私の家族は年の離れた姉だけだった。両親なんていない。姉だって血はつな がっていない。でも、姉は私のことを大切にしてくれた。姉は優しくて格好い い男の人と付き合っていた。結婚していたのかもしれない。お姉ちゃんは音楽 の好きな人で、だから付き合っていた男の人も音楽をやっていて、私は小さな ころからドラムセットに触っていた。私がドラムセットを練習すると姉と男の 人がほめてくれた。自分の覚える音が新しい音を作っていくのがうれしくて、 刻む音が楽曲の全部を作りあげていくことの素晴らしさを知った。音楽ってずっ と続いていくものなんだって思った。それは間違いなく幸せな日々だった。中 学の間は毎日一人でずっと練習して、高校に入ったら絶対誰かと音楽をするん だって思っていた。バンドを組んで、私がリーダーになって作曲をして、たく さんの人に聞いてもらいたいって思っていた。そんな夢を男の人も、姉も、た くさんの友達も受け入れてくれた。それが幸せで、何の嘘もなかった頃。 今でもそう思っている。偽りじゃなかったって。 高校の進学先は選ぶまでもなかった。お姉ちゃんの卒業した学校。大好きな 姉の出身校に決めた。それにお姉ちゃんの知り合いの高校の先生が教えてくれ た。今年、立派な音楽の先生が入ってくる。名前は坂本玲子。坂本講師のこと。 高校はとてもいい成績で合格した。高校には楽しいことしかないって思って いた。 新しい制服に袖を通した入学式の前日、千島さんと出会った。背が低くて、 髪の毛が短くて、暗いけれど意志の強そうな人だった。新入生の代表のはずな のに、千島さんは悲しそうな顔をしていた。鬱陶しいから元気付けてあげよう と思った。千島さんはそのことを感謝しているけれど、ほんとうは逆。私の近 くにいる人が浮かない顔をしているのが迷惑だった、だから。帰り際に喫茶店 で随分話し合った。会えてよかった。そういうと千島さんはとてもいい笑顔に なっていた。ああ、この子も私が少し触ったら変わるんだ。よかった、世界は 私の思い通りになる。 千島さんと別れて、家に帰って扉を開けた。荷物を置いて、椅子に座った。 一日の心地よい疲れに鼻歌を歌いながら大きく伸びをした。 後ろから男の人が現れた。それで突然肩をつかまれて床に倒された。びっく りして身体なんて動かなかった。言葉も出なかった。首に体重をかけられて、 意識が消える前に分かった。 お姉ちゃんと付き合っている男の人だった。 お姉ちゃんが好きで、私が好きで、とっても優しいはずの、私に音楽を教え てくれたその人が、なぜ私にこんなことするのだろう、って。 そのとき偶然お姉ちゃんが帰ってこなければ私はきっと死んでいたと思う。 お姉ちゃんは私の身代わりみたいに男の人を突き飛ばして、大好きなはずの人 に首を締め付けられていた。何度もやめてと繰り返していた。言葉が聞こえな くなって、姉が意識すらなくなっているって分かっていたのに、私はただそれ を見ているだけで。口から血を流していたのに。床に姉の頭が打ち付けられる たびに、身体がせりあがって。 私の代わりになって痛い思いをする姉がいた。血が目の前に広がって何もか もわからなくて。姉の泣く声も、男の人の声も、自分の呼吸する音も聞きたく なかった。憎いだとか、そんなことではなくて、思い通りじゃない世界が許せ なかった。私にできることは全部終わらせることだと思った。だから 終わらせることにした。右手にドラムスティックを持って、男の人を冷静に 観察して、わき腹を突いた。絶対に死なないように、殺さないように傷つけて やれって思った。とても気持ちよかった。男の人が悲鳴を上げるほどに満たさ れた。 気がついたら右手が真っ赤に染まっていた。男の人が血溜りの中に倒れてい て、離れた場所で姉が壁に寄りかかって動かなかった。 警察の人が来て、姉と男の人が病院へと連れて行かれた。男の人はたくさん の骨が折れていて、いつ死んでもおかしくないって言われた。姉も、男の人も いなくなってたった一人になった。 初めて自分のやったことに気づいた。心の底から楽しんで人を痛めつけた。 自分が人を殺そうとした家には入れなくなった。自分が凶器に使ったドラムス ティックは握れなかった。 行き場所も、よりどころもなかった。そんなとき、一人の人を思い出した。 千島さんだった。たくさん出会ってきた人の中で、私があれほどにまでに邪 な気持ちで言葉をかけたのに、感謝してくれたのは千島さんだけだった。千島 さんだからこそ、全部分かって感謝してくれたのかもしれない。 千島さんは私のためにいろいろとがんばってくれた。何も聞かず住む場所を 手配して引越しも手伝ってくれた。家賃も学費も払ってくれている。学校にも 毎日ついて行ってくれる。 二年生のとき、一人で音楽室に入った。ほこりをかぶったドラムを見つけた から。一年たったのだから触れる、そう思った。けれど、触ろうとした瞬間、 息が出来なくなった。赤くなった自分の右手を思い出して、吐いた。鞄の中に 入れていた楽譜に火をつけて、怒られた。坂本講師に出会い、ようやくドラム に触れる用にまで戻ってきた。でも私はずっと孤独で。 「姉も男の人も病院にいる。多分、これからもずっと」 話の途中か終わりか、そんなことは知らない。握っていた拳を床に突く。 新島も俺と同じだった。千島と寸分たがわぬ宿命の中にいた。 絶対逃げない。 だから新島の肩を抱いた。かつてその場所にかかった手が新島の人生を変え てしまったのだ。それならば俺だって変えられる。 新島の細い肩に壮絶な力がこもる。 「っく」 小さな悲鳴と共に爆発的な反発を受ける。あばら骨の間に新島の中指が刺さ る。 呼吸が止まった。身体の奥からしびれるような痛さ。和らいだ腹筋に容赦な く拳が入る。腹の真ん中、重いものが落ちる。呼吸すらも乱れ、言葉にすらな らない嗚咽と悲鳴が聞こえる。 「止まって、殺す、殺すから」 それは新島の理性が豹変する自分へとかけている言葉だと分かる。だから 「俺は離さない。絶対だ」 言いながら限界に達していた。喉仏を本気で握りつぶしにかかられ、意識が 一瞬飛ぶ。急所だけを狙う新島の圧倒的な力に血でも吐きそうだ。息をついた 瞬間、あごの下に左肘が決まり、腹の力が抜けた瞬間に右肘に体重をかけられ る。内臓を全部吐き出せそうな勢いだった。 このままでは本気で殺される。手を離すべきか。それとも諦めるべきか。 一つだけ方法がある。それにかけることにする。 新島の肩をつかんだまま、一瞬力を抜く。こうすれば新島はとどめの一撃を 入れる溜めに入るだろう。そして溜めた拳を振り下ろす瞬間、ためらうはずだ。 その読みに賭ける。 瞬間、新島が右手を引いた。 一つ目の読みがあたった。次の瞬間には拳が飛んでくるだろう。首に入れば 重傷は免れない。この瞬間に残っている力を全部使う。 二つ目の読み。新島は絶対に容赦なく振り下ろしはしない。新島の理性がそ れを押しとどめる。 あたった。 新島の左足を両足で固め、わき腹をひねる。一気に上下をひっくり返し、新 島の肩を床に押さえ込み、全体重をかける。どうみてもあれな犯罪っぽい体勢 だが、構っている暇はない。制服のボタンなどとっくに吹き飛び、鼻血が新島 の顔にたれる。意識すら半分消えかかる。 一気に全力で新島を押さえつける。 「俺がお前を変えてやる。過去なんて知ったことか」 新島の力が消えていた。うつろな目が俺の顔に焦点を結ぶ。ここから先は、 身体が持つまでのサービスタイムだ。抜けていく力が重力に負けつつある。 「俺がお前を笑わせてやる。殴り倒してでも元通りにしてやる。かかって来い 新島。お前の本気など俺が本気で殴り倒してやる」 思いっきり強がりだった。自分の体重を支える力すら消え、新島の身体に倒 れこむ。 とても温かかった。それだけで痛みが消えるような気がした。 俺の胸の中にすっぽり収まって下敷きになった新島が、俺の身体の下で泣い ていた。 振り絞る最後の力すら使い果たしたつもりだったが、何とか新島の身体から 離れようと努力する。 無理だった。 新島が俺の背中に手を回していた。鼻のひっつきそうな場所に新島の顔があっ た。 「過去なんて関係あるか。千島さんが生きているんだ。俺たちが生きていなく てどうする」 世界一思い運命を背負った千島が生きているのなら俺は千島の最期を看取っ てやる義務がある。千島を元気付けた新島と、新島のとびっきりと笑顔を見て みたいから。 明かりをつけない部屋が真っ暗になって、鼠色の影が口を開く。 「私、怖い。自分が怖い。みんなの前に立ってみんなを壊してしまう、私が怖 い」 涙に鼻水にその他もろもろで見られない顔になった新島にタオルを差し出し 、俺の鼻血で汚れた顔を拭く。 「甘えるな。クラスに入りたけりゃ自分から扉を叩け。お前が戦うなら援護し てやる。笑う奴がいたら俺が相手になってやる。弱いけどな、俺」 学校祭三日前の、春の日だった。 「私の演奏、助けてほしい」 それだけで十分だった。新島が俺のためにドラムチェアに座るなら、それで いい。遅すぎるスタートが今、切られた。 |
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