誕生詩 -学校祭-

第37話 5月12、13日(水、木)

 青光荘。新島の住むぼろアパートである。何度か見送った新島の姿を一瞬思
い浮かべ、腹に力を入れて新島と書かれた玄関の前に立つ。すぐ隣の柱が途中
で半分腐っているのが見える。相変わらず倒壊しないほうが不思議である。剥
げ落ちたペンキに天井の剥離が若干怖い。
 扉をノック。
「新島、開けろ。とりあえず制服を返しにきたぞ」
 最初から気体はしていなかったが、返事はない。変化球に切り替える。
「俺だよ俺、制服の振込みにきたんだよ」
 手すりに止まっていたスズメが飛び立ち、カラスが鳴く。
 ノーストライクツーボール。まだまだ球は投げられる。次はカーブだ。渾身
の力で扉を叩く。
「開けんかいわれ。夜道の制服に気をつけあがれこんちくしょう」
 死球だった。あきらめて素直に待つことにする。新島の豹変にどんな理由が
あれ、俺は新島という人が欲しい。だから、腹だって括っている。
 二時間が経過する。途中で何度か呼びかけたものの返事がない。さすがの退
屈に任せ、アパートの敷地をうろつく。壊れかけの手すりにさびきった階段に、
割れたコンクリートに落ちてきた屋根瓦が散乱していた。一見、単なるぼろア
パートだが、しばらく見ているとそれが間違いだと分かる。共用の風呂は丁寧
に掃除され、廊下は丁寧に掃除されている。道路前の植木も感性豊かな作りを
していて、単なる雑草園というわけではない。あちこちに住人の善意的な塗装
の塗りなおし、壁の塗り替えが見られる。掲示板には共有部分の掃除当番表が
張られ、千島と新島も名を連ねている。回覧板も見える。曰く、猫を譲ってく
ださい、ごま油譲ります、酒、仕込んでみました密造とか言わないで。今度は
屋根の修理です。各自の負担は追って連絡します。誰もが触れ合わない程度に
肩を寄せ合って暮らしていた。このアパートで千島と新島が暮らし続ける理由
が分かったような気がした。
 すっかり暗くなった空の下、コンクリートの上に座り込む。細かく剥離した
破片は天井の塗装だろうか。川向こうに見える明かりがきれいだった。この都
会にあってここだけが孤島のように暗く、物悲しい。全体練習の疲れにいろん
な思いがどっとあふれ出た。

5月13日(木)

 最初に気付いたのは匂いと久しぶりの暖かさだった。身体も温かくて気持ち
いい。爽やかな風が顔を撫でる。気分よく目を開けた。
 見たこともない天井だった。別に真っ白、と言うわけではないから病院では
ないのだろう。今にも落ちてきそうな雨漏りの痕跡残る天井に、日差しの一枚
が彩りを与える。身体に感覚が戻ってくるにつれて感じる布団の重さ、近くか
ら聞こえる規則だった音、ほのかな甘い匂い。
「起きたか、おはよう。見てのとおり朝だ」
 声が右から聞こえてくる。振り向いた。
 制服にやけにかわいらしいエプロンの長身がいた。脳が即座に現実を否定し
にかかる。これは何かの間違いだ。そうだ。俺は確かに新島を待っていて、そ
してきっと眠ってしまって夢を見ている。そうでないとおかしい。
「だって、千島がそんなかわいい格好してんだもんな。絶対夢だ。おやすみ」
「本気で眠りにつきたいんだな、そうか」
 首の皮一枚を掠め、金属製の物体が飛んでくる。包丁である。目が覚めた。
「っていうかここどこよ、あ、千島さん、おはようってなんでこんなところに
いるんだ」
 千島のいぶかしむ視線がこちらを見る。左手に小松菜、右手に包丁。ハンド
メイドのエプロンににんじんのワンポイント、高校の制服から生える異様に長
い手足、至って平穏な顔つき。隙なんてどこにもない。間違いない。これが千
島でこれが現実でこれが死
「私が私の下宿先にいて何が悪い。とりあえず着替えろ。食事しながら説明す
る」
 確かに俺の家ではないが、なぜ俺が千島の下宿先にいるのだ。更には着替え
ろという。腕を見ると白いトレーナー、腰から下は青いジャージ。これでもか
というくらいに上半身に余裕があるのは何故だ。
「私の体操服だ。制服のまま寝るのもしんどかろうという配慮で着替えさせて
みた」
 納得。トレーナーの余裕はそれか。さすがスイカップ千島。余裕だぜ。
 ということは、千島が俺の制服を脱がせ、着替えさせ。
 ということは、視線を下に移す。ジャージを少しめくって
「誰が橘の下着まで変えるか。それで私の下着を穿いていたらどうする」
 想像する。千島が俺を着替えさせる。服に手をかけて、ズボンを下ろす。あ
らぬ方向に妄想が走る。あふれる劣情を全力で注ぎ込む。千島の細い指が脳を
直接刺激する。
「長い想像だな。いや、妄想か」
 生存本能が生殖本能を押さえ込んだ。
「い、いや。千島さんに感謝してたんだ、本気で」
 高速で礼を言う。丁寧にたたまれた制服を着、食卓につく。千島とセットの
食器が並べられ、箸を持つ。
「……うん、うまいな」
 正直な感想だった。満足そうな顔をする千島。
「そうか、ありがとう。料理をするのは昔から好きなんだ。食べてもらうのも
な」
 きっと下宿する以前から料理をしていたのだろう。千島にもあるはずの家庭
のことを思う。
「昨日、正確には今日の午前一時だ。学校の植物園から帰るとお前が一階で倒
れていた。で、せっかくだから拾ってきた。新島にも知らせてきたぞ」
 なにがせっかく、だ。
「新島、やっぱり千島さんなら扉を開けるんだな」
 あれほど呼びかけても反応なしだった新島が。やはり取り付く島もないとい
うやつだろうか。
「違う。あの子は呼びかけても扉を開けない。あのドアはコツさえつかめば開
く仕組みになっている。だから試行錯誤を繰り返してあければよかったんだ」
 普通他人の家のドアを試行錯誤で開けたりしない。
「それから新島の制服は私が届けた。今日は何も考えず学校に行って家に帰れ。
演奏の練習もしないでいい。絶対だ。助けられた礼だと思え」
 練習を休んで家にもどれという言葉に違和感を覚えるが言葉の強さに押され
る。
「ああ、いろいろと、その、ありがと」
 心から感謝して朝食を終える。
「感謝は私がしたいくらいだ。ここに泊まりにきたのはお前が初めてだし、着
替えさせたのも初めてだ。朝食の用意は私がしたのだから、片付けはお前がや
れ。それが終われば身支度をしろ」
 どのへんが感謝の要因なのか理解に苦しむが、突っ込まないほうが長生きで
きそうだ。いろいろと突っ込みたい気持ちを必死で押し込む。千島が洗面台を
占領し、俺が流し場に陣取る。流しに立って、初めて気づく。同じ模様なのに、
茶碗の大きさが違う。
「千島さん、食器が全部ペアなのは実家から持ってきたのか」
 夫婦茶碗だった。一人暮らしでそんなものを買う奴はいない。しばらくして
洗面台から声が返ってくる。
「食器はこちらで買ったものだ。高いんだ。丁寧に扱え」
 千島が少しあわてた感じに言葉を返し、質問をはぐらかす。そんな千島が新
鮮でもあり、孤独にも感じる。多分、それは誰か友人が来てもいいようにペア
で買った食器なのだ。そしてもし、男が訪れてもいいようにと、古風なまでに
こんなものまで用意したのだろう。
 ここに止まりに北のはお前が初めてだ。そんな千島の言葉の意味を思う。
 二年間使われることもなかった茶碗が掌に収まる。軽快で音程のはずれまく
る鼻歌を歌いながら髪を梳く千島の影と手のひらの食器を見る。俺の手の中に
知らなかった孤独があった。千島の抱える深すぎる孤独だった。
「なんか、家族みたいだな、こうやっているとさ」
 精一杯の言葉だった。三秒置いて頭の上を何かが飛んでくる。
「無駄口を叩いている暇があれば顔を洗え」
 タオルだった。三十秒で洗面を済ませ、用意をする。
 千島の家から一緒に登校する非常に複雑な気分だ。千島が初めて家に人を泊
めた、というのなら俺だって初めて人の下宿に泊まったのだ。しかも千島だっ
て女性だ。意識するなというほうがどうかしている。
「昨日お前を泊めた代わりに少し遊ばせてもらったが、記憶にはないな」
 突然千島が口を開く。非常に嫌な予感がする。ほんの少しだけ千島の鼻の穴
が広がっているような、そんな気がした。非常に嫌な予感に包まれる。
「いや、よく寝たと思うが」
 脱がされても気付いていないくらいだ。
「実はな、お前を着替えさせるときに」
 金属片でも埋め込まれたか。身体を探る。
「私の制服を着せてみたんだ。で、写真を撮ってみた。これがそれだ」
「な、」
 A4いっぱいにカラー印刷された俺の寝姿を渡される。
「意外に似合っていたぞ。制服フェチとしては最高か、そうか。ま、助けても
らった代償だと思え。後でデータを丹沢に送ってやろうか。見物だな」
「待て、なんでも聞くからそれだけは勘弁」
 心からおかしそうに笑う千島と校門をくぐる。何の助けにもならないは分かっ
ているけれど。千島を深い孤独に追いやったのは俺の家の責任だけど、それで
も今だけは笑っている千島を見ていたかった。昨日だって千島は寝ていないの
だろう。それでも千島は平気なのだ。やがて寝なくても済むのが当然であるよ
うに笑いも怒りも忘れていくのだろう。

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