Fairy Ring

第4話

日一日の温かさ
 肌寒い。なんてものじゃない。こんなに埋め立てられた海岸なのに汐の香だ
けは、自然のまま。
 ずっと遠くに見える橋の明かりが黒い海をプラネタリウムに変えている。
 休日に会うなんて初めてのことだった。天気は朝から快晴。近くにそびえる
優しい山の肌が樹の枝一本見えるほどに透き通って、そこに近くの海からの潮
風がにおう。私の住む、古いものと新しいものが入り混じった不思議な街。こ
の街がちょっと前、壊滅的な打撃を受けたなんて信じられない。街の明かりは
もう、そんな昔のことを思い出させない。目には見えない程度で街の夜景は変
化し、誰かの光が消えた分、どこかで光が生まれ、ただただ美しい。遠くで輝
く冬の空のように。たった一人で夜景を眺め、今日のことを回想する。隣に藤
原義信がいないことをその寒さで嫌ほど知っている。
 私のお気に入りの喫茶店に入った。教会を改装した、天井の高いケーキ屋さ
んで少し裏通りに入らないとわからないあたりが好き。藤原義信と二人で歩い
て、そして喫茶店に入る、というのはなぜだか緊張しなくて。好きな人のはず
なのにそれは当たり前の行動のようだった。
 季節外れのアイスクリームのついたケーキを頼む。これも私のお気に入り。
「大学、いかないんだよね」
 なのに出てくる言葉はこれ。
「ああ、金だけじゃなくてさ、家を出たいからな」
 ああ、そうなんだ。藤原義信は家を出る。もうその決意は変わらない。
 藤原義信の絶望的な家庭状況は私がよく知っているつもりだった。今にも別
れそうな両親の仲を藤原義信が一人で取り持ってきたこと。それがついに、限
界に達してしまったのだろう。
 藤原義信は散文的に語り続ける。家のこと、両親のこと、自分のこと。自分
が出て行ってなんとか温かさを取り戻そうと思ったこと。どれもが私には新鮮
で、知らなかった藤原義信の姿。
 藤原義信の一歳違いの姉の写真を見せられた。ずっと一人っ子だと思ってい
た藤原義信の姉の写真だった。とってもきれいな人で、そして私より若かった。
むしろ幼かった。中学校のときに亡くなったらしい。詳しくは話してくれなか
った。私は、藤原義信のことを何も知らなかったのだ。
 藤原義信の守らねばならぬもの。私が逃げ続けているもの。それが藤原義信
の生きる意味で守るものなんだ。私にはできなくて、そしてわからないこと。
会話が途切れ、お互いに顔を伏せていた。程よく効いた暖房が少しだけ眠い気
分にさせてくれる。高い天井の優しい照明が藤原義信を照らす。
「家庭ってさ、そこまでして守るものなの、あんたの人生を賭けてでも、それ
でいったい何を」
 聞きたかった。幸せって、家族ってなんなのだろうって。でも言葉はさえぎ
られる。
「社長にさ、言われて。家のこと社長に相談したら、それじゃ一度離れなさい
って。大切ならなおさら。離れたってきっと戻れるからって」
 意味がわからない。でも、話は続く。
「あのさ、俺は家を守っていこうなんて思ってない。けどさ、一度離れること
は大切だって思った」
 大切だからこそ、離れる。幸せであろうとも。離れて願う幸せがある。
 もしかしたら私の母親も離れて幸せを願ったのだろうか。藤原義信は、母と
同じように大事なものを突き放してしまうのだろうか。私の好きな人は、私の
憎む母と同じような人なのだろうか。
 確かめさせてほしい。私は藤原義信にとって大切じゃないけれど。
「でもさ、好きなら一緒にいたらいいと思う」
 アイスクリームを全部、口に含む。口の中をゆっくり冷やしながら、次の言
葉を作っていく。冷め切った体を温めてくれるのは、家族なのか、結局は自分
なのか。
「私、寒いのは嫌いだけどアイスクリームは好き。ね、藤原義信」
 決めた。どうせ冷たく、傷つくのだけれど。
「試してみない、藤原義信に温められるものかどうか」
 十分な沈黙が続いた。藤原義信の目をいくら見ても私の言葉を理解したよう
にも、分かっていないようにも見えない。
「あ、あのさ、おまえ」
「残念ね、もうとっくに温まった。もう試せない」
 ほんとに残念だ。とっても残念だ。自分を温めるのは自分だった。
 そこから先はたいした話題も続かなかった。外に出て、二人で昔風の道を歩
いて、話し合うこともなく。学校に行くかのように。藤原義信が私の前から消
えていってしまう前に、かりそめでも温かいものを感じてみたかった。嘘でも
何でもいいと思った。
 それすら叶わなかった。寒い空気が街の光を冴えさせる。藤原義信と別れた
後。早く家に帰って温かい食事を食べたい、と心底思うのにコンクリートの海
岸を歩き続けた。街の明かりが遠くで光っている。私には決して届くことのな
い、冷たい光。幸せの象徴。それでもこの寒さの中に耐え続けていたかった。
 身を切る潮風に切り刻んでほしかった。この寒さに耐えると母と会えそうな
気がするから。

 星に祈る。この寒さの中を出て行こうとする藤原義信に、どうか幸せを。私
には得られない、温かいものを。

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