丹沢と登校するいつもの通学路。 「見て、桜。きれいねえ」 とりあえず空を見る。咲き始めの桜が昨日の雨の名残を反射し、少し濁った 川に花びらが流れ、よどみに青みがかった桃色が染まる。確かにきれいだ。た だ、単純にきれいだ。新しい枝を揺らす風はほんの少し温かく、眠気をこの上 なく誘発する。 「ああ、きれいだ最高だ」 投げやりだ。平和だ。この土地を出て北に百キロほどいけばあるはずの最前 線の戦闘も、泥沼化した戦局も、何もかもを差し置いて、ただ単純にきれいだ。 「ねえ、幸一。舞台発表のほう、どうなったの」 その一言で昨日のことが頭によみがえる。結局延々と選曲、パート割り振り の作業に没頭。横になったのは三時過ぎ。丹沢が破壊的に起こしにこなければ 確実に昼間で熟睡できたと思う。おかげで桜を見ながら舞い踊ってしまいそう なほどに眠い。 「はい、とりあえず聞いてけ」 胸ポケットからイヤホンを取り出し右側を丹沢の耳に差し込む。左は俺の耳。 楽譜を取り出し、とりあえず音を追う。 「意見があれば言えよ。右から左に聞いてやる」 要するに聞いていない、というやつだ。 「お疲れ様。あ、いい曲かも」 演奏できれば、の話だ。 「これから編集するんだけどな」 演奏組を取り仕切ることを考えると頭が更に重くなる。 「まあ音楽は幸一の双肩にかかってるわけだし。うわ、それが楽譜ね」 丹沢が手元を覗き込む。楽譜情報をそのまま打ち出しただけの手抜きである。 「主旋律、ストリングス、ベースパート、まだある」 楽譜をめくる音が続き、そして突然だった。 「ねえ、これ、何」 足と音が止まって、やけに冷えた声が響く。眠気が吹っ飛んだ。丹沢の指す ページを覗き込む。他と比べて圧倒的に音符の多い譜面だ。おまけに音符の位 置がとんでもない場所にある。データで打ち込むとありえない楽譜に一見見え てしまう。 「読めないだろ、それがドラムパートの楽譜だ」 眠気が再び戻る。 「……そんなこと聞いてるんじゃないわよ、だからなんで」 丹沢のあからさまな怒りだった。 「このパート、なんで新島さんなの」 言葉が冷え切っていた。少し前、丹沢が心をこめてなじったその言葉を思い 出す。新島なんて嫌いだ、と。 「だいたいまだ演劇と演奏の組にも分けてなければ」 丹沢をやたらと邪険に扱いたくなった。 「心配いらねえよ。新島は演奏できるから」 俺が無関心に答え、丹沢がいかにもわざとらしく笑う。こいつに感情を偽る ことなど、できないらしい。 「できるのとするのは違うでしょ。あのお荷物さんが演奏するとは思えないけ ど」 的を射ていた。実際、新島は態度を保留したままだ。俺の前では演奏してく れたとしてもクラスに協力するとは思えないし、あのヤドカリのような性格が 突如変化すると考えるのも神頼みだ。ドラムの譜面に新島と書き添えたのは二 年間無視し続けた存在に対する後ろ向きの関わりであり、単なる妄想の産物だ。 これ以上丹沢を相手に申し開くのも説明するのも面倒なので適当に話題を転換 する。 「新島云々はともかく、そもそも演奏は丹沢の領分じゃないだろ。いちいち突 っ込むな」 言い切る。 「あはは、突っ込み役は私だよ……気に障ったら謝っておくけどね」 ずいぶんと無理をした丹沢の笑いがつらかった。 「丹沢こそ演劇大丈夫か。あれ、お前の趣味じゃないだろ」 罪悪感を隠し話題を転換する。二人して電車に扉をくぐり、座る。 「うーん。確かに嫌いよ、ああいうの。でも千島さんがどうしても、ってね」 やっぱり千島か。でも 「千島さんもあまり趣味じゃないような気がするぜ。ま、受けはいいだろうけど」 千島という人間は受けを狙う人間ではない。 「変更点は秘密だけどね。私は千島さんの編集した演劇をやりたいって思った。 それに『果敢なる誇り』って千島さんの故郷のお話だからね」 意外な言葉に驚く。千島が故郷を離れ、下宿しているとは知っていたが、あ の離島出身だとは知らなかった。 その言葉が今まで引っかかっていた最後の鍵を解く。 人間離れした体力も力も、才能も全て生まれながらのものではない。それら は全て後天的に与えられたものだ。 そうだとすれば千島はどれほどの衝動と戦っているのか。むしろよく十八ま で生きて来れたものだと感心する。自分で自分の首を引きちぎりかねないとい うのに。 だが、千島が生きている、ということは後十年程度経てば戦争は終わる。 そして千島は俺と、その背負うものを怨む日が来るのだろう。 「相当の苦労をしてきたんだな、千島さんも」 いろんな思いを押し込めて何とかつぶやく。 「そうね、千島さんの目つきって時々人殺しのようにも見えるし」 こんなとき、女って鋭いのだなと思う。 「なあ、丹沢、それ、どんなときにそう思う」 一応聞いてみた。電車の扉をくぐり、がら空きのシートに腰を下ろす。 「やっぱ、先生と言い合う時、それから、もう一つは」 言葉を区切る。分かっている。俺にはその答えが分かる。 「俺に目を向ける一瞬だろう、多分」 丹沢が目を丸く開く。そう、多分千島は自分ですら気づいていないが、俺を 敵として認識している。強い理性がそれを完璧に覆い隠しているのだろう。 絶対に気づかないだろう。そしていずれ自分を抑えきれなくなったとき、俺 は千島に殺される。 いろんな思いが頭にあふれる。強く、強くしまいこむ。これ以上は誰かに知 らせる必要などない。 「ま、今日はお互い編集と割り当てか」 会話を振り、丹沢の顔を見ると既に目を閉じていた。寝つきのよさと食いっ ぷりは天下一である。丹沢も目を瞑って眠っているとかわいいものだ。ほんの 少し前髪を整えてやり、肩で頭を支えてやる。車窓からの暖かな太陽がまぶた を圧迫する。 二人して乗り越し、遅刻したのは言うまでもない。 |
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