ちなみに新島は目を離した瞬間に消えていた。格好よく言い切った直後のこ となのでさすがに悲しい。新島の前であれほどにまで言い切ったのでさすがに 反応が欲しいところだった。明日こそは首根っこを捕まえてでも説得してやる と防火バケツに誓う。 一応靴箱を確認する。出席番号十六番、丹沢の箱には角の取れた革靴、出席 番号二十三番、新島の箱には無駄に整った布製の上履き。汚れた部分など、何 一つとしてない。 新島は汗をかくことがあるのだろうか。人間らしい振る舞いを見せることは あるのだろうか。 「橘、お前ついに上履きフェチにまで成り下がったのかよ」 靴箱の前で上履きをつまんでいれば誰だってそう聞く。だが。 「ああ、お前も上履きをつまんでみろよ。新しい世界が広がっているぜ」 振り返らなくても分かっていた吉岡の頭を靴箱の中に突っ込み、昇降口を去 る。後ろから聞こえる悲鳴と、うわ靴箱から頭が生えているぜという驚きを完 璧に無視。 音楽室へ向かった。新島が不在の中、練習を繰り返させる。練習の目的は技 術自体のさらなる追究、そして全員に共通する正確なテンポ。人と合わせるこ とが初心者である場合、テンポを速めてしまうパートについていくパターンが 非常に多い。適当な演奏ならそれでも目をつぶるのだが、今回は演劇との共演 だ。二分十秒の曲は百回演奏しても必ず二分十秒で終わらせなければならない。 身体の中にリズムを刻みつけさせてやる。時計の祖トップウォッチ機能を使っ て測定。 「今ので二分十五秒だ。五秒のずれなんて致命的だぞ。最初からやり直し」 聞こえてくる不平不満を全部押し殺す。 練習を終えて午後六時三十分。片付けの後、音楽室には俺と坂本講師の二人 が残る。いつもどおりの和やかな雰囲気が流れるはずだったが何か空気が冷た い。 「坂本先生、どうかしましたか」 聞いてみる。いつも適当かついい加減な坂本講師から余裕が抜けて落ちてい て、それは別人のように見えた。身構えるのはやめておいた。 「今日丹沢が何か言ってなかった」 坂本講師が立ち上がる。その右手が強く握られている。全身に力をこめてお く。 「クラス会のことですか」 なぜ知っているのかはとりあえずいい。こんなとき、人一倍悪意にだけ敏感 な自分が鬱陶しい。 「橘。丹沢の気持ちを考えたこと、ないでしょ。だって橘は鈍感だから」 突然の切り込み。坂本講師がこちらに向かう。ポケットに手を突っ込み、俺 に向かう。 「丹沢が音楽室の前に来てはそのまま帰っていたなんて知らないでしょうね。 だって橘は鈍感だから」 一歩。 「丹沢が私に橘のこと聞いているの、知らないでしょうね。だって橘は鈍感だ から」 また一歩。 「丹沢がどんな気持ちで今日、発言したか分からないでしょうね。だって橘は 鈍感だから」 後一歩。 「丹沢が修学旅行の夜、どれほど悩んで橘を誘ったか、知ろうともしないでしょ」 全ての答えがノーだった。当然だ。それが悪意でない限り、俺には感知する ことが難しい。そして目と鼻の先。 「鈍感なんかで済ませあがって」 飛んでくるのは分かっていた。右手の軌跡と命中部分すらも分かる。予想通 り、その拳は俺にぶつかり、そして俺は予想通りに吹っ飛ばされる。最初に感 じたのが床に打ちつけた後頭部の痛み。それから頬の熱さ。 「橘が本気かどうか確かめたんだ、それを」 容赦なく右足が伸し掛かる。身体を動かさずにそれを受ける。胸に足がのっ かかるが、それは少し戸惑っている。音楽室の鍵が顔に命中する。頬が切れ、 血が落ちた。 「本気になれないなら音楽をやめてよ。それが丹沢と新島のためでしょ。鬱陶 しい」 明らかに恐怖を隠せないでいる坂本講師に哀れみすら覚える。 これ以上付き合ってやる必要はない。全力でぶつかってこない奴を相手にす る時間などもったいない。形だけの反撃に出てやる。 坂本講師の右足を手で払いのけ、首をばねにして跳ね起きる。投げつけられ た鍵を左手で回収するのも忘れない。そして鍵を本気で投げ返す。もちろん力 は抜いておく。 坂本講師の首に命中した。ひるんだ隙に眼前の椅子を蹴り上げ、坂本講師の 腰にぶつける。二つの机を犠牲にして坂本講師を床に倒す。蹴り上げた動作で 一気に距離を詰め寄り、喉元に右足をかける。踏まない程度に、相手に一切の 動きを許さない程度に、喉元と足裏の距離をとる。 「すいません。俺はとっくに本気です」 千島に感じる敬意があるのだから。 言葉どおりに。鼻血を出した坂本講師が天井を眺める。 「俺は言いたいことがあるなら面と向かって言うべきだと思っています。それ に丹沢を気にかける理由なんてありません。気づいてくれるまで待っているな んて願い下げです」 言い聞かせろ。 「俺には音楽があります。邪魔なものは殴り倒してでも進んできました。思い 通りにならないものは引きずってでも自分のものにしてきました」 続けろ。 「坂本先生こそ、本気になれないなら講師をやめてください。そのほうが生徒 のためです」 目線が合う。 「……橘、容赦ないね」 右足を離す。ゆっくりと立ち上がる坂本講師に手を貸してやった。 「女の子には、優しく、するものでしょ」 その笑顔が何か寂しそうに見える。 「俺は優しいですが容赦しません。それが俺の信念です」 全力で立ち向かうことは優しさだと思う。だから、全力で立ち向かうことの できない坂本講師の外を眺める顔が悲しかった。制服を正し、いつものように 告げる。 「全体練習は明後日と前日リハーサルだけです。新島は多分本番で合わさると 思います」 負けられない戦いに突入した。絶対に引かない。もう後悔はしない。 音楽室の扉を向く。 「橘、さ。一つだけ」 床に座り込んだ坂本講師が目を伏せたまま言う。 「丹沢とは距離を置いてちょうだい。これ以上傷つけないで。それから新島の こと、頼むね」 何もかもお見通しというわけか。 「わかりました。丹沢のこと、自分でもわかっています」 新島のことも。 覚悟を決めたのなら、俺は決意しなければならない。 丹沢から離れよう。 丹沢のことは大好きだった。だから。 だから別れよう、そう思った。 |
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