結局演劇の編集作業と音楽の選定作業を三人でおこなう。注目すべきは千島 の意見に丹沢がしっかりと反論したこと。さながら二大怪獣の決戦のようだと 評した俺は巻き込まれた民間人である。 それはただ、楽しい時間だった。千島が自分の意見を必死に伝えるのも楽し ければ、丹沢がそれを受けて熱く語るのも楽しければ、俺が無意味に仲裁して みようとするのも、全てが楽しい。 時間は六時三十二分。目の前にはペットボトル入りのお茶を飲み購買で買っ たパンを食べる丹沢。目の保養となるはずの千島は二分前に原稿と楽譜を抱え て職員室へと向かい、そのまま教室には戻らず、どこかに行くと言い残した。 これ以上教室に残っても意味がない。 「帰るか、丹沢」 六時三十二分。薄暗い教室に俺と丹沢。俺という哀れな子羊と丹沢という肌 を狙う危ない人といったところか。 「まっふぇ、あとひょっと」 感傷的な気分をぶちこわす。 「待ってやるから食べながらしゃべるな、百年の恋も冷める」 丹沢はパンをよく食べる。朝食はパン、昼食は弁当とパン、授業終了後にパ ン。身体の半分はパンでできていそうだ。残り半分の構成を考える。 三割は暴力だろうか。一割と五分は殺意。残りの五分くらいにはせめてもの 優しさを挿入しておこう。余ったし消費税みたいなもんだ。 「やべ、恋する場所どこにもないぜ」 「え、幸一。いつの間に恋に落ちてたの。お姉さんびっくりだなあもう」 丹沢がお姉さんモードに入っていた。自分の都合と気分でいろんな立場を使 いこなすあたり、さすがは演劇部。 「恋なんて一生訪れるか、このばかものが」 調子を合わせ、いつもどおり頭を小突いてやろうとした。丹沢の足が突然止 まり、手が空振りする。 「そう、だったね。ごめん。好きな人なんて一生できないんだよね、悪いこと 言っちゃったな、お姉さんちょっと反省、あはは」 締め付けられる思いがした。冗談を満たした空気が消えていた。 「お前が謝ることじゃない。俺の問題だ。さっさと帰るぞ」 二人分の荷物を持ち、教室を出る。後ろから、少し距離を開けた丹沢が足音 を殺す。 あの時もこんな感じだった。俺が先頭を歩き、気配すら消した丹沢がついて きた。つらかった。 二年生の初夏。修学旅行中の夜だった。部屋を抜け出し、丹沢と落ち合った 。誘ったのは丹沢で、計画を立てたのは俺だった。教師の目を擬態でかいくぐ り、相部屋の奴らから笑いたくなるほど嫌な条件を飲まされ、部屋を抜け出し て二人で遠い街の繁華街を歩いた。特に何をするでもなく非日常を楽しみ、い かにも無個性な喫茶店に入った。きっとその瞬間まで、丹沢の明るさにてらさ れた自分の姿を認識していなかった。丹沢といるだけで感じる幸せが全てだっ た。 「……あれからもうすぐ一年ね」 同じことを思っているのだろう。丹沢が弱くつぶやく。 「楽しかった、あれだけ頭働かせたのもはじめてだし、どきどきしたし、それ に。私にとっては素敵な夜だった」 返事は、やめておいた。何の会話もなく坂を下り、駅へと歩く。少し距離を 置いて歩く丹沢、足の遅くなる俺。隣に来て欲しかった。いつもどおり隣で底 抜けに笑って欲しかった。丹沢といる時間は、とても幸せで何もかも忘れてい いように思っていた。 「帰るかって聞かないの」 あのときと同じ言葉だった。喫茶店から出て、丹沢に言った。帰るか、と。 「帰らずにまた行くか、丹沢」 息を呑む音が、大気におびえを伝える。どれほどに丹沢を傷つける言葉だっ たか分からないではない。それでも言う。身を硬くした丹沢の気配が離れてい てもわかる。 あのとき喫茶店を出た後、帰ろうと言った俺の言葉を断り、丹沢が一つの提 案をする。帰らずにこのまま朝まで過ごそう、と。ただ、嬉しかった。だから それを満たそうと思った。 そして上半身を見て、言葉を失った丹沢がいた。無理に笑おうとしても笑え ない丹沢がいた。丹沢だけは何も聞かずに笑ってくれると思っていた。だから 許せなかった。だからその笑顔の根源を壊したくなった。 荷物を持った左手に温かいものが触れる。丹沢の手が重なっていた。ただそ れだけのことで衝動が収まっていく。 「そういうのには雰囲気があるの……幸一に好きな人が出来ない気持はとても わかる。でも」 改札をくぐってその先、俺の手から自分の荷物を取った丹沢が一回転し、満 面の笑みを浮かべる。そして線路の向こうに顔を向け、両手を下にかざして 「幸一を好きな人はいる。今みたいに女の子を傷つけるのは許せない」 「丹沢、」 かけるべき言葉があるはずだ。謝罪と、感謝と 「でも、私を傷つけるのなら、借りにしておくね」 気丈な言葉が悲しかった。言いかけた謝罪をしまいこむ。丹沢の笑顔への本 能的な憧憬と反発と自分への嫌悪を必死にこらえる。 「それじゃ、今日はここで別れておこうか、私はちょっと用事もあるし」 反対側の電車が来るまであと三十秒。丹沢はいつもどおりの笑顔に戻る。 「……また紅茶茶碗を割った。近いうちに家に来てくれ」 丹沢の肩がほんの少し震え、線路の音が滑り込む。丹沢をなぜここまで苦し める自分に嫌気が差す。丹沢に流し台を掃除させて、そして。衝動に任せて傷 つけて。いつだって泣かせて。拒否の言葉に耳をふさいで。 「うん、それじゃ、また明日ね」 それでも丹沢は笑顔でそう言う。どれほどに俺が傷つけようとも、どれほど の目にあわせようとも、絶対に言う。 その無心な笑顔が電車の扉に阻まれ、そして離れても、ずっとそちらを見て いた。 隣にコーヒーを置き、トラックを編集する。 目の前にはパソコンとキーボード。斜め前にはこの家にまだ人が住んでいた 頃、最後に撮った写真を飾る。 写真の顔は永遠に笑い続ける。めったに笑わない奴だったのに、今覚えてい る顔は笑顔だけ。人の思い出なんてそんなものだ。 人に嫌な思いをさせればさせるほどに仕事がはかどる。昔からそうだった。 丹沢が笑うほどにその笑顔が鬱陶しかった。表面だけ合わせるのがルーチンワ ークだった。ずっと昔、丹沢に出会っとき、そうだった。笑顔を破壊してしま いたかった。人の後ろ暗さを何一つ知らず、何もかもを善意に解釈する純粋な 心を砕いてやりたかった。 だからあの夜、そうしてやった。知らせる必要のない昔を全て言った。そし て容赦なく責め立て、なじり続け、何もかもを傷つけて、俺の衝動のはけ口に して、そして告げた。 お前なんて大嫌いだ。 これで笑顔を壊してやった。そう思った。でも。 散々泣いていた丹沢がそこで涙を止めて、 言った。 初めて幸一の言葉を聞いた気がする。とても素敵な夜だった。これからもよ ろしく。 笑っていた。俺が泣いた。 冷たくなったコーヒーを流しに捨て、淹れなおす。 「豆が湿ってる。買ってこい」 向ける相手もいない言葉をこの家の空気に告げる。 その言葉に何の表情すら見せず、ただ従うだけが能だった奴のことを思い出 す。 丹沢はまた来るのだろう。いくら俺が傷つけようとも。 |
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