誕生詩 -Prelude-

第8話

 丹沢が腕時計を見、坂本講師が体制を微妙に整える。そんな中を俺が歩き、
扉に近づく。
 開けた。
 人影が映る。新島だ。白く、小さい身体を雨除けのトタン板の下で立たせる
足のひどく頼りなげな姿。二年間と少し、見なかったことにしていた姿がそこ
にあった。
「新島、来たなら入れ。ちょうど」
 今更そんな言葉が届くのかどうかも知れないけれど。扉の敷居一つ分隔てて
その場から動こうとしない。室内に目を泳がせる。その瞳に丹沢が映る。
「あ、丹ざ」
 言葉をかけようとした瞬間、新島は背中を見せて走り去る。
「今の、新島さん、よね」
「なるほど、新島ね」
 背後からそんな声が二人の口から漏れる。何かに納得したような坂本講師の
顔に、険しすぎる表情の丹沢。どちらもできれば近づきたくないが、退路はど
こにもない。
「ほう、新島ねえ、しかし新島かあ。うん、一波乱ありそうな予感」
「ん、それはどういう」
 坂本講師が繰り返し、丹沢がわざとらしく腕を見る。
「ちょっと、幸一。もう時間も遅いし、練習いいでしょ。さっさと帰ろう」
 ちなみに丹沢の腕に時計は見当たらないのだがそんなことに関係なく片づけ
が始まる。あれよあれよという間にキーボードがすみに追いやられ、楽譜が鞄
に入り込み、机が元の位置に戻る。有無を言わさぬとんでもない笑顔が向けら
れる。丹沢が俺の袖をつかみ、強引に荷物を肩にかけ、腕を引っ張る。よし、
ここはフェイントだ。
「ちょ、ちょっと丹沢さすがに当たってる胸に腕が」
「う、嘘っ」
 かかった。力が弱まる。瞬間、丹沢から腕を引き抜く。
「嘘に決まってるだろ。だいたい当たるほどのものを持っちょるべ」
 言い終わる前にゼロ距離の肘が肋骨にぶち当たる。
「口は災いの元だよ?幸一」
 視界が暗転し、どこかに引き釣り出される。かろうじて生き残った聴覚には
騒ぎ立てるような声。多分、学校の中を女子に腕引かれてついていくというあ
まりにアレな光景に哀れみの嘆きをかけてくれているのだろう。いずれにせよ
重篤な身体の俺には何もわからない。いかなる抵抗も無駄だ。素直に引っ張ら
れ、靴を履き替えて校門へと連行される。
 ………………
 …………
 ……
 ようやく口を聞ける状態になったのは桜並木の終わる場所まで来てから。人
の目もなくなり、小川沿いを吹き抜けるやさしい風と、長い日の中、この世の
元気を集約したような丹沢が横に並ぶ。交わす言葉なんて何も要らない。ただ、
底抜けに元気な丹沢の横を歩くだけでさわやかな気分になれる。空に目を移し
た。
 やっぱり元気で、楽しそうで、いつもの丹沢だった。
 それでもその笑顔がどこか作り物めいたものだということは鈍感といわれた
俺にもわかった。丹沢は相当に無理をして、俺の目の前では元気なふりをして
いる。だが、目を離した瞬間、表情を持続させる元気ですらなくこわばってし
まう。
 堤防の上。今日の朝も一緒に歩いたその場所で。
「丹沢、どうかしたのか」
 地雷かもしれない。それはわかっている。
「だいたいね、新島さんって大嫌いなの」
 爆弾に火がともる。
「新島を嫌いってまた突然だな」
 人間生きていれば好き嫌いはある。それは認める。だが、新島に関して言え
ば好き嫌い以前の問題だ。遠くから見ている分には無害極まりない存在であり、
嫌いと明言するようなものではないから。
「そうよ。新島さんよ。あの人が同じクラスってだけで気が滅入る。あーあこ
の学校クラス替えってないもんね」
 そのおかげで俺は人をサンドバッグとしか考えていない丹沢と一緒のわけだ
が。
「確かに新島は無表情だし、ちょっと気が滅入るってのはわかるけど」
 言葉が更に続く。
「何も話さないのが偉いと思ってんだかなんだか知らないけどさ、あれって鼻
もかけないような顔してクラスの子を見下しているわけなの」
 明らかな嫌味ですらあった。
「知らないけど、それはちょっと穿ちすぎだろ、丹沢」
「そうかな。きっと幸一は鈍感だからわからないのよ」
 ここに来て鈍感。
「あのさ、新島は確かに類稀な変人だけどお前がそこまで嫌がるのってなんか
理由でもあんのか」
 丹沢の顔が引きつる。
「幸一、もしかして新島さんの肩持つの」
 信じられないものでも見るかのようにこちらに瞳を向ける。が、信じられな
いのはこちらのほうだ。
「いや、別に。だって好き嫌い以前だろ、新島って。黙ってりゃ無害じゃない
か」
 屋上での出来事はともかく、新島とは意識に上る存在ですらないはずだ。
「幸一はクラスと人と関わろうとしないからそうかもしれないけど、あの子が
いると周りが暗くなって気分悪いのは事実よ。だいたい幸一は男でしょ。体育
とか旅行とか班分けで一緒になることもないくせにさ、知ったようなことを言
わないでよ」
 性別を持ち出されると何もいえないが、確かに旅行なんかで一緒になると苦
しいだろう。
 だから、最初からそうしておけば良かった選択肢に踏み込む。
「落ち着け。新島とか別に話題にしなくていいだろ。珍しく丹沢と帰ったんだ。
なんか楽しい話でもしようぜ」
 この話題はこれで終了。それでいい。
「そう、ね。幸一は今から愛しの丹沢さんと帰れてラッキーって喜んでくれる
はずよね」
「わはは。お望みとあれば全裸で五体投地してやろう。その代わり丹沢も愛し
の橘と帰れたって泣き叫べよ」
「あら、泣き叫びたいの、幸一。任せて」
「任せるか」
 慎ましやかな俺としては避けられるものは全て避けておきたい。
「でも、あんたもヘタレ吉岡と二人で慰めあって帰るより女の子と帰るほうが
格好よくていいでしょ」
 それは格好いいというものなのだろうか。何かと突っ込みたいところではあ
るのだが悪い気分ではない。何かと素行にアレなところはあるが繊細な心遣い
にときどきはっとさせられる言葉をつむぐ丹沢を嫌いではないのだから。
「わかった。特別にお望みどおり言ってやろう。愛しの丹沢様と帰れて俺はむ
せび泣いているぞ」
「うわ、気持ち悪い。近寄らないでよ」
「って言えって言っただろさっき」
 いつもどおりの会話を絶妙なバランスでこなし、朝も通った川沿いの土手を
二人で歩く。他愛ない話に花が咲き、今日のサボりすぎにお灸がすえられる。
川沿いにはへたくそな中学生のギターが響き、河川敷を筋肉だけが伴侶のよう
な爺さんが走る。朝とは違う日常の風景。傾く日の光に目を細め、金色の世界
に金色の雲をまぶたに閉じ込めた。言葉も少なく二人で見とれる川辺の風景。
行くときはあんなにも遠い川沿いの道が、帰るときは短い。だから精一杯そん
な時間を延ばす工夫をする。
 俺の家の前。丹沢が向き直った。今日一日を思い出す。ほんとうに、いろい
ろあった。
 床最高とか。
 そんな締めくくりに最適な言葉をひねり出す。
「丹沢、今日はしっかり脳内彼氏に慰めてもらえよ」
 ストレートを打ち出す。
「じゃあね。幸一は部屋で二次元の妹に想像をかき立ててしっかり寝なさいよ」
 カウンターが炸裂する。そんなこんなで一日を締めくくる。精一杯の悪態に
飛びっきりの笑顔。どんな言葉も吹っ飛ばす笑顔だった。その笑顔だけで今日
の夜の孤独を抑えられそうな気がする。

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