毎度のごとく繰り返される朝にも変化は訪れる。 雨だ。 咲き始めの桜を無粋に散らす冷たい雨。水たまりに浮かぶ花びらと、傘に落 ちる花びら。せっかく開花した桜がもったいないというべきか、だからこそ風 情があるというべきか。雨を素敵だと思うようになれば大人になる、なんて言 葉があるけれど、雨にはしゃぐのは子供の特権だ。黄色いレインコートに黄色 い長靴のフル装備で黄色いかさを振り回し水を掬い上げる。それはそれでさわ やかだと感じた。以上、七時二十五分までの心境でした。 現時刻、七時半。小学生の吹っ飛ばした水の塊を頭から受け、軽自動車の水 撥ねを全身にかぶる。朝っぱらから悟りを開きかける。なぜに朝の七時半から ずぶぬれなのか、靴の中が水浸しなのか、人類は平等でないのか、雨はなぜ降 るのか、そもそも人類は地球の害虫ではないのか。そうこう考えるうちにも隣 を歩く上機嫌が水たまりを跳ね、その水が靴に入る。水属性の魔法ですら使え そうだ。涅槃に至る。 竹ざし一本分くらいしか離れていないはずの丹沢が能天気に無傷でいられた のだってなんとなく必然であるような気もする。用意周到というべきか、俺を 楯にしたというか、丹沢の差し出したタオルで首を拭きながら歩く。 「学校祭ね」 上機嫌が口を開き手を伸ばす。俺の鼻の頭についた桜の花びらを爪でつかむ 。少しだけ気恥ずかしい。顔を反らして脳みそを会話モードにシフトさせる。 学校祭。五月の十六日に行われる文化祭のようなものだ。ただし、一般の文 化祭で見られるような模擬店はごく一部の例外を除き学生は出展できない。ク ラス、クラブ活動の展示がおこなわれ、地元の農家や団体が直売テントを張る。 それはそれで盛り上がり、全員参加の義務も手伝ってなかなか良いイベントで はある。クラスで何かをするのもよし、クラブ活動の発表に出るのもよし、直 売テントを手伝うのもよし、何もせず一日をのんびり過ごしてもよし。一見何 をしてもいいように見えるのだが、そこは歴史古き高等学校。謎の掟が法律よ りも幅をきかせている。三年生はクラスで舞台発表をすべし。この舞台発表を 機に三年生はクラブ活動から引退、生徒会なんかにかかわっている奴も引退す る、というシナリオだ。そして学校祭が終われば大学受験に一直線。俺には関 係ない話だ。さて、会話に戻る。 「学校祭ったって、どうせ舞台だろ。三年生だし」 実は学校祭一週間前近いにも関わらず発表内容が決まっていない。隣から大 きなため息が聞こえる。 「舞台ったって演劇とか、演劇とかいろいろあるじゃない」 残念ながら演劇はありえない。 「ま、俺かお前かどちらかが乗せられるんだよな」 演劇なら丹沢、演奏なら俺。イベントのときだけは重宝される役柄である。 「今年も演奏、だったらいいなあ、って」 やけに嬉しそうだ。服が上機嫌を包んで歩いている。水たまりを蹴り上げて、 これ以上ぬれようのない俺の靴がまた浸水する。 「去年演劇がいいってあれほど言ってただろ、お前」 手が伸びて今度は俺の鼻をつまむ。暴力を振るい足りないらしい。 「だって幸一がまとめ役でしょ、嬉しいに決まってるじゃない」 ほう。俺がまとめ役をするとうれしいか。絶対に裏がある。下心満載、見え 見えの裏だ。 「で、どんな裏があるんだ」 そろそろ息が苦しい。 「裏なんてないって……幸一のような音楽しかできないダメ人間が目立つこと のできる最後の舞台でしょ。ドジ踏むとこを想像すると笑えて笑えて」 鼻をつまみ返す。丹沢の小さな鼻を思いっきりつねり上げてやる。俺の右手 と丹沢の左手がクロスする。通行人が道を譲り、犬が吠え立て、自転車が後ろ を眺めて走る。ああ、アホが二人、橋の上。結局電車に乗るまで鼻をつまみ続 けた。そんな雨の日も悪くはない、そう思う。丹沢と出会って随分変わった俺 がいた。こんな関係がずっと続けばいい、真剣にそう思う。 校門をくぐり、丹沢から身を離す。 「あ、俺音楽室行く。連休前の片づけ残ってるから先教室行け」 新島のぶっ倒れた処置を坂本講師に頼んだままだ。礼くらいしておこう。 「そう、残念。せっかく赤い糸で両手を絡めて教室に入ろうかと」 丹沢ポケットに手を突っ込む。赤く塗られた手錠が見える。作り笑いを絞り 出して、音楽室へ直行した。 音楽室のノブに手をかける。 ほこりをかぶったバイオリンケースが目に飛び込む。キーボードの電源が入 りっぱなしで、虎刈りのように埃をかぶったドラムがあって、木琴の箱が散ら ばっていた。連休前のままだ。足元に倒れていた新島の姿を思い浮かべる。唇 が紫色で、足は白くて細かった。こんな足で身体を支えられるなんて思わなかっ た。そのまま折れてしまいそうだった。小さいくせに決して人に慣れない小動 物のような顔とドラムを前にしたときの強すぎる顔が思い浮かぶ。 「橘。おはよう」 控え室の扉が開く。坂本講師だった。珍しく早めに来たらしい。 「あ、おはようございます。このあいだは」 「新島は大丈夫。単なる貧血だったから乗っけて送って行ったし」 坂本講師が軽く告げる。感謝する。 「ありがとうございます、先生」 少し笑う。 「別に感謝されるようなこと、してないわよ。予想もできることだったしね」 ……奇妙だ。新島がドラムを演奏したことに何の驚きもないのだろうか。 「知っていたんですか、新島のドラム」 ということになるだろう。 「ん、まあちょっとはね」 何事もないかのように言う。そして微妙な沈黙。 「新島、バンドに誘っていいですか」 「それは橘の考えしだいでしょ。さて、片づけ終わったらさっさと教室に行き なさい」 もう話すことはない、というように控え室のドアを開け、背を向ける。楽器 を片づけ、ドラムに積もったほこりを軽く拭き、音楽室を出た。坂本講師の言 葉が頭の中に渦めく。 橘の考えしだい。 考える。新島を誘ったとしたら。今以上の未来、圧倒的な力を手に入れるこ とへの期待。全身水浸しの気持ち悪さなど、吹き飛んだ。 咲き始めた桜の中を抜け、上靴に履き替え、四階までの階段を一気に登りき る。舞い上がるってのはこのことだ。授業開始まで後わずか、登校する生徒の 流れも絶え、廊下には俺一人 ではなかった。前方に人影を一つ見つける。完璧に伸びた背筋、昨日下ろし たかのような折り目の制服、重たすぎる機械的な足の動き。 新島だ。その姿がただ無表情の無感情ではなく、ひどく寂しそうな、どこか 人を待ち続ける姿に見えた。 俺の期待がそう見えさせていると分かっている。だけど。 「……新島。おはよう」 無言でこちらを見る。返事は返ってこない。三年間交わすことのなかった挨 拶だ。 「その、さ。この前は大丈夫だったか」 返事はない。だが何とか分かるレベルで頷き、歩き出す。俺の前を横切り、 足を加速させて教室から遠ざかる。その背中に叫んでやった。 「今日も音楽室な。待ってるぞ」 こちらを振り向くことはなかった。でもその後姿は遅くなり、止まり。小さ な背中が廊下の真ん中で、止まった。 歩いて新島を追う。驚くほどに細い背中が迫る。 この身体でドラムを演奏するのだ。そう思うと頼まれもしないのに、新島の ことで頭がいっぱいになる。 「とりあえず、出席だけでもとられておくぞ、新島。ほら」 背中に手を添え、押してやった。背中が小さな抵抗を示す。 「っあ」 無視した。その背中をもう一度しっかりと押してやる。 「手間取らせるな。行くぞ、一緒に」 ほんの少し照れ隠し。二人して歩く誰もいない廊下に、水浸しの靴下が無駄 に爽快だ。 |
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