新島を寝室に寝かせ、丹沢が濡れタオルで新島の身体を拭き、その間俺がお 茶を入れる。何かと緊急事態が一段落し、丹沢が一気にお茶を飲み干して、湯 飲みを勢いよく机に叩きつける。 「ったくね、千島さんも千島さんよ」 新島の話だと思ったのに。 「千島さんがなんだ」 全く予想していなかった人物の登場に驚く。 「私にだってそうよ。今日は私が監督するからさっさと帰れ。橘の家の前を通 れって言われちゃった。今日のことだってどうせあんたのために今日の練習、 なしにしたんでしょ」 息を呑む。 「よくわかるな」 能天気で直感に優れた丹沢に小細工は通じない。 「分かるわよ。二年も一緒なんだから。しかも幸一、正直に答えなさい」 怒る風でも、なんでもなく。ほんの少し優しそうに笑う。 「昨日、千島さんに泊めてもらったんでしょ。私、それくらいすぐにわかった」 もう、何もかも嘘をつく必要なんてない。俺のことを誰よりもわかっている そいつに。 「ああ、正解だ……あれか、千島さんの匂いでもしたのか」 一応理由を聞きたかった。 「それもあるけどね。ま、千島さんの浮ついた顔を見れば馬鹿でもわかるわよ。 ほら、昨日のことをさっさと吐いちゃって」 なぜ千島の顔でそんなことが分かるのか見当もつかないが、昨日のことを話 す。新島のこと、音楽のこと。 「私、新島さんが音楽できるってずっと前から知っていた」 丹沢が笑う。 「お前、新島が嫌いって」 「いつも幸一が音楽室で何してるか外で聞いていた。ずっと幸一の心の中に入 れる瞬間を見つけようって思ってた。新島さんの演奏も聞いた。昨日のドラム もね」 昨日、開きっぱなしだった音楽室の扉の謎がとける。そして何一つ分かって いなかった俺がいて。 「じゃ、お前、新島は」 「新島さんは大嫌い。だって、この子、隙さえあればあんたばっか見てさ。そ ういうのって腹立つの。自分の思っていることも口にしないでさ、ばかじゃな い。そのくせ技術があれば幸一の心の中に一瞬で入れる。卑怯だと思う」 言葉に詰まる。新島の視線なんて全く気づかなかった。新島の視線といえば 黒板以外に向かっているところを見たことなんてなかった。音楽の時間、楽譜 を起こせるほどに見ていた事にも気づかなかった。そして、新島の目線を丹沢 が追っていることも知らなかった。 「俺の心って」 笑顔が言葉を遮る。 「でも、それって私と一緒って思うとね。自分にも腹が立って」 俺はどれほどのことを理解していなかったのだろう。丹沢のことにも、新島 のことにも、そして千島のことにも気付かず。 「ね、幸一。言わせてほしい。私は幸一に思いを伝える。絶対に届かないこと は分かっている。でも私は新島さんとは違う。技術も取り柄もない。これが私 の誠意だと思う」 全力で投げてくる。全力で受け止めてやろう。 「もう、学校祭が終わったら音楽やめようよ。私と同じ大学にいって、ずっと 付き合っていこう。できれば恋人同士でさ。幸一は弱いから、頑張らなくてい いから。私が支えになれるから」 直球だった。これが来るのはなんとなく分かっていた。 思い返す。三年間、無駄で贅沢な時間をずっと過ごさせてもらった。その笑 顔に嫉妬し、鬱陶しく感じた。いつも一緒に登校する時間が宝物のようだった。 粗暴に見えるけれど繊細な気遣いを知っていた。修学旅行の夜、二人で回る夜 の街はほんとうに楽しかった。傷つけ、それでも一番に頼りにして身体を任せ られる相手だった。俺のことをきっと誰よりもわかってくれていた。そして、 そんな複雑な、誰よりも複雑な目を俺に向けていたことを知らなかった。気付 いてやらなかった。報いてやろうとも思わなかった。毎日のどたばたに全てを 隠していた。そして。 ここにきて直球だった。申し分のない球だった。三年分の後悔と、これから に向けて全力で振りかぶる。後悔はしない。たとえ 「断る。俺はこれからも音楽をする。新島に演奏させてやる」 丹沢を傷つけようとも。俺は音楽をやめない。誰かを傷つけても、俺は自分 の道を通す。これで全て終わる。丹沢を傷つけることは二度とない。 沈黙が続いた。それは長い、長い沈黙だった。そしてそれはほんの少しの笑 い顔に遮られ 「あーあ、せっかくのチャンスだったのにね。ほんと、ばかみたいね。うん、 幸一から音楽取ったら何も残らないから、当たり前か」 違う。きっと昨日、新島と出会わなかったらその言葉を受け入れていただろ う。丹沢が笑って立ち上がる。ゆっくりと、鞄を手に持ち。 「じゃ、私帰るね」 抜けるような笑顔だった。 「悪いな。せめてもそこまで送るぜ」 みじめだった。 「いいよ。せめて笑ってここを出させてくれたら十分だから」 背中を向けて立ち上がる。俺も、決意しなければならない。 「もう、明日からは一人で大丈夫。お互い頑張りましょ。それから新島さんを よろしく、ね」 握手はなかった。丹沢が家を出る。その背中に言葉をかける。大事な一言。 「ありがとう。クラス会のお前の一言で俺は本気なれた。それに、丹沢の笑顔 はうれしかった。丹沢は十分に俺の中に入っていた。丹沢には演劇があって、 俺には音楽がある。お互い、自分の道を行こう」 そして扉を開けた丹沢の肩を押してやった。 「お互い、自分の道を行こう、か。ずっと前もその言葉聞いたな。それで幸一 を好きになったんだ、私。つくづく幸一は卑怯ね」 背中を向けてそう語る。丹沢が歩く。 振り返って、俺に手を振った。 振り返してやった。大きく、これ以上ないほどに手を伸ばして。姿が見えな くなるまで振った。丹沢は丹沢の道を、俺は俺の道を。長い三年間だった。多 分長いであろう人生のその一時を丹沢と過ごせたことに、このうえなく楽しい 時間を過ごせたことに感謝する。悲しいわけでもないのに、ほんの少し泣きそ うになった。 大切な人に振られた、そんな気がした。 部屋に戻る。 新島が上半身を起こしていた。目の合った瞬間、さっと顔を伏せる。 「起きて大丈夫なのか」 返事はない。逃げるわけでもなんでもなく、新島が言葉を待つ。無表情に、 だが諦めたわけではなく。威厳に満ちていた。一瞬ひるみかける心を強く持つ。 覚悟を決めたはずだ。根性を示せ。 「新島。俺はお前に謝らない。その代わり約束を果たしてもらう。いいな」 その先を続けろ。 「お前のドラムが好きだ。演奏も、音も、演奏する姿も好きだ。お前には音楽 がある」 俺を見る、二つの瞳に言え。 「俺にも音楽がある。連れ立て、俺と」 詰め寄る。にらみ合う。無表情な顔が次を促す。 「演奏しない理由を教えろ。俺がその理由をつぶしてやる。クラスが嫌いなら 見返してやれ」 言い切った。 沈黙の瞳に色が宿る。見返す。唇を噛み、一瞬だけ下を見た新島が顔を上げ る。 「お話はもう終わり、なの」 向けられた瞳に俺の姿が映る。 「わかった、聞きたいなら言ってもいい、でも」 新島の口調が変貌する。心臓すら凍りつきそうな冷たさが走る抜ける。 「言い終わったら、殺すから」 それが本気なのだろう。 「いいぜ。新島にできるものかどうか、やってみろ」 そして新島は始める。その言葉を。 |
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