誕生詩 -学校祭-

第41話 5月13、14日(木、金)

 冷めた紅茶を温め直して、二人で飲む。交わす言葉は二言三言。静かな時間
だけが過ぎる。ちなみにあまりにあれな感じに押し倒し、抱きつきあっていた
ことにはお互い触れないことにした。俺が恥ずかしければ、新島にとっては一
生封印しておきたい思い出なのかもしれない。
「そろそろ帰るようにしろ、新島」
 部屋の中の暗さに気づく。ほんの少しだけ首を傾げた新島が立ち上がり、玄
関へと進んだ。
 二人、道を歩く。丹沢と歩いた通学路を、丹沢と乗った電車をたどる。
「新島。一つ教えてくれ」
 どうでもいいことが気になった。
「話すときは私の目を見てほしい、私、少し耳が聞こえにくい、だから」
 意外だった。新島の耳が悪いなんて予想すら出来なかったのだ。もしかする
と授業中微動だにしないのは、それなりに教師の言葉を拾おうとしているから
かもしれない。
「それでお前、公演に来てくれたんだよな。なんでだ」
 そもそも新島がなぜ、俺に関心を持ったのか。
「千島さんがチケットをくれたから、だから」
 千島が公演チケットを持っていたことも気になるが、新島の返答も正確とい
えば正確、的外れといえば的外れである。まあいい、この話題は次の機会にで
もおいておこう。
 学校から川を越えて新島のアパートの前に立つ。
「見てて」
 新島が扉の前でつぶやく。一呼吸置いて左手をドアノブ、右手を郵便受けに
突っ込む。右手を上に押し上げ、左手でドアノブが飛ばん勢いで引っ張る。
 ものすごい音がして、天井から塗料の破片が落ちてきた。それを確認した後、
新島は一気に左手を下手に引っ張る。扉が開いた。
「扉の開け方。閉めるときは押しこめば大丈夫」
 鍵の要らない理由も、廊下に散らばる天井のかけらにも納得がいく。試行錯
誤をすれば開く。そんな千島の声がよみがえる。
 どこが試行錯誤だ。これは試行錯誤ではなく力技だろう。
「ああ、機会があればそうやって開けさせてもらう」
 投げやりだ。家一つ入るのにこの根性とは、ありえない。
「それじゃ、また明日な」
 新島が頷く。そして
「また、明日。学校で」
 少し弱いがしっかりとした声だった。アパートを振り返った。二階の千島の
部屋にはまだ明かりがない。

5/14
 朝、丹沢は現れない。自分の選んだ道を後悔しない、と言い聞かせて一人の
道を登校する。丹沢の姿に隠されていた風景がただただ新鮮で、そしてからっ
ぽだった。
 教室に入る。丹沢は来ていない。そして人の増える教室の中に、新島一人。
少しだけ首を下げたようにみえる。挨拶、してくれたのだろうか。やがて丹沢
が来て、一瞬だけ俺に目を向けた後隣の席の生徒と話を開始する。朝っぱらか
ら教師に追い掛け回された吉岡が教室に逃げ込み、袋小路のまま連行され、そ
んなありきたりの始業時間前が過ぎる。珍しくスカートのすそを泥で汚した千
島が植物園から戻り、なんとなく教室が静かになり、なんとなく授業を受ける
体制ができ、教室が静まり、
 そんな中。千島は席に座らず教室の対角線上から声を上げる。それは日常で
はなかった。
「橘。昼に植物園へ来い。話がある」
 教室にざわめきが走る。
「何したんだよ。お前絶対殺されるぜ」
 吉岡だった。普段なら聞き流すそんな言葉が許せなかった。
「違うだろ。お前どれほど千島さんの世話になってそんなこと言えるんだ」
 吉岡ではない。このクラス全員に言ってやりたかった。どうしようもない孤
独を抱えた人間を助けたかった。
「橘。別に気にすることじゃない。私に責任」
 俺の言うべき言葉を千島が制使用とした瞬間。
「違う」
 断じて俺ではなかった。その声の出所がどこなのか、わからなかった。教室
で聞くことのないその声。コアラが鳴くほうがまだしも確率の高そうだ。皆の
注目するその中心には、新島がいて、
 いつもどおりつまらなさそうな顔を黒板に向ける。千島ですら呆然とする時
間の中、一時間目の教師が教室に入り、授業が始まる。

 昼休み。パンを買って吉岡の分を教室に投げつけ、植物園に走る。植物園に
は既に千島の姿があった。小さな花の前で座り、何かをノートに書きつけなが
らパンを口に運んでいる。隣には一回り大きなパンの包み。軽く五個は入って
いそうだ。俺の方向を振り向きすらせず、口のパンを丸のみ。食べる量も一桁
違う。
「遅い。授業中に買いに行っていただろう」
 教室に寄ったとは言え、なぜ俺より早くここにいるのだ千島。千島の隣に座
り込み、俺も食事をとる。パンの口を開ける。
「で、キスくらいはしたか」
 むせ返った。
「あ、あのな、千島さん」
「ん、まだなのか」
 突然食らいつく。
「ああ、まだだ。というか俺にそんな経験はない」
 なかなかに激しく抱きついてしまったのだが。
「ほう、それはよかった。実は私もないんだ」
 そのとき初めて千島が俺に顔を向ける。想像したこともない笑顔だった。
「何でいいんだよ千島さん」
 目をそらす。そんなときの千島はものすごくかわいかったりする。
「気にするな。それより昨日の話を聞かせてくれ」
 千島らしくないはぐらかし方と浮ついた言葉に違和感を覚える。
「わかった、千島さんには言うべきだろうな」
 強引に違和感を断ち切り、お互いに情報を交換する。新島が音楽と触れ合っ
たときのこと。新島が音楽から離れたいきさつ。そのあたりを全て。
「あの子を幸せにすることが私に出来ることだと思う」
 全てを聞いて、それでも千島がそう言う。
「新島には幸せになって欲しい。なぜだかそう思うんだ」
 何もいえなかった。きっと、千島は自分の幸せを新島に重ねている。
 千島の顔を見る。その視線は依然、小さな身体の割に大きな花をつけた植物
に向けられていた。空を向き、青色の袋状の花をつけ、細い毛に覆われた花に。
孤独で、孤立しているくせに、誰よりも集団の温かさを求めているようだった。
なんだか千島のようだと思った。
「千島さん、そこの花、なんて名前なんだ」
 優しい目をした千島にそう聞いてみる。
「なぜそんなことを聞く」
 予想外だった。花の好きな人ならいくらでも教えてくれると思っていたのに。
「いや、気に障ったら悪い。きれいだと思ったから聞いてみただけなんだが」
 千島の頬が少しだけ赤くなる。
「別に知って聞いたわけではないのか、ならいい」
 優しい目を俺に向けて
「その花はチシマギキョウ。私と一緒の名前だ。自分で言うのも何だが、この
花は一番の お気に入りなんだ。他にもイワギキョウとアポイギキョウがある。
ちなみに隣がアオノツガザクラ。奥がチシマフウロ、そっちがトチナイソウ、
これは非常に珍しい。左奥がおなじみのコケモモだ。それからガンコウランも
あるが、これはどこでもおいておけば生えてくる。むしろ除草すべきかもしれ
ない。この辺の生態系を乱しかねない」
 語り続ける。自分の名前に少し恥ずかしさを感じたのだろうか。ものすごい
勢いで解説を始める。十五分、延々と語り続ける。心地よかった。好きなもの
を語る千島は論理的でもなんでもなく、子供をいつくしむかのようにやさしく
花を見つめ、魅力を全て引き出すかのように語る。
 丹沢の言ったことがわかる。本来、千島は争いの中に身を置く人ではなかっ
た。純粋な科学と感情の間をさまよう、陽炎のような精神。
「……これが果敢なる誇りの代わりに失ったものか」
 そんな気がした。
「ずっと、こうやって話してみたかったんだ。橘が初めて、私の話を聞いてく
れた。退屈だっただろう。悪かった」
 質問には答えず自嘲気味に笑う。
「いや、俺もこうやって話し合いたいと思ってた」
 ずっと昔。そんな約束をした気がする。
「橘、まあいい。明日は全体練習の最後だが、新島はどうする」
 視線をそのままに俺へと言葉を向ける。新島は言った。俺のためなら演奏す
る。そういった。
「ああ、絶対に参加する」
 千島が立ち上がり、強く笑う。これでいい。もう、十分に話し合った。パン
をやっつけて植物園を後にし、教室へ向かおうとする、その俺に。
「橘。言い忘れがあった。そのままでいいから言わせてくれ」
 千島の声がそれほどまでに凛と響いたのは初めてだった。距離五メートル。
向き直る。
「朝は、ありがとう。その、とても嬉しかった、お前が」
 下を向いて何かを付け加えたその言葉は俺に届かず、三年間育て上げた植物
だけが知る。
「今更だけど、俺、千島さん好きだぜ」
 そんな言葉しか言えない。俺は知っているから。千島の孤独も弱さも強さも。
だから。それ以上の理由はない。
「ほんと、今更だな」
 それだけの会話。爽やかな桜満開の大気の似合う風が、長い千島の髪を流す。
 戸惑いはない。俺は、俺の進むべき道に進む。

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