誕生詩 -Prelude-

第5話

「橘、もうすぐ昼休みだよ。起きろって」
 吉岡の声が背後に聞こえる。朝が早すぎて一時間目から熟睡していたらしい。
時計を見る。十二時手前。勝負をかけるにはちょうどいい。
「吉岡、俺の代わりに授業に出ていてくれ。購買行ってくる」
 教室の後ろを寝転びながら移動し、
「ん、誰か動いとるのか、そこ」
 しまった。ばれた。
 ごき。
「ぐぁ」
「あ、先生。ちょっと足元にゴキブリがいたから踏み潰しただけです。ごめん
なさい」
「……何か変な声が聞こえたような気もするが」
「あ、先生。さっきのはゴキブリの断末魔です」
 ちなみにさっきのは俺の断末魔である。この地方にゴキブリはいない、いな
いのだが丹沢が満面の笑みでごまかしに徹する。そのごまかしの間に教室の下
窓へと身体を滑り込ませた。
 脱走成功。
 背中に手を伸ばすと一枚の紙が添えられていた。
 どうやら丹沢のパシリも引き受けざるを得ないようだ。人を踏みつけた上に
パシらせる。人使いの荒さで丹沢の右に出る奴はいないだろう。
 廊下を見据え、走る。
 長引く授業をボイコットし、寝ぼけた頭をフル回転させてパンを求めて教室
から購買まで走る。途中に立つ教師をフェイントで交わし、職員室前を擬態で
やり過ごし、人だかりができていれば不意打ちを食らわせて進路を作り、戦略
的撤退と突撃を繰り返し、最強生物購買のおばちゃんの前にたどり着く。
 人、それをエクストリーム障害物走と呼ぶ。
 ここで忘れてはいけないのが財布だ。あまりに急ぎすぎて財布を忘れること
がある。新入生の三大敗因に数えられるミスだ。だが、俺くらいになると財布
は一時間目開始と同時にポケットに入っている。完璧だ。
 先んずれば人を制す、とはよく言ったもので、先んずれば自分のパンばかり
か利益すらも確保できる。
 どういうことか。
 購買の横でパンを横流しだ。かつてイケナイ本をコピーして売っていた奴が
いたが、そんな危ない橋を渡るくらいなら確実に儲けられるパンの横流しに精
を出すべきである。そもそも同人という血と汗の結晶をコピーするなど、言語
道断である。
「おばちゃん、やっぱ同人誌は、じゃなかった。こっからここまで全部売って
くれ」
 瞬間、首にフランスパンを突きつけられる。
「言い直すかい、それとも並び直すかい」
 最強生物の機嫌をそこねてもいけない。
「ごめんなさい、お姉さん、ここらここまで全部いただけますか」
「はいはい二千五百円ね」
 一秒未満の計算に即金で払い、既にできている列の後ろあたりで売りさばく
。一年生の運動部あたりが狙い目だ。数十円ずつの値上げでも面白いように買
い手がつく。教師にばれないように親しく会話すると見せかけ売りつける。パ
ンの値段と需要を熟知していないとできない裏家業だ。二千五百円が三千二百
円に化け、今日学校に来た意味を実感する。
 学校ってのは休み時間のためにあるようなものよ。
 母親の口癖だった。
 ほんとうに馬鹿な母親だった。馬鹿じゃなかったらまだまだ生きていただろ
うに。
 教室に戻る。
「ほら、丹沢。お前の分」
「ありがと、幸一という名の家畜もエサ食べなよ」
「素直に感謝しろよ。金はまた今度請求するからな」
 吉岡に向き直る。
「おい吉岡という名の家畜。エサ買ってきてやったぞ」
「普通に吉岡と言えないのか」
 俺だってストレス発散の場が欲しいのだ。
「次のパシリはお前な。丹沢に踏み潰されてろ」
「……あれは、勘弁だね」
 不意打ちで脊堆を踏まれるのは危険である。
「ま、とりあえず屋上行くか」
 コートを持って二人して階段を登る。四階から塔屋。わずかばかり重いステ
ンレスの扉に手をかける。
 青い空が目に飛び込んできた。千切れ雲が浮かび、爽やかな春の訪れもそこ
まで来ている。風はまだ冷たいけれど薄桃色の香る空気。
「うん、二人はいいね。最高だよ橘。一人最高同盟主催の僕としては」
「一緒にするな。一人で最高になってろ」
 パンを放り込む。吉岡にパンを渡し、適当な話で盛り上がる。
「そうそう橘。お前バンドやってるよね」
 最後のパンの包みを開け、吉岡が口を開く。
「ああ、いまさらどうした」
 相づちを打つ。今更過ぎる話の振りだ。
「いや、それがさ」
「ああ、皆まで言うな。女誘うから無料でチケットくれ、だろ。駄目だ。とい
うかお前には無理だ。一生独り身でいろ」
「何言ってんだよ。僕が一人でいる限り、橘と一緒にいてやるよ」
 格好いいのか気持ち悪いのか分からない、が。右手が動き、吉岡の鼻を捉え
ていた。
「すまん、手が勝手に」
「ってなんで殴られてんだよ僕」
 どうやら反射的に危険フラグを叩き割ってしまったらしい。
「悪い吉岡。だけどお前の顔に鼻がついていたからさ」
「ああ、ありがと」
 納得した。アホだ。
「って鼻がついてて悪いのか」
「お前が呼吸したら二酸化炭素が増えて大問題だろ。国際的に問題となってい
るんだ」
 仕方がないので事実を告げる。
「……そうか。国際問題だったのか、僕の存在って」
 納得した。やっぱりアホだ。
「ま、俺がいれば大丈夫だ。これからもお前の呼吸を少なくしてやるよ」
 親指をクイ、と立てておく。
「ありがと、橘。それよりちょっと変な噂聞いてさ。うちのクラスの新島、い
るよね」
 これまた突然の話の振りである。新島亜紀。存在だけは有名な謎の生徒だ。
「朝教室で見たけど、どうかしたか。やめとけ。人間顔が全てじゃないの典型
例だ」
 飲み物を飲みながら聞く。
「その新島がお前の音楽の公演、行ってたらしいぞ」
 鼻から吹いた。
「吉岡殺す気かてめえ」
「橘が自分で吹いたんでしょうが」
 深呼吸を二回半。吉岡の言葉の意味を理解しようと頭を整理する。
 公演の半分は固定客で埋まる。代表例が坂本講師だ。
 そして半分は半固定客で埋まる。代表例が丹沢風花だ。
 公演自体は自由に入ることができるので誰が来ていても不思議ではないのだ
けれどほとんどは顔見知りであり、
「……なんで新島よ」
 まだ校長が来ているといわれた方が理解できた。
「いや、まあ噂だから。新島のことだしさ、何を思いついても不思議じゃない
けどね」
 そう締めくくって吉岡が立ち上がる。
 何を思いついても不思議じゃない。それは事実かもしれないが、話はそんな
単純ではない。
 たかだか一介の高校生率いるバンドだ。わざわざ公演日を調べるだけでも難
しいのに、チケットを買い、足を運ぶとなってはよほどの好き物であろう。そ
もそも公演チケットは友人から友人への販売だ。知人すらいなさそうな新島が
チケットを手に入れるなど、不可能だ。
「さて、四時間目だね。僕は出ないとやばいから行くけど、橘はサボるの」
「ああ、サボる」
 話に心が浮ついた。
「あっそ。それなら欠席がばれないように言い訳しておいてやるよ」
 言葉に甘えることにした。
「……頼んだ。誰にも突っ込まれないような言い訳で頼む」
「わかった、誰にも突っ込まれない飛びっきりの理由だな」
 笑顔の吉岡に右手を上げる。
 一瞬、不安がよぎった。
 吉岡の考え付く理由なぞ、ろくなものではあるまい。が、とく既に遅し。小
さく聞こえる扉の閉まる音に吉岡の足音が消え、一人になる。
 程なくしてチャイムが鳴り、学校が静けさを取り戻す。空は動こうとしない
雲に青白い空。ずっと向こうには冬枯れの残ったままの山が横たわり、白い街
並みが広がる。校庭ではどこかのクラスの体育が始まり、ボールが飛び交う。
遠くを電車の走る音が混じり、どこまでも広い北の台地の平野が続く。ずっと
向こうで交わった空が白みがかった大気に溢れ、それを切り裂く飛行機雲。気
の早い桜がちらほらと咲きかける、春へのステップだ。絶好の音楽日和。そう
思った。
 制服のポケットを探る。昨日坂本講師と創りあげた新曲の楽譜を取り出し、
口笛でメロディーラインを演奏。
 悪くはない。むしろいい感じなのだが、イントロから先が思いつかない。こ
うやってボツになっていく曲なんて腐るほどにあるのだが、なぜかこの旋律に
はこだわりたかった。
 が、煮詰まっても仕方ない。気分転換をしよう。というわけで
「校長のつるっぱげー」
 とりあえず叫んでみた。瞬間、ボールと戯れていた一年生がこちらを振り返
る。ちなみに校長はつるっぱげではなく、別にカツラという裏設定も隠されて
いない。
 ……ああ、アホらしい。そして退屈だ。
 その場に寝転び、春の暖かな空気を吸い込んで横になる。まぶたに陽だまり
の温かみを感じ、まぶしさに慣れたて意識が飛ぶ。おやすみ、世界。こんにち
は、夢。

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