何事もなく、何も突っ込まれず放課後を迎えた。 「ねえ、幸一」 はずなのだが、今俺はいやな汗を全身にかいている。それほどまでに甘いさ さやきだった。背筋が寒くなる。これが死の間際に訪れる安らぎか。 「な、なんでしょうか丹沢」 丹沢だ。破壊神だ。悪夢だ。 「聞こえてるんですけど」 絶望だ。 「幸一は放課後、何してるの」 激しくやさしい猫なで声に人生の終焉を垣間見る。 「ああ、音楽室でキーボードの練習だ。知ってるだろ。確かお前昔一度だけ来 て五分で帰って待て、丹沢。頼むから拳を収めろ」 拳で過去は変わらない。体中のエネルギーを顔に投入し、笑顔を作る。殺気 バリバリのマサイの戦士も瞬殺だ。 「じゃ、決まりね。今日は音楽室で待ってるから。はい、これあげる」 何が決まったのかわからないが笑顔で手を差し出されるとつい受け取ってし まう。 「どうも、って音楽室に来るのか」 「うん、よろしくね」 突っ込みもむなしく丹沢が教室から抜け出す。その背中を呆然と見送った。 丹沢が音楽室。コアラが走り回るより信じられないことだ。はて、どんな心変 わりだろうか。理解に苦しむ。さて、丹沢は俺に何を渡したのか。 ……気がつけば右手に握られているものは竹箒だった。どうやら掃除当番を 押しつけられたらしい。 「っくそ。あのつるぺた女が」 「橘それ聞こえたらまた精神的に全裸にされるよ、橘くん」 掃除当番らしき同級生が耳打ちする。 「うるせえ。目の前にいなけりゃ怖くねえよ。だいたいあいつの胸のふくらみ は全部筋肉だぜ。わかったら奴隷のように掃除しまくりゃ」 瞬間、どこかから飛んできた花瓶に頭を殴られる。 ……丹沢め。 気合を入れる。猿のように箒を振り回し、牛のように机を押す。一瞬で掃除 を終わらせ、階段を走り降りて校舎の裏を目指す。 音楽室到着までわずか七分。扉を開けると窓際所定位置に坂本講師。そして その側に丹沢。俺の姿を確認すると会話を止め、互いに別方向に目を泳がせる。 どうせまた丹沢が今日の吉岡についてでも話していたに違いない。 「失礼します、先生。それから丹沢。掃除サボったろ。しかも花瓶投げあがっ て」 花瓶を投げられたのは半分程度俺が悪いとは思うが。 「あら。だって私は幸一の広い家を掃除しているんだよ。教室くらいしてくれ たっていいじゃない」 全然よくない。というか俺の家を掃除という名の下に家宅捜索するのはやめ てくれ。 「ふーん、丹沢は橘の押しかけ夫婦だったんだ。先生びっくり」 「違いますから」 「あはは、これは私の肉奴隷ですよ、先生」 「……もう、何もしゃべってくれるな、丹沢」 挨拶だけでとても疲れた。腰をピアノ椅子に降ろす。 「そうだ、今日わざわざ音楽室くんだりまで来たのはこの曲を弾いて欲しいか らよ」 丹沢から渡された楽譜を見る。一昔ほど前にはやったロックバンドの譜面だ。 そうか、丹沢は俺にこれを弾かせたいがためにわざわざ音楽室に来たのか。 「ん、まあ初めてで弾けるかどうか分からんがやってやろう」 一度聞いた曲をそのままコピーするのは俺の得意技だ。二分ほど楽譜を眺め、 キーボードに向き直って丹沢のリクエストに答える。軽い感じで進み、一度だ け転調する。多分そこがこの曲の見せ場なんだろうけれど陳腐といえば陳腐な 曲作りだ。だからこそ安定していつでも聴ける曲なのだろうが。極端に言えば 曲作りはほとんどが型とテクニックで、アイデアなんてものの介入する部分は ほとんどない。だから初見ではあったが楽譜を見ただけで適当な伴奏もつけら れる。ま、こんなもんだろ。 「ありがとう。幸一。でも今ちょっとだけ退屈だなあって思ってるでしょ」 弾きおえたその瞬間。こちらを見る丹沢がそう言う。 「よくわかるな。確かに曲は少々退屈だった」 「そりゃ分かるわよ。音で」 単純にすごい、と思った。ピアノを習っていたころ、教官からよく言われた 言葉がある。そんな弾き方では作曲者が悲しむね、と。でも感情の表れやすい ピアノに比べ、キーボードは画一的な音だ。だから音で分かったというのは丹 沢の嘘だろう。多分、丹沢は俺の表情と弾き方から「俺の退屈」を読み取った のだ。 「今の曲はちょっと盛り上がりに欠けるだろ、だから弾き方も適当だったしな」 その適当さが聴覚として認識されただけのことだ。 「でも私はなんていうかな。ありきたりの同じフレーズが延々と続いていくの が好き。せっかくの音楽だもの、せめて音楽だけは終わらなければいいのにっ て思うから」 終わらない音楽。永遠に続く旋律。言いたいことは分かる。でも。 「終わってしまうのが音楽の永遠だろ」 現実的な問題ではなくて俺の信念だ。 「意味わかんないよ。賢い私にもわかるように説明してちょうだい」 言葉を付け加えることにする。 「うん、たった三分の曲でも三時間とか三日かけて誕生するだろ。それを誰か が三年間聞き続けて、曲が三十年は長生きしてくれればそれが音楽にとっての 永遠だと思う。一度誕生した曲は絶対になくならないからな」 丹沢が口を閉じ、俺を見る。 「もうわけわかんないよ、幸一」 「でも、歌詞のある曲だったらやっぱり詩が大切だしさ。音楽には持って生ま れた旋律と一緒に持って生まれた詩があると思う。それが永遠に続く音楽を生 み出す、テクニックではない最後の砦、って俺何言ってんだ」 なんかよくわからん。丹沢の話から大きくずれたような気がする。あまり永 遠とは関係ないが、一つの国よりも長生きする曲なんてざらにある。民謡の世 界なんてその最たるものだ。 「はあ、幸一は音楽になれば語りますよね、先生。支離滅裂だけど」 「まあ、橘の取りえはこれくらいでしょ。あと物腰とか。やっぱ橘は橘家の出 身だもんね。御曹司チックなとこも」 「その話題は勘弁してください、先生」 「え、幸一。橘家って……もしかして」 「そうだ。この学校の理事にもいるだろ、橘って。軍需産業トップ、北東技工 の橘だ。知らなかったのか丹沢」 丹沢がこの話題を知らないことは分かっていたが、あえて皮肉を混ぜておく。 「う、嘘でしょ。先生、それ」 「本当よ、丹沢さん。橘はこの学校にだってコネで入ったんでしょ」 「……義理立てと言ってください、先生。それに丹沢。橘家は女系なんだ。も ともと俺は先生の言うような御曹司でも後取りでもなんでもない。それに俺の 母親が死んだ以上、俺と橘家の関係は切れたようなもんだ」 「……それで、音楽なんだ」 ため息をつく丹沢の顔を見遣ると少しだけ笑う。 「そうだな。橘家は嫌いだけど、唯一音楽の機会をくれたことには感謝してい る」 音楽は俺と橘家との最後のつながり。子供のころからずっと音楽だけだった。 母親が唯一、俺に遺してくれたものが音楽だった。そして今、ほんとうに音楽 しかない。母親も、同居人も奪われ、それでも音楽にだけはすがり。 「ほんと、音楽にだけはとても繊細なのにね。他のことになると鈍感で低レベ ルで、お馬鹿さんで、ヘタレで、不器用で」 「よくそれほど悪態ばっかり思いついたな、丹沢」 笑えてしまう。 「でもなんていうか、つくづく勝負にならないわ、ほんとに」 一ヶ月溜め込んだようなため息をつく。 「丹沢もかわいそうねえ」 坂本講師だった。 「え、丹沢がかわいそうって」 突然坂本講師が言った言葉に反応する。 「橘。だからそういう質問を丹沢にする時点でかわいそうなんだ。で、丹沢も 運悪くというか若気の至りと」 坂本講師の茶々が混乱に拍車をかける。 「ちょっと坂本先生。それ以上口がすべるようでしたら大切なバイクに模様が つきますよ。十円玉か五百円玉か選ばせてあげますけれど」 戦々恐々とした会話が繰り出される。ジャブの打ち合いだ。女は怖いという 永遠の法則を垣間見かけたのでキーボードに集中するふりをした。よし、ここ は俺が話題を掻っ攫って二人の女性から賞賛を浴びて両手に花。丹沢と坂本講 師を眺めて 「いや、そこの二人は花でもドクダミとヤブガラシか」 口が滑ったのは俺だった。 瞬時に一つの拳と一つの踵が振りあがる。 拳が口を開く。 「ごめんちょっと休みたかったんだよね、幸一」 踵が言葉を発する。 「橘、ちょっと音楽室で休んでいく」 永遠に休めそうだった。女という生き物は性別だけで戦争から一瞬にして団 結できる、らしい。あやかりたいものだ。ごまかしに専念する。 「ま、お二人様。とりあえず落ち着け。うん今日も丹沢は俺の太陽のようにま ぶしいぞ陰湿な坂本先生とは大違いだ。うん、坂本先生は大人の女性感が炸裂 しているな無乳の丹沢とは大違いだ。さて、坂本先生、昨日の作曲なんですが いい感じに骨組みが出来上がりました。とりあえず聞いてくれますか」 「……ねえ、坂本先生」 「そうね、殺そうか」 「って俺が悪いんですかっ」 「「悪いに決まってるでしょ、このアホッ」」 …… 一通り殴り倒され、阿鼻叫喚の地獄の後、ようやく満身創痍の身体をキーボ ードに向けて、演奏する。音源は右手も左手もグランドピアノ。少々テンポを 落として一音一音を確かめていく。キーボードで弾くその曲は俺の手から初め て息吹をあげる。一度聞いただけのその旋律を思い出し、音楽室の空気に旋律 をなじませる。人工的なスピーカーから流れる本物らしいピアノの音が遠くの 塵ですら震わせ、防音壁に吸い込まれる。約三分。簡単な伴奏で彩りを添えた その曲を弾き終えた。 「……すごい、今のいいよ、幸一」 「橘、すごくよかった。私のより格段にいい。普通に売れそうな感じね」 手放しで褒めちぎられた。あまりの高評価に自分自身が驚く。俺が作った曲 がここまでの賞賛に包まれたことはなく、伴奏は自分でつけたとはいえ新島の 曲だ。 「いや、これは俺が考えついたものじゃなくて」 そこまで言って思い出す。新島だ。確かに今日の四時間目、サボって屋上に 出て新島に出会った。そして今日、音楽室に来い、そう言った。 扉に目を向ける。 図ったようなタイミングで音楽室の扉が微妙な音を立てて揺れる |
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