誕生詩 -学校祭-

第27話上 5月8日(土)、5月9日(日)

 うすうすは分かっていた。なにやらさっきから目が痛いと思っていたのだ。
これは多分、揮発した危ない成分のせいであろう。それでも夢であることを
祈る。
 祈り終えた瞬間、銀のお盆に載せて手袋をした手が俺に差し出された。
 防毒マスクに防護メガネ。手にはプラスチックグローブ。そしてその手には
赤黒い煙を上げる物体。
 信じたくはないがラーメンらしい。
 いや、否定する。誰がなんと言おうと俺が否定する。おかしい。間違ってい
る。理不尽だ。
 なぜスープを覗き込もうとした瞬間、目に刺激を感じなければならぬ。毒物
だ、劇物だ。各種法律違反だ。あらゆる法則を無視し、そいつは目の前に鎮座
する。痛みをこらえスープを覗き込む。
 危ない煙のせいで何も見えない。とりあえず、レンゲを差し込ん
 さく。
 さく? 
 突き刺さりました。
 神に問う。なぜスープにレンゲが突き刺さるのか。なぜ液体にスプーンが刺
さるのか。
「それ、過去最高の高度だからありったけの胡椒をこのソースで練って作って
みたのよ」
 防毒マスクの下から声が聞こえる。聞きなれているはずの丹沢の声があまり
のも遠かった。たった一人、宇宙の暗闇に放り出された気分だった。
 最後の無線で地上から送られてきたものは、そんな台詞と差し出された手。
 その手には一本のビンが握られていた。辛さの代名詞、タバスコかと思った。
ラベルを見る。
 『天国に一番近い味』
 人間の限界を思い知る。
 人間、想像を超えた物体には平凡な名前しか付けることが出来ないらしい。
 ビンを見つめる。赤い。神々しいほどに赤い。一瞬で天国が見えるのだろう。
そして隣でけたたましい笑い声を上げる吉岡のようにぶっ飛ぶのだろう。いや、
即死すれば笑うことすらかなわず逝けるかもしれない。それに賭ける。
「ちなみにタバスコの400倍らしいわ、これ。一本三千円よ。タバスコ400本買
うよりはお買い得ね、幸一」
 お買い得だろうが、使いようもないだろう。さて、そろそろ現実に戻るとす
る。
「丹沢、最後の頼みだ、聞いてくれ」
 腹を決める。遺書が間に合わなかった分を、遺言という形で残す。
「なになに、愛の告白」
 丹沢が耳を近づける。
「俺が死んだらパソコンの中身は見ずにハンマーで殴れ。それからDVDは全部電
子レンジでチンだ。引き出しの三番目は何も言わずに捨ててくれ。棚の上のダ
ンボールも危ないな。うん、言い残した。では今から俺の髪の毛をつかんで後
ろ向きに引っ張れ」
 見苦しいものをこの世に残すと成仏すらできなさそうだと思った。そして髪
の毛を引っ張ってもらえば嫌でも口が開く。
「ふーん、橘のコレクション、ね。メモしておいたから葬式に参列した人にコ
ピーして配っておくわ。遺影も二次元でいいよね」
 丹沢は外道だった。だが構わない。どうせここまでの人生だ。
「坂本先生、俺がためらったら口の中に突っ込むの、手伝ってくれ」
「おっけー。生かさず殺さずで」
 こちらも外道だった。
 箸を持つ。砂の中に埋もれた麺を掘り起こす。せめても痛みを感じないよう
に一口で全てを突っ込むことにする。そうだ。スープではないのだから水に溶
けるまで辛味は感じないはず。
 理屈で不条理を捻じ曲げ、本能を納得させる。
 俺は逝ける。痛みを感じずに逝ける。
 深呼吸する。鼻腔に痛みを感じる。目を閉じて走馬灯を見る。ああ、いい人
生だった。どの場面を区切っても一人、一人、一人。
 ああ、孤独は孤独なりに楽しい。最後の最後までそんな強がりを極めるあた
り、さすが俺。
 視覚を抹消する。
「一人最高同盟に栄光あれ。ジーク一人。一人こそ我が命」
 死ぬときはこう叫ぼうと決めていた。箸が口の中に入る。
 その瞬間、音が消えた。坂本講師が俺の手を持つ。丹沢が髪の毛を思いっき
り引っ張る。そしてそのまま意識が消える。喉を砂粒のようなものが通り、コ
ンクリートをセメントで流し込む不毛な作業が行われている自分の姿を遠目に
見ていた記憶がある。

5月9日(日)

 朝。
 紛れもない朝である。
 窓から差し込む光線が室内をやさしく照らし出す。慈しみと愛に満ちた朝の
始まりだ。さわやかな風にふと、さっきまで確かにさまよっていたはずの場所
を思い出す。
 確かお花畑を歩いて、大きな川のほとりまで来て。それから。
「おはよ。幸一」
「ああ、了解。俺やっぱり成仏したんだ、そうか」
 納得する。朝っぱらから鬼の顔を見たくらいだ。この先長い死出の旅路、
「何失礼なこと言ってんのよ」
 丹沢だった。場所は俺の部屋。時間は、午前六時十二分。何もかも思い出せ
ない。
「さすがにやりすぎた、ごめんなさい」
 今日は日曜日だ。だからこんな時間に起きなくてもよければ、
 そういえば帰ってきた記憶がない。一つ一つ、思い出す。坂本講師に出会っ
て、食事をした。吉岡の奇声に気の毒な笑い声が耳に復活し、突き刺さったレ
ンゲ
「うっ、うわぁぁーーー来た、きた、キター」
 気を失いかけた。9000メートルの物体が、殺人兵器が脳裏に思い浮かぶ。途
端、さわやかなはずの朝が重くなり、腹に激痛が走った。身体を丸めてのた打
ち回る。
「ちょ、ちょっと幸一。大丈夫。はいお水、落ち着いてっ」
 水のみを口の中にねじ込まれる。頭を丹沢に抱え込まれ、ひざの上に乗っけ
られる。それだけで少し、痛みが引いたようなそんな気がした。女の不思議だ。
何とか水を飲んで落ち着く。
「決めた。今日はずっとここにいるからね」
 俺を布団に戻し、そう宣言する。腹を抑えてその顔を眺める。甘えてもいい
ような気がした。
「すまん、今日はいてくれると助かる」
 丹沢の目が驚くほどに丸くなる。
「何、悪いもの食べ……たわね、確かに」
 丹沢がしおらしくしているのは珍しい。こんな瞬間もいい、そう思っている
と丹沢が部屋を出る。
 三分後。マスクとプラスチックグローブをつけた姿で再登場。脳裏に封印さ
れた記憶へのアクセスが拒否される。人生の不良セクタである。
「え、っと。確かめるね、幸一。パソコンの中身は見ずにハンマーで殴れ。そ
れからDVDは全部電子レンジでチンだ。引き出しの三番目は何も言わずに捨てて
くれ。あとなんだったっけ、まあいいや、それでよかったかしら」
 死にきれなかったことを悔やむ。だが今破壊されると悲しい。
「すまん丹沢。あれは俺の遺言だ。あの言葉は俺が死んでから効力を発揮するんだ」
 だよな。遺書って断ったもんな。
「うん、一緒だよ。どうせもうすぐ遺書になるんだから。今からなぶり殺して
あげるから心配しないで」
 外道だ。
「やっぱ今すぐ家にもどれ、走れ、激しく帰れ」
「お断りします。幸一。こんな機会じゃないとゆっくり話せないしね。さて、
幸一のコレクションを閲覧いたしますか」
 そして恐怖のDVD鑑賞会が始まる。なぜに同級生の女子と年齢制限のあるゲー
ムをしなければならないのか。人生の意味について思い悩む。

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