れることだったんだ。 「……決めた。私が何とかする」 勢いよく立ち上がる片山みさき。鼻で笑ってしまう。何とかするって言った ってどうにもならないのはわかっている。小ばかにしている自分がいた。ああ、 なぜこんなにも関係のない人間に本気になることのできるふりができるんだろ う、この人は。鬱陶しい。もうどうだっていい。他人の癖に善人面をして燃え 上がるなんて気味悪い。どうせもうすぐ卒業なんだ。片山みさきに変えられる 運命なわけがない。ばかばかしい。 他人に人を温める力なんてない。だから言ってやる。 「好きにすれば、みさき。もうどうでもいいし。私の気持ちもそこまで本気じ ゃなかったんだよ」 口をついたその言葉。いつものように。私らしい、とってもとげのある言葉 を。テンポのよい会話が一瞬、途切れた。その沈黙は誰にとっても気持ちのい いものじゃなかった。融けた雪の中を歩くときの鬱陶しさに似ていた。 「本気じゃない、ってあんた」 気付かなかった。だから、それも片山みさきのおふざけだと思っていた。顔 の近くに手が近づいて、それが頭をなでる。 ぱつん。 頬に熱いものを感じた。乾いた、気持ちのいい音だった。視界が傾く。椅子 から転げ落ちそうになっている自分に気付いた。 「有紀が本気じゃなかったら、私はどうなるの」 片山みさきの怒りを見たのは初めてだった。低くて、静かで、でも圧倒的な 力を持って。呆然とする。なぜ怒られているのか、まったくわからず。傾いた 世界で片山みさきを見て。 「有紀のために……有紀のせいで。藤原を」 私のために。私のせいで。藤原義信を。何がどうなったというのか。片山み さきの言葉だけが耳の奥にしっかりと残っていく。叩かれた頬が熱かった。痛 いのではなく、温かかった。 「高校生になってこっちに来たくせに。積み上げたものをたった一ヶ月でひっ くり返したあんたに。もう帰っちゃえ、田舎に帰れ、帰れ」 泣き声になって、店から出て走り去る片山みさき。何もわからないまま、ま た一つ、消えていく幸せ。 失わないとわからない。幸せだって。 幸せって雪みたいだ。思いもかけないときに鬱陶しく降ってくるくせに、手 のひらに乗った瞬間、消えていく。冷たさだけを残して。ならば。 少しだけ、私は有紀という自分の名前を好きになる。 言われなくたって帰りたい。田舎に。片山みさきの言葉の意味なんてわから ないけれど。それでも帰りたいさ。こんな冷たい街に出てきたくなんてなかっ た。ちょっと気持ち悪いけれど温かい、泥沼のように抜けられない田舎にいた かった。出てこなくていいなら。私の前に藤原義信や片山みさきなんて幸せを どれほど積み上げたとしても、田舎にいた頃の幸せにはかなわないんだから。 冷たく遠くで光る幸せを、どれほどまでに渇望しても手に入らない街に出てき たくなんてなかった。 もう、どうだってよかった。こうやって友達を失っていく。どんどん、失っ ていく。幸せは私の近くからどんどん遠ざかっていく。 藤原義信に対する気持ちは本気だったし、今も本気だ。あの日、あんなに泣 いたくらいに。片山みさきになんてわかってたまるものか。自分で壊した何か がわからず、また、残ったものは冷たい雪の名残。 街の光が冷たくて遠くにある。山から吹き降ろす冷たい雪交じりの風が心地 よい。体が冷たくなれば、降ってきた雪も手のひらでとけることがない、はず だ。この寒さに体の熱を奪われて死んでしまえ。どんどん冷たくなってしまえ。 そうすればいつの日か母に会えるかもしれないから。 だから山に祈る。雪でこの街を包め。 |
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