五月十日。連日のさわやかな朝の中に満開の桜がちらほらと散っている。 大きく伸びをして少しため息。学校に行けば学校祭の練習が待っている。早 いもので三時間目には全体練習の一発目だ。 さて、やれることからする。この世の真理である。跳ね起きて、朝食の用意 にかかった。 暴力的な目覚まし時計が自宅を破壊に来るまでに全ての用意を整え、玄関前 で待つ。 玄関外に向く窓に跳ね水のような影が映り、それに追従する軽快な足音。 任せておけ。タイミングは完璧だ。三、二、一 「おはよう、丹沢」 助走をつけようとしていた丹沢に釘を刺しておく。 「あら、もう起きてたのね、感心感心」 軽く聞こえた知ったうちは記憶の彼方に封印しておく。靴を履き、キーボー ドを背負い、施錠して連れ立った。 丹沢が無料スマイルを散歩中の年寄り夫婦に向けて歩き、犬を散歩させる小 学生に手を振る。その仕草はただ、遠目に見るとありきたりでかわいらしいは ずだが、近くにいるとそのありがたみが伝わらない。そよぐ風に散りゆく桜の 中、川面に跳ねた光の粉が丹沢の頬を強く照らし、気持をそちらに奪われる。 「幸せって気づかないものだな」 ふと、そんな言葉がもれてしまい、あわててごまかす。状況を察してか、優 しく笑った丹沢が大きく伸びをする。 「今日は全体練習ね。楽しみ」 突貫工事もいいところだから、楽しみというよりもスリリングではあるのだ が 「ああ、楽しみだな」 そう答えていた。丹沢が仕切っているとどんなことでも楽しみに変わりそう だった。 「演劇はいい感じなんだけど、演奏組の仕上がりはどんな感じなの」 まだまだ仕上がりなんてレベルではなかった。そう、新島の不在を埋め合わ すことの出来る材料に欠けているのだ。 そして俺は新島を積極的に誘ってもいなければ代替案を考えてもいない。 「まあ一通りってところか。合わせてみないと仕上がりなんてわからねえよ」 そうだね。丹沢がそう軽く答え、前を向く。 その話題はそこで途切れ、結局は日曜日の話へと移行。徹底的に丹沢からお 叱りを受け、二度と年齢制限つきゲームに手を出すなと絞られる。 そんないつもどおりの朝。月曜日である。日曜日の発表までは本気で時間が ない。新島が参加しない場合の代替案くらいは考え、状況によっては俺の演奏 を淹れるべきであると決断するべきかもしれない。 学校到着と同時に音楽室を開錠。何人か、心残りの生徒を集め、少しでも練 習させておく。音楽室横の土手では他学年の練習が発生し、前の軒下ではどこ かの組の演劇の台詞が勇壮に響く。普段から音楽室に出入りし、この場所の占 有権を確保しておいてよかったと本気で思う。 一時間目開始。新島を見つけようとするものの席には存在しない。朝、学校 到着時には姿勢靴がロッカーに入っているのを確認したのだから、もしかした ら保健室か図書館にでもいるのだろうか。いずれにせよ探す手立てを考えるよ りも演奏組の指導である。問題点を整理し、練習部分を考えて一時間目をつぶ す。 一時間目が終わると演劇組は体育館に、演奏組は音楽室に移動。二時間目は 演奏、演劇別々の練習をおこなうのだ。ちなみに演奏組の演奏曲は全部で四曲。 これに加え、演劇の最後を締めくくる曲の演奏は俺、新井、松岡。歌うのはク ラス全員。バンド活動の一環をクラスで行うことが出来るのは嬉しい限りだ。 二時間目を完璧につぶしたこの練習で何とか四曲を演奏できるところにまで は達することが出来た。この学校には音楽の授業自体が実質存在しないのだが、 入学者の大半は良家の子女であるため、楽器演奏は難なくこなしてしまうのだ。 だから、ある程度個人的に練習してしまえば演奏組としての体裁は簡単にそろ う。 これでいいか。そう思ってしまう。 実際は違うのだ。今回の場合、ただ演奏できればいいのではない。あくまで も主である演劇に合わせ、演奏を行わうことが命題である。正確かつ臨機応変 なタイムキーパーの存在が不可欠であり、全体の把握とリードできるパートが 必要である。そして、その条件を満たす新島は不在だった。新島不在のまま演 劇と合わせてしまった場合、何が起こるのかは容易に想像がつく。そう、音楽 がかえって演劇の足を引っ張ってしまうのだ。新島の存在は必要不可欠である ということは分かっている。だが新島は雲隠れ、俺自身も積極的に新島を探す つもりもなければ、探したところでかけるべき言葉が見つからない。演奏して くれと頼んだところであいまいな返事に終始され、結局は逃げられてしまうの だ。頭の痛い問題だった。 不安がどれほどにあろうとも二時間目は終わり、全体練習の三時間目がやっ てくる。講堂へと場所を移さなければならない。休憩時間もそこそこに、演奏 組へ講堂への移動を促す。 ちなみにこの学校の講堂はとにかくでかい。全校生徒に保護者が入っても余 裕である。舞台にいたっては本格的な舞台装置に衣装室まで備え、照明器具も 充実している、らしい。かつてここで自分の恥ずかしい曲を大音量で鳴らした 自分がなつかしい。ほんとうに、馬鹿なことをした。ずっと遊んでいた。 「橘、仕上がりはどうだ」 「幸一、最後の足掻きは終わったの」 舞台の上。遠めで分かる長身長髪と、遠めで伝わってくる危険な波動。千島 と丹沢だ。仲良く立っているということは演劇も今終わったばかりなのだろう。 後ろに控える演劇組が制服姿に体操着姿であるところから察すると、衣装につ いては現在鋭意製作中なのかもしれない。演奏組が未完成ならば演劇組もそこ そこと判断する。それにしても千島と丹沢が二人して俺を追い込みにかかって いるのは仕様だろうか。いつの間にかいじられキャラになっていた自分を激し く反省する。 「……何がどうであっても突っ込まないでくれ、な、お二人さん」 今のうちに頭を下げておく。もしかしたら足を引っ張ってしまうかもしれな い。そうなってしまう前にせめてもの予防線だ。 「うん、今日は全体の流れを確認するだけだからさ、とりあえずでいいよ」 丹沢が優しさを見せるときは要注意である。それなりのレベルを期待してい るに決まっている。 「橘、お前も演劇に意見を言ってくれ。私からも演奏に注文をつける。今日は お互いの研鑽の場だと思って全力で楽しんでくれ」 全力で楽しもうという当たり、さすが千島である。 「わかった、お二人さん。じゃ、そろそろ一回通してみるか」 散開。千島が全員に響く声をかけ、丹沢が演劇を並ばせる。俺もそれに習っ て演奏組に指示を出す。 「演劇組は全員台本を持っていていい。とにかく流れを重視しろ」 千島の声がざわめいた講堂に通る。 「とりあえず出番とテンポの確認だから、演奏は基本的に独立したものだと思っ ていいからね」 さすが演劇部副部長、丹沢である。講堂の声の通りは格別だ。さて、 「演奏組はさっきと一緒で、入る瞬間は俺が合図するから」 一番へたくそな号令だった。仕方がない。場数を踏んでいないのだ。 記念すべき第一回全体練習が始まる。 |
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