誕生詩 -学校祭-

第30話 5月10日(月)

 午後の授業が始まる三分前。階段を下りた。教室に入った瞬間、新島の横顔
が目に入る。その視線が一瞬こちらを向くのを視界の外へと押しやる。
 新島亜紀。そんなやつは最初からそこにいなかったと言い聞かせる。一ヶ月
前の日常に戻るにはそれが手っ取り早い。教室の少し埃っぽい空気が午後の光
に照らされ、光の筋を作り出す。その乱反射の中、丹沢の目線がそっぽを向き、
千島が自席から俺に目を向ける。新島を嫌いと言い放った丹沢、そして新島を
頼むと頭を下げた千島。誰の思いにも応えることのできない最低な結論。それ
でも傷は浅いほうがいい。一度も聞いたことのない授業をただ耳に入れ、外ば
かりを眺めていた。
 放課後のクラス会を仕切るのは初っ端から千島だ。簡単な連絡、練習場所と
時間の調整、参加団体として割り振られた全体の準備と後片付けの行程につい
てほとんど有無を言わさずに説明、決定していく。
「全体練習の日程は五月十二日、発表前日の十五日、各三時間目をいただいた。
何か異議、その他の議題はあるか」
 きっかり十秒。本来ならば議題などないはずだ。
「千島さん、議題があります」
 千島が頷き、顎で合図する。意を決したような椅子を引く音、そして息を呑
む音。
 丹沢だった。
「演劇の担当として伺います。演奏組が練習不足のようでしたが、このことに
ついて演奏担当からの説明してください。それから今回の練習に参加していな
かった人もいるようですが、説明してください」
 俺の方向を見るのでもなく、俺の名前を呼ぶのでもなく、あくまでも冷静に
痛いところをついてくる質問だった。
「丹沢、もう少し詳しく説明しないと誰も質問の意味がわからない。二点の質
問を端的にまとめろ」
 千島の絶妙なフォローが時間的な猶予と丹沢への焦りを与える。
「まずは練習不足の理由。それから新島さんの不参加。この二つについて納得
のいく説明をお願いします、ということです」
 言っている内容自体はほとんど変わらないものの出鼻を強くくじかれたせい
か、丹沢には冷静な部分が消えていた。質問内容も昼休み、千島から聞いてい
たとおりである。
 練習不足、というがそれは間違いだ。はっきり言って演奏のレベルは悪くは
ない。新島が参加しないからこそ全体がそろわないわけであり、テンポが合わ
ないのだ。
「練習不足なのはお互いさまだろ、丹沢。演奏の個人的なレベルは高いし、よ
くあれほどの短時間で何とかなったものだと思っている」
 ざわめきが起こり、そんな中丹沢が初めて俺の方向に目を向ける。
 してやったり、という顔だった。
 個人の演奏のレベルは高い、と俺に言わせるのはあくまでもトラップなのだ
ろう。わかっているが、踏みつける。
「でも実際にそろわなかったじゃない。それなら幸一が全部合図すればいいじゃ
ないの。幸一は演奏組全員を合わせたよりもうまいわよ絶対。そんなこと新島
さんに任せられるって思っているわけ」
 俺が一人でやるほうがはるかに楽に決まっている。丹沢はそれを望んでいる。
新島と出会うことはなく、千島に何も頼られず、演奏組なんて引っ張らず、ス
タンドプレーにいそしんで、丹沢に無駄な苦労をかけさせない。最初から歩む
べきだった道へと丹沢に誘導される。
「橘、今日の失敗の理由と新島の不在、もう一度立ち直ってこの場で説明しろ」
 あくまでも冷静な千島の声が俺に向けられる。表面上は俺を責めるその声が
いつもより弱く響く。その意外なまでの弱さに、壇上の長身を見る。
 入日の光粉を浴びるその姿は、どこまでも普通の女子生徒だった。
 新島を頼む。そう俺に言った千島の姿が思い浮かぶ。あれほどに強いと思っ
ていた人がとても弱々しかった。あれほどの人が俺のような人間に頭を下げた。
何もせずに尻尾を巻いた俺は今からその人を裏切ろうとしている。そして新島
は相変わらずの目線で千島を見る。
 丹沢が追い討ちをかける。
「何のための演奏組なのよ。参加させるのが無理なら最初から自分でやればい
いでしょ。それでうまくいくじゃない。今すぐ決めなさい、言いなさいよ。新
島さんは」
 役立たずだって。そう続くはずの言葉を受け入れようとする。
「丹沢、とりあえず落ち着け。それから橘。私はお前に重要な一翼を任せてい
る。それはお前がクラスをまとめられると信じているからだ。この舞台は全員
で成し遂げる。それがこのクラスの誇りではないのか」
 ほんの少しざわめきの増えていた教室が一気に冷え切った。熱くなっていた
丹沢すらも黙り込む。そして、千島の目線が弱々しく新島と俺を往復し、口が
小さく動く。その口は明らかにこう言っていた。
 新島を頼む。
 ああ、そうだ。俺はこの人に新島を頼まれていた。
 なぜこの舞台発表を受けたのか思い出す。
 誰よりも頼ることの出来る千島がいたから。あの千島が自分の存在に抗った
から。
 千島の理性を尊敬する。俺には想像もつかないその苦しみを無意識下に抑え、
生きている千島を尊敬する。本来なら自分だけでも不安定なはずなのに、仲間
を何よりも大事にする千島を尊敬する。敵と認識したものを残虐なまでに追い
詰める千島を尊敬する。
 多分。俺がこんな人間でなく、そして何も知らない人間なら千島を何の邪気
もなく好きになっただろう。
 俺だけは千島を守れるだなんて思っていただろう。
 そういう生き方もいい。
「答えます」
 だから決める。俺の誠意を賭ける。
「新島は十分に役立つと思っています。だから演奏組は全員で舞台発表を行い
ます」
 向き直れ。
「今日は失敗でした。それは一重に俺の力不足です。認識の甘さです。ですが
本番ではうまくいくと確信しています」
 続けろ。
「新島は参加します。俺の誇りにかけて成功させます」
 言い切った。その俺を千島と、丹沢と、新島が見ていた。
「他に議題はないか」
 そしてきっかり十秒。
「では解散だ。演奏組は音楽室で練習だな。急げ」
 クラスが開放感に包まれ、椅子を引く音がいっせいに聞こえる。帰宅する生
徒の会話の響く中、丹沢に駆け寄った。
「気合いれておけよ。演奏組のできのよさで泣かせてやるぜ」
 肩をつかんで言い切る。俺なりの宣戦布告だった。丹沢も動きを止まる。そ
して俺の手を丹沢が強い力でつかみ、睨みつける。強い、いい顔だった。
「待ってるわ、幸一の演奏する姿をね。いつだって新島さん、うちで引き取っ
てあげるから」
 その言葉だけを残して背を向け、教室を出て行った。気合が入る。絶対に、
演劇なんかには負けない。やってやる。音楽室へ向かう。
 教室を出る千島の背中に頭を下げる。多分、これが千島の望んだ筋書きなの
だ。


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