|
母の胸の中
どれほどの時間がたったのだろう。穏やかな、優しい心地をもらっていた。 その場所はとっても温かくて安心できる場所。涙を流してもいい場所。わがま まを言っても許される場所。 帰ってきたんだ。そんな、私だけの場所に。私の長い、長い旅が終わった。 旅の始まりの風景をなぜか思い出す。母が笑顔で父から離れていく情景だった。 幸せに見える、この世で一番悲しい物語の始まり。その日から遠くに光る街 の灯はは、夜空の星と同じくらい遠くて、冷たいものになっていた。さわやか に、こぼれ落ちそうに笑う両親の間で生まれ、私は幸せに包まれていた。登る べき高みがが異なった二人が悪いんじゃない。母は、私に自分の一番好きだっ た人を残してくれた。そんなことにも気付かず母の一番大切だった人を独り占 めしてしまう私。 それから先もずっと幸せだった。母の愛した男の人を私一人、愛することが できて。自慢の父親と、温かい田舎の人たちに支えられて。熟れたトマトも、 秋の空に茜を彩る柿の実も、干からびそうなカエルも、もちろん友達も。たく さんの温かさが私の回りに会って、幸せだった。 知っている。母から託された大切な人を守れなかったのは私なんだって。父 を亡くして、その責任だけを母に背負わせて。悲しみを受け入れずに街にやっ てきた。新しい街でもたくさんの暖かさが私を包んでくれていた。幸せの中に、 拒絶した幸せの中にとらわれようとする。気がつけば、ずっと私は幸せだった。 「お母さん、ごめんなさい、私ずっと幸せだった」 不幸なんてなかった、どこにも。だから続ける。 「物語の最後は、ハッピーエンドなんだって、お母さん、言ってくれたもの」 まだまだ涙の残る顔を腕でぬぐう。幸せなんだから泣いちゃいけない。私は、 生まれて初めて。母を求めた。手を伸ばして。 母が私をそっと起こしてくれる。母の細い腕が私の肩を抱いてくれる。力強 くて細い腕で。この細い腕で、一人頑張ってきた。愛する人の力も、娘の力も 借りずに。誰に褒められるわけでもない損な役回りをしてきた。この力強さで、 ほんとうはずっと子どもを守っていきたかったんだ、と今ならわかる。それで も目指した自分だけの高みを目指した母を立派に思う。 おぼえていないはずの遠い昔。母の胸に抱かれたような気がする。きっと今 と同じくらい強く抱いてくれていたのだと思う。何があっても絶対に離さない くらい強く抱いてくれていたのだと思う。だから、ずっと心のそこで分かって いたことを言葉にしてみようと思う。 もしかしたら。父は母が願いをかなえるまで私を預かってくれていたのでは ないだろうか。いつの日か、母と一緒に暮らすことができるように私を育てて くれたのではないだろうか。子供がいては力を出し切れない母の夢をかなえる ために。単純に離れて暮らしていただけ、とか。 聞くのは野暮だ。 母の胸の中は気持ちよくて、涙はすぐに止まる。とても落ち着いた気分にな る。 背中は冬服を通してでもわかるくらいに濡れている。どうやら母の胸は泣き 止むのに最適だけど、娘の背中は泣くのに最適らしい。ほんと、どっちが母で 娘なんだか。いい、私はどこまで行ってもこの人の娘なんだ。だから人の泣け る場所にもなろう。 「有紀、一緒に暮らそう、ほんと今更だけど」 幸せなんてそんな簡単に手に入るものじゃないけれど。母の声が温かく残る。 ここから始めよう。あまりにもつたない家族ごっこから。やがてほんとうの家 族になるように。ゴールはないけれど、ここからスタート。どこまでも、高み じゃなくていい、同じ場所へ。 「お母さん、明日卒業式なんです。それでね」 話したいことはたくさんある。何もかもがこれから。 母一人の道。私一人の道。今、私は宣言する。 一緒に歩いていこう、って。 |
||