誕生詩 -学校祭-

第35話 5月12日(水)

 動けなかった。
 それは、知らない新島だった。
 目を見開き、口を堅く閉じ身体を叩きつける。テンポは160くらいだろうか。
もはや演奏ではなく、激しいスポーツにすら似ている。それは想像したことも
ない、はるかな高みに見える一枚の絵だった。俺には絶対に手の届かない領域、
その遠くでただ、周囲を完璧に拒否するその音の中で新島だけが足を、手を振
るう。
 激しい演奏が終わり、新島の肩が大きく揺れる。息をしているのだろうか。
熱心に演奏しすぎて俺に気付かなかったのか、すぐに別の演奏に入る。大気が
再び振動に支配される。空間を忘れるほどの陶酔感へといざなう演奏だ。目を
閉じる。耳から聞こえる音は寸分の狂いすらない正確なもので、人間が演奏し
ているとは思えない。
 精密な機械が音を刻んでいるといわれても疑わない。それていて、機械では
真似できない感情が音の中に見え隠れする。新島の心の中が空気の中に広がっ
ていた。
 歩み寄る。そして新島の肩に手を
「ひゃ」
 スティックを放り出した。見開いて謎の奇声を上げ、椅子から転げ落ちて、
目を開く。そんな、足元で本物の恐怖を形作る新島の顔を見ると思わず笑いす
らこみ上げる。
 目が合った。
 色を失っていた顔に朱が差していく。
「橘、くん。見てたの」
 恐る恐る。そんな言葉の似合うような声で質問が始まる。俺を上目遣いに、
精一杯に見つめているその顔にちょっとしたいたずら心すら湧く。
「ああ、見ていた。思いっきりだ」
 新島でも赤くなる。それだけのことが嬉しかった。
「その、どうだった」
 さて、どう答えてやろう。
「もうばっちりだ。髪の毛の乱れた間から見えるうなじなんて生唾ものだった」
 眉がつりあがる。必死になって怒ろうとして、失敗したらしい。少しふくれ
た頬すらかわいい。からかうのもこれくらいにしておこう。
「演奏は正直言葉も出なかった。完璧じゃないか」
 つりあがっていた眉が元の位置に戻り、呼吸が止まり、目がまん丸に近い形
になる。
「ほんとうに、そう、なの」
 ものすごい勢いで床から起き上がり、俺に詰め寄る。新島の顔が常識では考
えられないくらいに近くにあった。指一本分。形のいい唇にどきどきする。
「っあ」
 新島が身近い叫びと共に左手を繰り出す。
 ここは愛嬌だ。身体を動かさずぬ拳を胸で受け止める。意外に強い衝撃が肋
骨に響く。多分それが新島なりの照れ隠しなのだろう、それは分かる。分かる
のだが、
「なんで俺の周りには殴り癖のある女がこうも多いんだよ」
 ぼやく。ポエムでも読みたくなる。
「あ、そ、そのごめん」
 新島が自分の繰り出した左手を見てそう言う。新島の色白顔が見る見るうち
に筋金入りの真っ白になっていく。多分頭の中身も真っ白になっているのだろ
う。ここは余裕でも見せておくべきところだろうか。
「構わねえよ」
 その言葉は届かなかった。目に見えたものは新島の背中。空きっぱなしの音
楽室の扉を目指して駆け出していったのだ。天晴れな逃げ足である。それを半
分呆れ、半分楽しく見て
 何かが頭に引っかかった。
 そう、俺は確かに音楽室のドアを閉めた。だから新島は突っ走って音楽室を
飛び出るなんて出来ないはずだ。必ずドアを開けなければならない。だが、新
島は今音楽室のドアを開けずに外へと飛び出した。俺がよほどボケていなけれ
ば誰かがこの音楽室に入ろうとしていたのだ。
 坂本講師だろうか、はたまた学校祭の練習で忘れ物をした生徒だろうか。ま
たは、最悪の場合丹沢という可能性もある。
 こだわるべき場所ではない。今は新島が先決だ。
 どうしたものか。泳がせていた目が更にでかい違和感の塊を発見した。電子
オルガンの上に大きな黒いものが置かれていた。
 近寄って持つ。女子制服の上着だ。広げてみる。
 少し甘い感じのにおいがした。縫い目にほころびなし、座り皺なし。いかん
、これでは単なる制服フェチだ。もう一度調べる。
 胸のプレートをチェック。ナンバーは327。同期だ。名札は三年七組、新島亜
紀。
 さすが新島。演奏も一桁違えば忘れ物も一桁違う。
 せっかくだ。話すついでに届けてやろう。
 きっと今日なら上手くいく。なんとなく会話の糸口も見えてきた。絶対うま
くいく。新島にドラムを叩かせてやることができる。学校祭でクラスを引っ張
らせてやることも出来る。何なら前言っていたように新島を俺の家に泊めてやっ
てもいい。
 川を越えた向こうのぼろアパートを目指すことにする。音楽室を閉め、外に
出る。夕焼けの美しい時間、二人分の鞄を持って走る。歩いていた女子生徒の
群れが何かを笑うが無視。アスファルトに投げかけられる影は一人分。自分で
見ていても笑えるほどに跳ねている。女の尻を追いかけて夕焼けダッシュ。畑
のあぜ道をショートカットし、既に散り行く最中の桜を踏んづけ、むせ返るよ
うな金色の空の下、冷たい大気を身体にいきわたらせて。橋の手前、追いつく。
 そこで新島は川面を見て立っていた。この街を流れる穏やかな川の上。菜花
が咲き終わり、緑色と桜色に染まる、春に祝福された場所だった。
 呼吸を整える。
「ほら、どでかい忘れ物だ」
 こちらを見て凍り付く。だがその時間は長くは続かない。ほんの少しだけ笑
う。
「その、さっきはびっくりして、だから。ありがとう」
 恥ずかしそうに。
「ま、謝るな。上着なんて普通忘れんと思うが」
 白いブラウスだけの新島の眉が少しだけつりあがる。精一杯の抗議らしい。
「ほめてくれたこと、全部ありがとうって意味、だから」
 全部。そんなこといわれると聞きたくなる。
「ってことはうなじもか。そうか。うん、新島はスカートの絶対領域も」
 ものすごい勢いで眉がつりあがり、またふくれる。どうもそれは抗議ではな
く、単なる照れ隠しのようだ。それを示すかのように、ふくれた顔が、少しだ
け下を向いて赤くなる。新島も普通の生徒だ。そう思った。きっとものすごく
恥ずかしがり屋の、ちょっとしたきっかけで人の輪には入れなかっただけの生
徒だ。やわらかく笑った新島の顔で夕映えし、どきどきする。そんな同級生が
近くにいたなんて思わなかった。あんな必死にドラムを演奏し、超のつく引っ
込み思案で、でも実は突っ込みが面白くて。
「ま、それはそれだ。向こう向け」
 新島が顔を上げる。
「何、するの」
 ここまで純粋な疑問符を投げつけられると何かうれしい。
「ああ、うなじまでかわいい新島に上着を着せてやろうと思ってな」
 笑って言う。今度は眉がつりあがらない。代わりに夕日が顔を照らす。
「ありがとう、でも」
「でもじゃねえよ」
 新島が後ろを向き、ほんの少しだけ手を後ろへ遣る。両肩に上着をかけて手
を肩に乗せる。
 それだけのことのはずなのに
 右手の甲に痛みが走った。少し時間を置いて制服が地面に着地する。
 確かにしっかりつかんで肩に乗せたはずだった。もう一度。埃を払ってもう
一度。

 弾き飛ばされた。もう、誤魔化せない。

 新島と顔があった。見たこともない顔がそこにあった。
 それは本物の殺意だった。

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