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雪の日、退屈な日
「もうすぐ卒業だなおい」 鉛色の空。朝から憂鬱。湿っぽい空気が肺の中に充満し、顔には重たい雪がひ っついて。この鬱陶しい朝をなんとか通学しているのはこの、頭の上から声を 投げかけた人のおかげ。その人の顔をそっとうかがってみる。 頭はよさそうなのに、とっつきの悪そうな顔で、目は鋭い。神経質に見えるけ れど、実は結構おおらかでいい加減な性格。私より頭二つ分ほど高い健康優良 児。藤原義信、通称リア。ほんと、ばからしい通称だけど、私だけはフルネー ムで呼ぶ。引っ越してきた次の朝からいつも決まった時間に家の前に来てくれ て、で知り合った。最初はお互いに会話なんてほとんどなかったけれど、いつ も一緒に登校してくれて。藤原義信がいなければ学校には行っていなかった。 初めて会ったとき。なんだか懐かしい気がした。まともに話し合う前からこの 人のこと、好きなんだって思っていた。そのうち追い討ちをかけるように気付 くのだ。藤原義信は私と以外、登校しない、と。自分が特別視されているとい う錯覚は常々、愛されているというとんでもない思い込みを抱かせる。事実、 藤原義信を好きだ。ただ、思いを伝えるのは苦手で、何も切り出せず、といっ て藤原義信が私の気持ちに気付いてくれるはずもなく。結局そのあたりもうや むやになってしまって何の進展もなく今に至る。人はいいし、格好もいいのだ けれど鈍感というかなんというか。友達でいるのが一番いい間柄なんだと、心 の中でふんぎりをつけたつもり。 もうすぐ卒業、か。ちょっと感慨にふける。 「卒業はいいけどさ、大学どうするの」 学校までは二駅。駅のホームは雪混じりの雨でぬれている。コートを着て、手 袋をして、マフラーまで巻いて着膨れしている私を評して藤原義信は「雪だる ま」と言ったことがある。あの時は持っていた傘ですねをつついてやった。大 して痛くないくせに飛び上がって悶絶。オーバーリアクションの藤原義信。藤 原義信、通称リア。もうわかっただろう。藤原義信は反応が面白いのだ。学校 でリアクション王と呼ばれ、短縮されて通称がリアなのだ。ああ、ばからしき かな、高校生の頭脳。 でも私は藤原義信を本名で呼ぶ。 「なんとかならんかなあ。なんだかんだいっておまえ、賢いよな」 私が大学入試に通ったのは随分前。推薦入試だったから秋の終わりには決まっ ていた。大学への進学は私なりの、藤原義信へのアプローチのつもり。 「ごまかさないの。私のことじゃなくてさ」 模試のとき、藤原義信が第一志望にしていた大学名と同じところを受けたのだ から。 「うーん、受けるならおまえと一緒のとこ」 よかった。これでもう少し幸せな日が続く。きっとこれまでどおりどうでもい い話をして一緒に学校に行くだけだけど。その無駄で贅沢で大切な時間がもう 少し延びるだけだけど。十分素敵なことだった。藤原義信と同じ大学にいける だけで私の大学生活は今のうちから退屈になることはない。私の感じる温かさ が少しだけ続いてくれる。自然とこぼれる笑い顔を藤原義信に向けた、はずだ った。 「ごめん、俺、就職するわ」 受けるなら一緒の、って言葉はもう消えていた。 ごめん、就職する。 聞いたことのないほどのきっぱりした決意が含まれていた。笑い顔のまま、と ってもばかな質問を向けていた。 「えっ、就職って」 違う。そんなこといいたくない。いいたいことはいっぱいある。 「毎日汗かいて仕事するのいいかなあ、ってさ。もう、家にも住めないし」 汗をかいて仕事。自分で生きていく、ということ。隣に立っている藤原義信が、 優しくて面白い、元気がとりえの藤原義信が社会人になる、ということ。頭が よくて、ときどききれいな言葉を思いつく、私の好きな男の人が一人で生きて いく。私とは違う世界にいってしまう。そんな残酷な決意がさらっと言い渡さ れる。 藤原義信の家が辛い状況にあるってことは知っている。近い将来、藤原義信の 両親は別れる。必死で間をつないだ藤原義信の気持ちも届かず。家庭で極度に 精神的な疲労を溜め込んで、登校中は私の楽しみで、学校では明るく振舞って。 その顔からは考えも就かないほどに大きなものを背負い続けた藤原義信が、一 人で生きていく。 街のよどんだ景色に雲間から光が差し込む。濡れた瓦が冷たく光る。そうして 街は光り、冷たさだけを私に与える。 「就職って、なにもごめんなんていうことないじゃない、おめでとう」 違う。そんなじゃない。 「それでさ、危険な仕事なの、どっか遠くに行くの」 そんなこといいたくない。就職なんてしてほしくない。おめでたくなんてない。 全然よくない。謝ることじゃないだろうけど、許せるものじゃない。私の、退 屈な時間が増えること。じれったくても当面が幸せだったらそれでいい。そう 思っていたのに、幸せも温かさも続かない。藤原義信の固く見据えた目を前に、 必死になっておどけて心にもない賛辞を送る自分が惨めだった。 「ごめんなさい、何も知らなかった。就職、するんだね」 雪の降る日には耐え難い別れがある。有紀という名前を捨てたくなった。そし てこの名前をつけた母を憎んだ。憎まないと親戚の家の温かさに安住してしま いそうだった。 安住してしまったら母に会えないから。だから雪を嫌い、母を憎み、街の冷た さに身を置く。今日も冷たい街をさまよって、温かい家に帰る。 電車が止まる。藤原義信は答えずに私と電車を降りる。改札をすぎて沈黙が続 く。二人分の靴音がやたらとうるさかった。靴音に思考が乱され、頭が混乱し ていく。 「仕事は庭の設計とか。この近くで働く。危険かどうかは知らないけどさ。今 まで黙って悪かった。でもおまえ以外の奴には就職の話ですらできないし。そ れより最近こんな本借りてな」 藤原義信の言葉に答えられなかった私が悪いのだろうか。あまりにも強引な話 題の転換にやりきれないものを感じる。私がいけなかったんだろうか。でもそ んなことなどお構いなく、藤原義信は「民話の系譜」と書かれた本を鞄から取 り出す。 「童話ってさ、地方が違っても内容が同じ、みたいなのたくさんあるだろ。そ ーいうのはどうやってできたかって感じの本。仕事するところの社長さんに貸 してもらってな」 藤原義信は読書家だ。私しか知らない、彼の秘密。ほんとは小説家になりたく て保父さんも向いている優しい人。文章を書かせると時としてはっとさせられ るような言葉を使い、子供が寄ってくると思いがけないような笑顔で迎える。 就職なんてしてほしくない。私が言っても聞いてくれないだろうけど。 あまりにもいいたたまれない気分を紛らわせるためだけに、藤原義信の出した 本をめくってみる。と、本についた折り目で手が止まった。 フェアリー・リング。そこにはそんなカタカナが書かれていた。 ……なんだったっけ。どこか、遠くで聞いたことのある言葉。遠い日、どこか で見た言葉。温かい、とっても気持ちいい物だった気がする。 「うちの社長さん、いい人なんだぜ。格好よくてさ。おまえを格好よくした感 じだ、ちょうど、って何するんだおまえ」 「この本、ちょっと貸しておいて」 本を奪って駆け抜ける。藤原義信の就職。どこかで見た言葉。一気にこれだけ のことが来ると混乱する。一気に走って、そのつもりだった。なのに袖が強く 引っ張られる。制服の引っかかった、そちらを向くと藤原義信の顔があった。 「おい、お前に少し話があるんだよ、とにかく聞け」 藤原義信が異様なまでに顔を近づける。 「明日、家の前で待ってる。学校休みだけどつきあえ」 真剣な顔だった。鋭くて強い目線。好きな人に誘われた、って気がしなかった。 だからこそ何の緊張もなく、うなずいていた。 |
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