誕生詩 -学校祭-

第38話 5月13日(木)

 教室に入った瞬間、千島は植物園に向かい、一人取り残される。一応目で新
島の席を確認する。今日は絶対に埋まることはないだろう。
 するべきこともなく、そこかしこから聞こえる演劇の練習に少しまどろむ。
さすがに寝不足らしい。
 首を掴まれて起こされた。丹沢だ。
 時計を確認する。時間は一時間目終了。
「幸一、あんたね。いつのまに学校に行っていたのよ」
 怒りのきわまった丹沢がうなる。髪の毛すら逆立ちそうな勢いだった。そう
か、俺を待っていて遅れたのだろう。臨戦態勢の丹沢が危険な距離にまで歩み
寄る。どうも昨日から命の危険を感じる瞬間が多すぎる。遺書の冒頭部分を脳
内に用意する。
 恥ずかしい人生を送って
「いいから殺される前に死になさい、気合入れて息を止める罰ゲームよ、ほら」
「待て、話せば長くなるんだがストップ口と鼻押さえないで死にます」
 丹沢流のおふざけかと思った。だが、丹沢の手から力が抜ける。ものすごい
至近距離で丹沢が俺を捕らえて離さない。
「幸一、昨日はどこに泊まったの」
 丹沢の目が真剣だった。
「なんでそんなこと聞くんだよ」
 泊まったなど、一言も言っていないはずだ。追及されたところで説明するの
がこのうえなく面倒くさい上に、仮にも同級生の女子生徒の部屋に泊まりまし
た、などとは言えるものではない。とりあえずの言い逃れを用意。
「学校で泊まったったってこんな匂いしないもの。言いなさいよ。人を散々待
たせて何やってたの」
 そのままの体勢で俺の顔を見る。顔を突き合わせること十秒。
「わかった。もういい。言えないならいい。でも。これだけはさせて」
 首筋に衝撃を感じた。意識の消える直前。
「外泊の制裁よ」
 靴の裏が見えた。
「今日は青、か」
 吹っ飛んだ。

 一日がいつもどおり過ぎ、放課後に突入する。朝の千島の言葉が思い出され
る。今日はまっすぐ家に帰れ。どういう意味だろうか。演奏の練習を早めに切
り上げろということだろうか。
 そのとき俺は今日の練習計画を考えていた。
 そのとき吉岡はカレー味のウンコについて語り、袋にされていた。
 そのとき丹沢は昼食に食べ残したパンをほおばっていた。
 そのときは誰のもとにも平等にやってきた。
「すまない、謝らなければいけないことがある」
 終礼直前の弛緩しきった教室に緊張が走る。俺の頭がずり落ち、吉岡の奇声
が教室で浮きまくり、丹沢がパンを口から突き出してアホ面を向ける。
 そしてその視線の先には千島がいた。
「今日は音楽室を確保できなかった。本日の演奏組の練習は取りやめ、演劇組
の練習を見ておいてくれ。多分良い刺激になるはずだ」
 千島が深々と頭を下げる。教室から話し声が完璧に消える。教室に入りかけ
た担任ですら一度外へ退散する。だが教室の誰よりも俺が固まった。今日の音
楽室の予定なんてとっくの昔からがら空きだ。千島が俺にそんな話を振ったこ
となどない。考えられることは一つ。教卓で頭を下げる千島はただ俺を帰らせ
るためだけに嘘をついた。今日の朝、千島は確かに言った。寄り道せずに帰れ、
と。意味は分からないがそれは千島にとって重要なことなのだろう。ただ、俺
の方向など一切見ようとせず一人で事態を収拾させてしまう。魂の抜けた終礼
が始まり、機械的に連絡事項が伝えられ、機械的に全てが終わる。
 終礼が終わった瞬間千島に駆け寄った。
「千島さん、どういうことだ。まさか朝の」
「演奏組の和を保つのは私の仕事だ。わかったら」
 床に置いた俺の鞄を千島が拾い上げて差し出す。
「私の仕事を無駄にしないでくれ。橘の仕事はここにはない。すぐに自宅へ向
かえ」
 返事を返す暇すらなかった。腕にかかった自分の鞄の加重を確認したときに
は千島が身を翻し、丹沢に何かを言っていた。
 千島の仕事を無駄に出来るわけがない。
 電車に乗り、通学路を急ぐ。千島が俺をここまで急かすのなら、それには理
由があるはずだ。走った。電車に飛び乗る。駅を降りて土手の上を走る。

 そして、家の前。
 制服を着た、その人。新島、亜紀が立っていた。

「新島」
 玄関前に立ち尽くす。昨日千島が返したという制服の上着を着て、頼りなげ
な足をスカートから覗かせて、何も入ってなさそうな鞄を両手に抱えて。肩ま
での髪の毛を太陽の光に透かして。世界が、そこで閉じていた。
「ここが、よくわかったな」
 ここにいることが当たり前な、そんな気がした。
「入ってたから、中に、だから」
「え」
 どうしてここにいるのか、という俺の問いに突然言葉が返される。新島が何
とか言葉をつなげようとする。
「住所」
 思い出した。
「住所、教えてくれた。ペンで書いて、ポケットに入れてくれた、来いって言っ
ていた」
 そして俺は約束させた。ここに来て、演奏をしろ、と。
「とにかく入っていけ」
「いい、さっき来たば」
 そこで言葉よりも先に身体が動いた。新島の身体が崩れかけたから。地面へ
と崩れる瞬間、力の抜けた新島の全体重が腕にかかる。
 腰が抜けるかと思った。
 女の子が軽い、というのは絶対に嘘だ。あんなものマンガかゲームの中だけ
に決まっている。細身の新島ですら抱えてしまうと動ける気がしない。新島は
普通の体型である。少なく見積もろうとも四十の後半はある。普通の生活では
持つことのない重さだ。ちなみに俺が六十の後半。俺一人を担ぎ上げた千島は
人間より筋肉が三つほど多いに違いない。体勢を立て直し、しっかりと抱えな
おす。とりあえず家の中に。そこで気付く。
 両手が塞がっているのにどうやって鍵出して開けるか。
 選択肢が現れる。
 一度地面に寝かせるか。
 このまま踏ん張るか。
 くそ、二択か。
「あれ、幸一、ってあんた」
 背後からその声が聞こえた。聞き間違えるはずもないその声。丹沢だ。振り
向いた。
「た、丹沢、これはその、まあいわゆる」
「いいから幸一、開けてあげるから鍵の場所教えなさい」
 両手の塞がっている手前、そんな言葉がありがたい。
「ポケット、右ポケットだ。手、突っ込め」
 丹沢が手を突っ込む。
「これね、この」
 ぐに。
「あ、ぐゎっ、てめえ、それは鍵じゃねえよつかむ」
 丹沢が握りつぶす。両手が塞がったまま悶絶する。泣きそうだ。
「……あんたの位置が悪いんでしょ。何で右曲がりなのよ、この」
 掴みにかかる。圧死寸前まで追い込まれる。三日間は使い物にならなさそう
な痛みが走る。意識が遠のきかけた瞬間、ようやく丹沢が鍵を探し当てる。他
人にポケットの中身を突っ込まれる微妙な感覚に、腕に答える新島の体重に、
暴れまわる丹沢に。家の中に入ることができたのは、丹沢発生十秒後くらいな
のに、疲れ果てた。

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