誕生詩 -Prelude-

第10話

 昼食は吉岡に加え、丹沢も席を囲む。吉岡は買ってきたパンは五秒で平らげ、
丹沢の弁当の中身をカエルのように物色し、ハゲタカのように奪い、アリのよ
うに蹂躙される。そんな吉岡を人間肘掛けにして丹沢と食事を楽しむ。ネタに
は困らない奴だ。
 食後の授業は諸手を挙げて睡眠欲を迎え爆睡。
 ……
 …………
 ………………
「おいクズ、今の聞いてたか」
 声に起こされる。反射的に答える。
「よ、余裕で」
 余裕で聞いていなかった。全力で背筋に力を入れ、飛び上がる勢いで立ち上
がる。目の前には俺を心底馬鹿にしたような笑い顔。堀川先生である。
 ま、事実俺はアホだから正当な評価ではあるのだが。
 ただ、とにかく人を挑発したがる性癖を持っているのが難点だ。何を教えて
いるのかはあまり記憶に残っていないが、執拗さにかけては天才的。アホらし
すぎて相手にしてられないのだが、一応相手にしてやらざるを得ない。
「ってかそもそも今俺は何の授業受けてるんだ」
 滑った口をあわてて止める。
「……聞いてたってのなら訳せって言ったんだ、クズ」
 ちなみに英語の訳をするのか古典の現代語訳かをするのかですら知らない。
問題が分かったところで不可能だろうけど。
「あ、待ってください。今しばらく」
 斜め後ろから手が伸びた。小さな紙が視界の隅に映る。振り向くと丹沢がこ
の日のために練習してきましたというようなウインク。親指を立てて感謝する。
絶妙の連携だ。後でジョッキパフェでもおごってやろう。
 メモを見る。ありがとう丹沢。

 幸一へ☆☆☆

 が・ん・ば・れ by風花

 コケた。
「待て、この☆はなんだいったい」
「やだ。こっち見ないでよ、伝染りそうでしょ」
 ジョッキで殴り倒す空想をする。机に思いっきり掌を突いて前を向く。
「すんません。当然のごとく聞いていませんでした」
「……ったくな」
 その瞬間、突然隣で突っ伏していた吉岡が動く。
「うーん、よく寝た。橘、もしかしてもう下校時間か、堀川のアホはもう消え
たのか」
 授業中に寝てたと発言するのは控えろ。
「ちなみに堀川先生は目の前な」
「……マジで」
「ああ、大マジだ。で、訳せって」
 吉岡の顔が青ざめる。
「え、俺ヤクどころかタバコにも手つけてないぜ」
 周囲の空気が白けるを通り越した。ため息が更に増える。
「たいした授業妨害だなアホどもが」
 堀川が口を開く。これ以上ため息の元を増やしたくはない。
「すんません。俺落ちこぼれの最先端ですから。もう気にせずに授業やってく
ださい。端っこで聞いてます」
「いいよ橘。お前が堀川に卑屈になんかならなくていいぜ」
 隣から吉岡の茶々が入る。
「ほう、カスでも喚くのか。いつだって退学願いを受理してやるって言ったろ
、お前ら」
 椅子を蹴り上げようとする吉岡を反射的に押さえつける。
「邪魔すんなよ、橘」
 俺は堀川をある程度無視しているが、吉岡は積極的に敵対しようとする。元
々人に挑発的に出る堀川と直情的で意外に正義感の強い吉岡だ。一度職員室で
喧嘩し、吉岡のストレート一発で伸びた堀川は見物だった。見物ではあったが、
さすがに暴力行為は許されることではない。あのとき千島の尽力がなければ今
の吉岡はここにはいない。
「吉岡、お前が挑発に乗るからだ。また千島さんに迷惑かけんのか」
 もう、次同じことが起こると誰にも吉岡をかばうことはできない。たとえ千
島だって無理だ。
 堀川が教卓に手をつく。
「貴様ら職会に出させてやろうか。なあ」
「離せ、橘。我慢しなくたっていいんだって」
 俺を撥ね退けて吉岡が立ち上がる。
「おい、吉岡、待てよ」
 そんな言葉でとまるくらいなら誰も苦労はしない。そして
「てめえの授業がつまらんから寝てるだけだろ。起こしたけりゃ魅力的なこと
やれ。この粘着野郎」
 吉岡が言い切り、拳を構える。教室の静けさに隣のクラスの笑い声が空しく
響く。
 思うつぼだ。このままでは吉岡が殴りかかる。一度退学勧告すれすれの吉岡
に二度目はない。
 覚悟を決めた。吉岡を止めることはできない。ならば、俺が先にやってしま
えばいい。俺も席を離れ、堀川の前まで歩む。
「堀川先生、職員室でなくていい。ここで俺とやってくれ」
 ここまで言ってしまえば手が出なくとも言い訳はきかないだろう。職員会議
に出ることになれば処分は本気で退学勧告以外にはない。それでもいい。身構
える。
「役立たずほどよく吠えるな。そこまで言った手間、覚悟はできてんだろうな」
 堀川も拳を構える。その一瞬の隙を吉岡が見逃すはずもなく、俺だって無駄
にするわけもなく。
 ああ、こんなことで終わりか。そう思った。
「退け、橘、吉岡」
 大きな声が飛び込んできた。振り返る。
「堀川先生。これはクラス内の問題です。先生の権限は及びません」
 強く透き通る声だった。その先に長い手が伸び、長髪が一瞬波打つ。
 千島だった。
 その視線に俺も、吉岡も、堀川も射抜かれる。

 先生の権限は及びません。

 それはこの学校の鉄則だ。自由、自律、自主。学校の掲げる校風を具現化し
た掟である。具体的には生徒間、クラス内の課題や問題は生徒が解決する。教
師は干渉もしなければ助言もしない。ある程度の賞罰を与える権限ですら生徒
にある。規定では停学までを決定できるが、歴史上停学処分を決定したのは千
島、処分を受けたのは新島ただ一人であるらしい。こと生徒間に関しては限り
ない放任、自戒自浄能力を期待されているのだが、教師と生徒間、または生徒
が校外で問題を起こした場合、これは学校が対処する。
 つまるところ、現在起こっている事件の当事者が誰で、どこであるのかが非
常に重要な問題となる。それが教室内での傷害事件であれば生徒内での解決を
優先できるが、校外でやってしまえば間違いなく退学勧告だ。だが、世の中あ
らゆる物事にぎりぎりのライン、というものがつきものである。例えば授業妨
害。クラス内で起こったともいえるが、教師と生徒の問題ともいえる。例えば
修学旅行中の事件。校外とも言えるが、生徒内ともいえる。
 冷徹な千島がなぜ多くの信頼を獲るかというとこのシステムにある。クラス
での委員の割り振り、クラス間の役割分担に教室使用、そして生徒の賞罰。全
ての側面において教師の入り込む隙を一切与えず、適切な自主対応を対外的に
主張するからだ。当然生徒には公平、公正な賞罰を強く求めるが、生徒に厳し
い千島は教師に対してはそれを遥かに上回る強さで対処する。特に俺のような
落ちこぼれ生徒から絶対的な信頼を獲ているのは当然である。生徒から見れば
仏の千島、教師から見れば鬼の千島である。
 千島が俺と吉岡に軽く笑いかけ、堀川に向き直る。
「だが千島。これは俺と橘の」
 ぎりぎりの声だった。必死に千島の言葉へ対抗する堀川が哀れにすら見える。
「それでは堀川先生による当クラスへの不当な干渉、挑発行為も処分対象とし
て検討いたします。私は堀川先生の将来も考え、クラスでの処分を提案させて
いただいた次第ですが」
 丁寧な口調が恐ろしい脅迫に化ける。とんでもないカマのかけ方だ。時間を
かければ言い返せるだろうが、自分を責めたてられて冷静な判断を出来るはず
がない。そこまで見越して千島はたっぷり十秒、反論を待つ。
「……ではの問題はクラスで対応いたします。ご協力ありがとうございます」
 勝ち誇ることもせず、堀川から目をそらし、そしてその目が俺たちに向かう。
「橘、吉岡。授業を再開する前に堀川先生とクラスに謝罪しろ」
 今なら全裸で土下座しろ言われても喜色満面になれそうな俺がいた。
「堀川先生。申し訳ございません。それから授業時間を止めたのは俺の責任で
す。ごめんなさい」
謝る。吉岡はふてくされてそっぽを向く。
「ほら、お前も頭下げろ」
「うるせえ。俺は間違ってないからな、橘」
 それでも吉岡の頭を押さえつけて形ばかりの謝罪をさせておく。こんなとき、
たとえようもなく孤独を感じる。俺を支えるものは音楽だけで、それ以外では
俺に関わろうとする生徒なんていないのだ。

 放課後。丹沢の気合の入ったパンチを受け止めた俺が思いっきりビンタを食
らわされた吉岡を引っ張って生徒指導室へと向かう。千島が待っていた。
「……悪い。ほんとうに謝罪の言葉もない」
 腕組みする千島に頭を下げる。
「橘、頭を上げろ。規律を乱す行為は断じて許されない。だが、信念を貫くこ
と自体は褒めてやろう。だから私も自分の信念を通すだけだ。手を出せ」
 無駄に格好いい千島と目線を合わせ、紙を受け取る。おなじみの反省文用紙
だった。
「期限は明日まで。提出は私に頼む」
 反省文は直接校長に提出のはずだ。そして提出と同時にクラスでの裁量の可
否が決められる。校長に提出するのが千島、ということは。
「千島さんが処分を受けるのか」
 反省文の用紙を鞄にしまう手を止める。
「お前たちに関係ない。クラスで処分すると主張したのは私だ。以降の責任は
私がとる」
 ほれぼれするほどに格好いい、のだが見過ごせない。
「いや、俺は千島さんが処分され」
 一歩詰める。
「いいからさっさと体育館なり音楽室に向かえ。これ以上煩わせるな」
 千島に背中を押され、生徒指導室から退出させられる。

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