誕生詩 -Prelude-

第6話

 空の向こうから透き通った音が聞こえてきた。
 それは心を洗うような旋律。閉じた目に楽譜すら思い浮かぶ。悩みに悩んだ
イントロを一瞬で突破し、序盤の静けさから一気に激しく盛り上がる。疾走感
溢れるメロディーが一切の繰り返しをせずに突き進み、突然音が途切れる。
 時間にしてわずか三分ほど。俺では考えつくはずもない強いメロディーライ
ンだった。言うならばセンスの問題だ。主旋律を聞いているだけで副旋律も、
ベースも、歌詞すらも頭の中に組み立つ。鳥肌が立った。
 ただ、それは美しくて完璧だった。
「……って夢、か」
 寝ているときに思いつくなんてことはよくある話だ。覚えている旋律を今の
うちに紙に書き写そうと、ポケットの中の紙を探る。
 ……ない。五線紙がない。
「風で吹き飛ばされたか……」
 身体を起こして、屋上を見渡して、そしてフェンスに
 人影があった。
 風に揺れるリボンの色が同じ学年の生徒であることを告げている。
 逆光のその影を自分の知る人と重ねていく。肩ぐらいまで伸びた髪、身長は
小さめ、スカートだから女子生徒で、足は折れそうなほどに細くて。
 風が吹き、スカートの裾がはためいて。
 こんなとき、自分がどうして男に生まれついたのだろう、と思う。むしろ一
陣の風となりその絶対領域
 アホか、俺。
 アホなのだろう。その証拠のように、俺はその人影に見とれている。
 俺はずっと、欲に囚われて生きていくのだろうと思う。
 空を見上げ、手すりに手をかけていた。春先の少し涼しい風の揺らす髪と小
さな後姿が強く見える。
 振り返った。
 それが始めて見るその人の姿。ずっと一緒だったはずの、その人。
 新島亜紀だ。その姿は、ただ、太陽のせいでまぶしい。春間近のうす桃色の
風が俺の前を通り抜ける。
「新島、それ」
 どうしようもない俺の言葉に新島が身を硬くする。巻貝を背負い忘れたヤド
カリのごとし、だ。身を硬くして、そして白いものの握られた右手を差し出す。
 俺の五線紙だった。
「多分、今のほうがいいと思うから、だから」
 冷たい、白い印象の声だった。座り込む俺に頭の上から投げかけられる。初
めて新島と話すことの緊張だろうか、それとも、俺が音楽をする人間としての
格の差、だろうか。
「悪くはなかったな」
 ほんの少し冷たさを残した風が一枚、新島の肩まで伸びた髪が風になびく。
その姿にまた見惚れる。
「……」
 新島をこんな近くで長い間見たことすらなかった。気がつくと口が開いてい
た。
「もう一度、さっきの吹いてくれないか」
 ほんの少し、顔つきが変わって背中を向ける。口笛が始まった。
 流れるように音が風に乗る。空のむこうに音符が流れ、必死でそれを記述す
る。春の微風に力強い旋律が輝く。三分の口笛。四時間目の終わりに行われた
独演会。新島が舞台に立ち、俺一人と太陽と屋上の風が観客。
「今日はこれで終わり、だから」
 もう餌をもらっても芸をしませんと宣言する。聞いているとわずか三分ほど
の曲であろうとも口笛にすると結構疲れるのだろう。話題を変えることにした。
「あ、新島。うちの定期公演」
「行ってない。知らないそんなの」
 途中でさえぎり、激しく否定する。
「いや、まだ来たかどうかも聞いてないんだが」
 茹で上がっていた。正直、笑える。あの新島が、鉄壁の仮面の新島が赤くな
るなどと思っていなかった。
「知らない」
 それは微笑ましくすらある。全身で「行きました」って言っているようなも
のなのに身を小さくすれば嘘が正しくなると思って。
「いや、別に構わないんだけどな。興味あるなら今日の放課後にでも音楽室、
来てくれよ。さっきの楽譜にして、新しく曲にしてみたいからさ」
 音楽の話を振ると突然こちらを振り返る。
「音楽室」
 不器用な言葉で必死に話しかける。笑ってしまった。
「ああ、音楽室だ」
 その声に少しだけ眉をひそめ、俺を見る。一応抗議しているつもりなのだろ
うが笑いを誘う以外の何物でもない。そして顔を真っ赤にして昇降口に駆け出
す。新島、亜紀。三年間一緒のクラスで、唯一話したことのない生徒。名前以
外の何も知らず、ずっと見ないようにしてきたその姿。三年間意識の外に追放
していたその姿がきれいだった。ま、男の思考なんて「かわいいは正義なり」
だから仕方ない。

 五時間目のチャイムがなった。四時間目を完全にサボりきったわけだ。そろ
そろ頃合だし、新島の下りた階段を伝い、教室に戻る。
 教室のドアを開け、後ろをそっと歩く。全員が俺に注目した。現国の教師ま
でもが顔をのぞき込んで気の毒そうな目線を向ける。謎の沈黙と視線に、嫌な
ものを感じる。顔に何かついているのか。
「ん、遅くなってすいません。どうしたんですか、先生」
「橘くん、もう大丈夫なんですか」
 何のことか分からないが適当にごまかす。
「はい、片づきましたし」
 教室にざわめきが走る。なにしろ適当に言った言葉が教室を凍らせたりざわ
めかせたりだ。無駄に注目を浴びる意味がわからない。
「困ったら友達もいいですが先生にも相談してください」
「は、はい、ありがとうございます」
 意味は分からないが、とりあえず親身になってくれているらしい。礼をして
おく。教室の微妙なものを見る目線とざわめきが沈黙に変わるものの、丹沢の
から放出される殺気は通常の三倍を上回る。背後が赤くすらみえる。ここで下
手につつくといらぬ蛇を出すに違いない。
 とりあえず椅子に座ることにした。背中につき刺さる丹沢の視線が痛い。
「よかったね、橘。言い訳完璧に効いたみたいで」
 肩を叩かれ振り向く。吉岡だ。
 一発で疑問が氷解した。
 そうだ。俺は吉岡にサボりの口実を頼んだのだ。
「……ああ、お前、ところでなんて言い訳したんだ」
 満面の笑みが目の前に広がっていた。
「あ、言い訳ね。お前がお腹を押さえる下級生に責任とってと責められてたと」
 血管の切れる音が聞こえた、ような気がした。
「っこのアホ、土に返れ」
 顔にストレート。言い返す間も与えず沈黙させる。吉岡の瞳孔に走馬灯が駆
け巡り、頭の上に金の輪がついているように見えるが無視。追い討ちを踵で繰
り出す。ああ、確かに教室の誰もが突っ込む隙間すらないのは認める、が。
「た、橘くん、だから先生に相談して」
 教師が情けなく言葉を発する。その言葉を皮切りに
「幸一、今すぐ相談なさい、そしてそこから飛び降りなさいっ」
 丹沢が殺気を全開にして立ち上がる。教室に走ったざわめきが端まで伝わり、
そこでストップする。真のボス、千島桔梗が手を上げて立ち上がる。
「静まれ。少々うるさいな」
 それだけで教室に完璧な静寂が訪れる。
「橘。私も相談に乗ってやるが、命は保障しない」
 教室の温度が一気に下がる。背筋に冷たいものが走った。
 あーあ、殺される。
 そんな言葉がどこからともなく漏れる。俺もそう思う。千島に殺されるくら
いなら、自分から白状しよう。
「あーもうサボりだよサボりですサボりました。四時間目はサボっていました。
吉岡のアホが勝手に意味分からん言い訳考えたんだ」
 足元のサルを踏みつける。何かの物が潰れる音がしたが聞かなかったことに
する。
「橘、吉岡。この時間が終わったら生徒指導室前に集合しろ。話は私がつけて
おいてやる」
 おろおろする国語教師を遮り、千島が一瞬で治める。原形をとどめていない
吉岡を睨めつけ、襟を引っ張り形だけ椅子に座らせた。
 ……
 …………
 ………………
 授業が終わり、まだ息を吹き返さない吉岡の襟首をつかんで生徒指導室、通
称リンチ室の前へ。反省文三枚と理由を書いた紙を渡される。授業中の極度な
私語だそうだ。もし無断欠席ならば掃除一週間がついてきたところだが、千島
は無断欠席の件については触れなかったのだろう。微妙な心配りに感謝する。
「あれ、僕なんでリンチ室の前にいるの」
「お前だろ原因はこの無能が」
 回し蹴り。ようやく復活した吉岡をもう一度葬った。
 すまん、お前の犠牲は忘れない。
 教室に戻ろう。

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