誕生詩 -学校祭-

第36話 5月12日(水)

 本能的に身構える。直感が俺に言う。気を抜けば殺される、と。その瞬間、
新島の右手が力を溜めているのを認識する。あれが飛んでくれば笑い事では
済まない。
 それでも新島の殺意を俺の理性が否定する。あの新島だ。今のだって何かの
見間違いだ。そうだ、全身から笑顔の元を集め、必死で笑いかければ、あるい
は。
「お前、気分でも」
 悪いのか、
「死ね」
 どこまでも冷静な言葉が無表情から流れる。
 そう、笑って時点で俺の負けだった。避けることは出来ない。本能だけで何
とか腹に力を入れる。同時に鳩尾が熱くなった。
 新島の伸ばした指が食い込んでいた。拳ではない。全身の力を指一本にこめ、
鳩尾などに突っ込めば死んでも不思議ではない。全身の力が抜け、倒れこむ。
頭上では新島が震え、右手を左手で必死に押さえていた。
 それは、誰かと戦っているようだった。
「来ないでっお願い、殺す、だから」
 言葉の浮かぶ間すらなく新島が駆けていく。その姿を目で追う。手には上着、
一人取り残された橋の上。猛烈な吐き気を必死にこらえ、何とか立ち上がる。
 新島の背中は追いつけない距離にあり、俺も動ける状態ではなかった。たっ
たの一発で、欄干にもたれかかるのが精一杯になっていた。
 どれほどの時間、そうしていたのだろう。頭の中に拒絶の言葉と顔を思い出
す。
 俺が悪いのか。これまでからかってきた何かがわるかったのだろうか。それ
ならばいくらだって謝る。だが
 あれは明らかに異常だった。単なるスラングではなく、本気で命の危機を感
じた。あれは、新島ではなかった。あの衝動は、俺のそれに近かった。
 これが千島の頭を下げさせた新島なのか。
 何とか立ち上がり、川を見る。赤く染まる水がただ、目に痛い。自分の影が
長く延び、川面が赤く反射する。時折跳ねる魚が波紋を作り、それが消えてい
く。
「橘、お前は制服マニアか」
 そうだな。
「俺のことは制服フェチと呼べ」
 うん、なんとなくプロっぽくみえるのがいい。
「って言わせるなよ。誰だ、今の」
 女子制服を抱えて橋の袂から夕日を眺めている男。恐ろしくこっけいだ。足
元に視線を移すと、俺の横には伸びた影が一つあった。目を移す。
 自転車に鞄を積み、無駄に格好よく立つ人がいた。
 千島だ。
 ぼろ自転車に、背の高い女子高校生に、夕日の橋。絵になる。飲料水の宣伝
に使えそうだ。だが、その絵は現実だから口も開く。千島のような人間は遠く
から見るのがいい。
「なるほど、制服フェチか。私も制服は嫌いではない。気が引き締まるし、清
潔だ。規律の正しさと信念の象徴でもある」
 そのとおり。制服は規律を守る、正しさの象徴だ。
「さすが同志だぜ。でも詰めが甘い。制服にはリボンが必要なんだ。なぜか分
かるか。無駄を削り、献身と遵法の中にたった一つ残された絶対領域だからだ、
ってなんで千島さんとフェチトークを展開してるんだ」
 微妙に目線をそらされる。
「橘が勝手に脳内補完しただけだろう」
 おっしゃるとおりではあるが微妙にそらせた視線に後ろ暗いものを感じる。
「その制服は新島のだ、当たりだな」
 一発だった。何も補足することすらない。
「橘、お前あの子の何を知っている」
 射抜くような目が向けられる。千島の強い眼光の前に、どんな虚言も通じな
い。一昨日、俺は坂本講師同じようなことを言われて、そして何も答えられな
かった。
 丹沢のことを何も知らない俺がいた。新島のことなんて何も知らないに決ま
っていた。
 それで何が悪い、といった。
 悪いに決まっている。二年間一緒に通って何も知らないほうがどうかしてい
る。
「新島のことを教えてくれ、千島さん。俺は、本気になっていなかった」
 制服を抱えたまま橋の向こうへと目を遣る。今日、音楽室で起こったことを
全て告白した。俺だけが新島のことを分かっていると思っていたこと。この橋
の上の、新島の拒絶。そこまで説明すると千島がきっかり三秒目を瞑り、口を
開く。
「覚悟はあるな」
 危険な距離に千島がいた。自転車から降りずに身だけを乗り出していた。
「ああ、今更だが、覚悟はある」
 千島が笑う。
「なら、お前の覚悟を試してやる」
 吹き飛ばされた。
 微動だにしなかったはずの千島が繰り出した平手打ちが決まったらしい。
「その痛みでこれまでの覚悟の足りなかったものを実感しろ」
 橋の欄干にまで身体が跳ね飛ばされ、最初に感じたのは欄干にぶつけた後頭
部の痛み。第二波の頬の痛みはあごの骨でも砕けたかと思う。反撃するほうが
愚かしいほどの力の差だった。千島は俺に触れる瞬間だけ力を解放したのだろ
う。それが能力を極限にまで引き出された人間の力だった。自分の首を引きち
ぎるという話もあながち間違いではないらしい。
「少し昔話をする。質問は一切受け付けない。もう後には引けないぞ」
 聞いてしまえばもう、後には引けない。今更だ。
「ああ、続けてくれ」
 腹と頬を押さえて口に溜まった血を吐く。平手一発で満身創痍だ。今度こそ
決意する。千島に頼まれたからではない。ただ、一人の同級生として新島のこ
とを知りたかった。先を促す。
「私は入学式の一日前にあの子と出会った」
 千島だけが知る新島がいた。
「下宿先か」
 聞いてみる。
「質問は一切受け付けないといったはずだ。新島の実家は下宿しなきゃいけな
い距離じゃなかった。あの子と会ったのは学校、校長室だ」
 校長室といえば反省文の受付窓口だ。千島も
「信じられないだろうが入学試験の成績は私とあの子が同点でトップだった。
私たちは入学宣誓の練習に行ったんだ。橘とは校長室への用事が違う」
 軽く馬鹿にされ、にわかには信じられない言葉がさらっと流れる。千島がト
ップで入学したことは知っているが同点が新島など、ミミズが逆立ちしても信
じられない。授業と試験を完璧に無視し、成績は低空飛行どころではない。俺
よりも成績が悪いなど、どうしようもない。飛び立つ気力すら置き忘れた鳥の
ようだ。その新島が。
「あの頃は私にもいろいろあって落ち込んでいた。そんな私を元気な声と態度
で励ましてくれたのが新島だ。新島は私がここにいてもいい、と教えてくれた。
新島に邪念があったかどうかはともかく、とてもうれしかった。私は新島と会
えるのが楽しみだった。それがどうだ。結局入学宣誓は私一人が行い、新島は
早速一週間休み、次に会ったときはあんな感じだった」
 正直信じられなかった。暗い千島というのもありえないが、明るい新島と言
うのは昼間に幽霊が出るのと同じくらいにありえない。
「そして一週間後、一緒のアパートにあの子が引っ越してきた。その日、私は
決めた。この子の面倒を見ていこうと。時間の許す限りあの子と一緒に登校し
てやった。進級できるように先生には掛け合った。実際、私がついてやって追
試を受けるとあの子はできる」
 千島の顔がかげる。
「千島さん。俺が」
「橘のいいたいことは分かる。だからあの子の側にいてくれ。お前はお前の道
を行くんだろ」
 その言葉にどこか、既視感を持つ。
 ずっと昔、そんなことがあったような気がした。千島が俺の顔を見下ろし、
自転車にまたがる。
「ああ、千島さんも自分の道をな」
 漕ぎ出そうとした自転車が止まり、千島が俺の顔を見る。ほんの数秒、時が
止まる。
 続かなかったが。自転車をこぎ、遠ざかる千島が強く見えた。俺は俺のでき
ることをしよう。足を橋から進める。目指すべき場所はすぐそこにある。
 千島が自分の道を出来る限り長い間歩いていくことを祈る。

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