誕生詩 -学校祭-

第34話 5月12日(水)

 丹沢が隣を歩く。朝っぱらから意味不明なほどに元気なのは女の七不思議、
ということにしておこう。対する俺は全くもって言葉が出ない。会話は一方的
に流れ、相槌を打つのも一杯一杯である。昨日の新島の言葉が引っかかったま
まなのだ。ほかのことが頭に入る余地なんてない。
 演奏できない、と言った。
 断るにしてももう少しましな言葉があるはずだ。新島は嘘をつくのがへたく
そ、それは知っている。だがあれほどの演奏をしておいて「演奏できない」な
どと断るはずがない。
 可能性を考える。一つ目。新島が本気で演奏できないという説。
 一秒で却下。
 ありえない。というか俺は見ている。更に疑問なのは「ドラムに触ることが
できた」だ。あれほどの演奏、ドラムに触る程度の短期間でできるものではな
い。不可解すぎる。そもそも俺の前だけで演奏できるというのも奇妙な話だ。
 可能性、二つ目。演奏できるが、クラスが気に食わないから演奏できない。
 ありえそうだ。だが、新島なら包み隠さずに言いそうだ。
 残された最後の可能性。演奏はできる、だが、現在は何らかの事情で出来な
い。
「ねえ、それじゃ罰ゲームってことで」
 突如聞こえてきた恐ろしげな単語に身体が脊髄反射的に振り返る。
「あ、俺か、俺なのか。罰ゲームは」
 丹沢の無慈悲な人差し指が俺に向いていた。
「そう、幸一。ちなみに罰ゲームの中身だけど、担任でもボコってきて」
「即退学ですから。というか何の罰ゲームだよ」
 意味が分からない。
「私の話を聞いていなかった罰。担任が無理ならさ、千島さんに喧嘩を売って
もいいけど」
「即死ですから、っていうか何の話をしていたんだよ」
 正直俺がかわいそうだ。
「新島さんのことよ。じゃあ罰ゲーム。千島さんも無理なら」
 その横顔が一瞬の逡巡に満たされ、丹沢の口が
「新島さんとは口聞かないで」
 そう告げた。
 出来るはずもないことだった。
「そういうところ、俺は嫌いだな」
 もはや丹沢に反論すらしたくなかった。冷たく言うようだが、仕方ない。信
念を通す、ということはそういうことだと思う。
 だから教室に入った瞬間、新島を見た。いつもどおり椅子に座って、でも下
を見て何かを書いている。昨日渡した楽譜を延々と読み込んでは何かを書き足
しているようだった。全体練習に参加してもらう。昨日そう告げた俺の言葉を
覚えているのだろうか。ただ、丹沢だけがそんな俺たちを見ていた。
 新井の車の音が聞こえ、教室の外に二つの影が見えた瞬間チャイムが鳴る。
 今日は二度目の全体練習だ。なんとしても、形だけでも新島を練習に参加さ
せなければならない。
 そっと新島の席を窺う。
 いなかった。立ち上がって机を叩く。
「くそっ、逃げられたか」
 なんとしてでも探して
「私、いるから、だから」
 俺の右斜め後ろにぴったりと陣取っていた。歩けといわれれば歩くが、そう
でなければお前の陰に隠れ続けるぞ、とその目が語りかける。
「とりあえず講堂に移動するか、な」
 微妙に首が動く。了承、というところだろうか。既に移動を開始した演劇組
を後を追って教室を出る。

 練習自体はこの間と特に変わる様子はない。千島が指揮を取り、演劇が思い
思いに演じ、それに合わせて演奏する。丹沢が舞台を走り回り、指示を出す。
俺だって声を上げれば簡単なテンポくらいはとってやる。
 だから、ある程度正確な演奏は出来ていた。演奏組は上達した、そう思う。
それでも演劇との整合性は取れない。原因は演奏組にあるとも言えるし、演劇
組にあると言ってもいい。いくら演奏が時間通りに終わらせても、演劇が時間
通りでなければ結局は元も子もない。一方、演奏組には演劇の状況から臨機応
変にリズムリードする人材がいない。
 いや、新島がいる。ようやくスタートラインに立てたのだと思う。中心に添
えたドラムセットに座り、しっかりと目を広げて演劇、演奏組と完璧に向き合っ
た。この間が落第点なら今回は補習三回、というレベルにまでは到達できたと
思う。
 充実した時間を追え、新井と松岡に礼を言う。今日の俺の仕事はこれでほと
んどおしまいだ。昼食を済ませると一片の罪悪感すら感じず机に吸い込まれる。
 放課後まで一直線だった。放課後に鞄を持ち上げる周囲の気配で起き上がる。
依然机に引っ付いている吉岡を視界の外に排除。
「幸一、今日は一緒に帰ろ。その、発表の方法についても話し合いたいし」
 朝からずっと口を利いていなかった丹沢がすぐ真横に居た。
 本能的に心臓が高鳴った。
 その顔は確かにこれまでと違った。俺の知っている丹沢はこんな顔をしない。
何を考えているのか探る。そんな俺の右手を取り、それをそっと自分の側に引
き寄せる。意志とは無関係に丹沢の腹部に腕があたる。意外なほどに硬い感触
と毛織の制服の生地が不思議な気分にさせる。
 わかっていた。単なるじゃれつきではない。近くにいるのに、どこか遠くに
すら見えてしまうこの感覚。丹沢はただ、俺と新島の距離だけを開けさせたい
だけだ。別に丹沢が俺と一緒にいたいわけではない。それでも、それは抗いが
たい誘惑ですらある。
 乗ってしまいたい、一瞬そう思う。だが。
「先に帰れ」
 丹沢の薄い笑い顔が乾いていく。楽しかった二年と少しに、自分から幕を引
く。
「どうし」
「帰れ。俺にだって用事はある」
 信念を通す、とはそういうことだと思う。
 長い、長い時間視線を交差させていた。それが、終わりだった。
「あ、そう。残念だなあ」
 完璧な笑顔が戻り、手を上げて教室を出て行った。その背中に強い罪悪感を
覚えてしまう。
 今更だ。ここから歩き出せばいい。
 まずは掃除当番。依然寝ている吉岡の足を紐で机と固定し、首輪をつけて後
ろのロッカーと結びつける。掃除終了。
 用事もないのに音楽室へと向かう。練習もなし、何もなし、それでも丹沢と
帰るはずだったその帰路に残る罪悪感を少しでも消したかった。
 いつだって偶然だと思う。
 音には手前三メートルで気付いた。音楽室の扉を振動させる重厚なパーカッ
ションだった。バスが激しく打たれる音だろうか。無意識的に扉を開けていた。
音が大気を支配し
 ドラムセットが空気を従え、新島がドラムセットを従えていた。

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